風の本棚 17

(1998.10.8-1998.12.20)


■斉藤学「魂の家族を求めて」

■高松伸「詩的空間へ」

■森本哲郎「ウィーン」

■カール・ケーニッヒ「子どもが3つになるまでに」

■村上春樹「約束された場所で underground2」

■西平直「魂のアイデンティティ」

■志村ふくみ「色を奏でる」

■梶田叡一「意識としての自己」

■アルバート・ズスマン「人智学講座 魂の扉・十二感覚」

■ヴァルター・ホルツアッペル「体と意識をつなぐ四つの臓器」

 

 

斉藤学「魂の家族を求めて」


1998.10.8

 

■斉藤学「魂の家族を求めて/私のセルフヘルプ・グループ論」

 (小学館文庫/1998.11.1発行)

 少し前に、「セルフヘルプ・グループ」や「アルコホリクス・アノニマス」などについて知る機会があり、それについてまとまって理解するためのガイドがあればと思っていたのですがちょうど、折良く、1995年に単行本として刊行されたらしい本書が文庫化されているのを見つけて、早速読んでみました。

 「アルコール・薬物依存症、子供への虐待、拒食・過食症などから、自己回復した人びとの感動の物語」とありますが、ここには、その「自己回復」へと向かうために何が必要なのか、その模索のための「セルフヘルプ・グループ」などの実際が著者の模索を通じて極めて熱く語られているように思います。

 著者は本書のタイトルにもなっているように「魂の家族」、つまり「同じ体験をしたものどうしが、それを分かち合い、癒し合うための『心の家族』」が現代という時代のヒントとして提示しています。そうした「魂の家族」では、「スピリチュアル・グロウス(霊的成長)」が大切にされ、そのメンバーたちは、問題縁による集まりのなかに「姿を現わす愛」を見出すといいます。

 この「魂の家族」は、そこに治療者と被治療者という関係があるのではなく、まさにアルコール・薬物依存症、子供への虐待、拒食・過食症などのような「「同じ体験をしたものどうしが、それを分かち合い、癒し合う」ということが重要であり、そうしたことによって「霊的成長」がなされる可能性があり、そしてその「霊的成長」のキーになるのが、そのグループ全体の高次の自我とでもいえる「集まりのなかに姿を現わす愛」だというのです。その集合自我的な「愛」が興味のあるところですけど、本書ではそこらへんについては深くふれていないようですし、おそらくそうしたことについては、示唆する以上のことは神秘学的な観点を導入しない限り難しいのだろうと思います。

 さて、本書を読みながらずっと感じざるをえなかったのは、なぜ人は、さまざまな意味での「パワー幻想」に追い立てられて他者に対して攻撃的になったり、それを自虐化したりするのだろうそうせざるをえないような状態に陥ってしまうのだろうということでした。

 人は、自分が自分であることに耐えられず、常に人より優れ、尊敬される存在になろうとし、それができないか自分でそう思えないときそのエネルギーを破壊的なものに向けてしまうようです。もちろん人より優れ、尊敬されようとするための自助努力そのものはとても重要なことなのかもしれないのですが、それがただただ自己目的化した場合、そうした自助努力のエネルギーそのものが行き場を失いアルコール・薬物依存症、子供への虐待、拒食・過食症などというようなあり方へ向かってしまうことが多いのではないでしょうか。

 たしかにそうした破壊的なあり方に陥ってしまった人たちやそういう人たちと共依存関係しか持てなくなってしまった人たちがそこから抜け出すために、「魂の家族」を持つということはとても重要な契機になるように思うのですが、やはり、そこからもう一歩先に進む必要があるようにも思いました。かつて人類に集合自我が注ぎ込まれたものの、それはやがてそれが個的な自我へと成長するためのものであったように。

 さて、最後に、本書の「解説」(鈴木りえこ)から、本書の内容を適切に述べられているところを。

『魂の家族を求めて』のなかで、斉藤氏は「人は自分の育った家族を温かいもの、親の愛に包まれていたものとして回想したがる。そのほうがこころの安全を保つのに都合がよいからだ」、しかし「最もありふれたトラウマ(心的外傷)の発生源は実は家族なのだ」と述べている。

『「家族」という名の孤独』では、斉藤氏は男性たちがいくつになっても女性に「母親像」を求め甘えつづけている、と主張している。男女の役割分担意識が根強い日本社会で、自立した人間を装いながら、男性たちは精神的には女性に依存している。依存する「母親」がいなくなると、彼らはその役割を「職場」に求める。職場の温もりと安心感からはじき出されることを恐れて、過労になるまで働く。

 一方、女性たちは「合理的」な選択をして家庭に入る。やがて夫や子供に依存されることに依存する「共依存」関係を形成するようになる。日本人のあらゆる生活習慣にみられるこの依存・共依存関係が、健全な大人の関係と考えられているところに日本社会の病理がある、と斉藤氏は指摘している。

 「家族にとって自分はなくてはならない存在」と思うことで、自己欺瞞を重ねる女性たち。彼女たちは、男性が職場でパワーを追い求めるように、エネルギーを家庭内のパワーゲームにつぎ込む。ここで言うパワーとは、家族を支配し操縦しようとする努力を含んでいる。母親たちは、学歴主義の日本社会で最も自己の評価を高める手段を選ぶ。

 自分に注がれる「愛情」が、じつは親自身の「自己愛」であることを、子どもたちは敏感に感じている。「子どものため」は「自分のため」であり、その結果子どもたちは受験勉強に追われている。あるいは自分の生き方に無理を感じた家族のメンバーが家庭内で暴力を振るう。昔から存在した幼時虐待や家庭内暴力について、いまやっと人々が語れるようになったのだ。これにかんする斉藤氏の貢献は大きいだろう。(P309-310)

 こうしたことは、実はあらためて語られる以前の、ごくごくあたりまえのことであると思うのだけれど、実際の社会では、やっと認識されはじめたところらしい。それこそが「病」なのだといえるのかもしれないと思うし、「魂の家族」が必要とされているという事態そのものもまさに「病」以外の何者でもにように思う。

 

 

高松伸「詩的空間へ」


1998.10.14

 

■高松伸 詩的空間へ

 (新建築1998年10月号別冊/日本現代建築シリーズ19)

 建築に興味を持ち始めたのはそう昔のことではない、ごく最近のこと。それはシュタイナーの建築に関する講義を読んだころからぼくのなかで、あるイメージのかたちのように広がりはじめた。といっても、専門的なことはまるでわからぬまま、かたちのもつ不思議を予感しはじめたというか。

 あるかたちの内部で人は秘儀を体験する。教会や神殿などはそのかたちでしか体験できないものを人に与えてきたのではないか。ピラミッドというかたちもその典型的なひとつ。ピラミッドパワーというのも有名になったが、そのかたちの内部にいることで人は特定のパワーを受けることができる。墓も本来はそこに死者が受けるべき力のために自ずとその形をとるようになったものではないだろうか。ストーンサークルのような磁場が形成されるのもそこには必然的な場と形との幾何学的関係があるのだろう。

 現代において、建築は無機化し、ただそこに目的に応じて人を収容するだけの空間づくりになってしまっているのではないか。その内部にあることによって生み出されるものにまったく無関心であるがゆえに作り出される機械的なかたち。日々生み出されているマンションのあの機械的な間取りたち。アメニティ空間といわれながら、そこからはパターン化されたアメニティという金太郎アメのような生活しかイメージできない。

 さて、前置きがすっかり長くなってしまったのだが、高松伸。この本を手に取るまでまったく知らなかった建築家なのだが、その生み出した建築の写真、スケッチなどを見るうちに、そのイメージの豊穣に釘付けになってしまった。決して生命的なものを感じさせる建築様式ではないのだが、そこに展開されているかたちと空間は、まるで現代詩を読みながら感じるイメージを伴いながら、過去と現代と未来をつなぐある種の神殿のようなものを予感させる。

 高松伸は島根の生まれ。そのためもあるのだろう、島根・鳥取にはその生み出した建築が数多く分布している。島根といえば、出雲。あの出雲大社は、古代世界における天まで伸びる神殿。あのシュメールのジグラッドとの関連さえ指摘される建築。

 もちろん、この本をみるかぎり高松伸の建築は、ただ神殿と呼ぶには、あまりにも現代の「強度」とでもいうものを数多く内包し、しかも建築によってまったく違った角度から空間の幾何学化とでもいうものがなされている。

 しかし、やはり高松伸の建築は現代の神殿建築であるといえるかもしれない。その神殿の内部で人はどんな秘儀を体験しうるのだろう。かつて神殿が担っていたものをもはや現代人は担ってはいない。しかし、だからこそその現代における可能性を宗教の内にではなく、あらゆる目的をもった空間のうちに模索しなければならないのではないだろうか。

 少し前に上松祐二の「シュタイナー・建築/そして建築が人間になる」が刊行されて以来、折にふれそれを眺めているのだが、この高松伸の特集もまたそれと同じ場所に置かれることになると思う。「高松伸・建築」は、ひょっとしたら「建築が神殿になる」というイメージでとらえられるかもしれない。であれば、そこで生まれる神話についてイメージを広げてみるのもあながち不毛なことではないだろう。

 

 

森本哲郎「ウィーン」


1998.10.17

 

■森本哲郎「ウィーン」(文春文庫/1998.10.10)

 本書は、1992年に「世界の都市の物語」というシリーズで刊行されたものの文庫版。森本哲郎らしい魅力的な語り口で、特に前世紀末前後のウィーンを中心にさまざまな人物が登場し、シュタイナーもただ名前と著著名だけですが登場したりしていています。

 ちょうど、シュタイナーの自伝(人智学出版社)を並行してあらためて読んでいるところなのですが、シュタイナーもウィーナー・ノイシュタット実業学校やウィーン工科大学に通っていたりした関係で1872-1890頃、ウィーンでその若き時代を過ごしています。世紀末のウィーンでのシュタイナーは、あの「自由の哲学」を発酵させたといえるのですが、そういうウィーンの背景について本書はさまざまなことをかいま見せてくれるような気がします。

 さて、ウィーンといえば、ぼくが最初に意識したウィーンは「ウィーン学団」そして「ヴィトゲンシュタインのウィーン」。ふつうイメージされるイメージとは違ったウィーンですが、ぼくにとって最初のウィーンのイメージは、ヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で次のような言葉を生み出したことに象徴されるものです。

これまで哲学的な問題について述べられてきた命題の多くは、誤りなのではない。無意味(ナンセンス)なのだ。哲学的な問題にわれわれは答えることができない。ただ、それが無意味であることを証明できるにすぎない。

 ぼくは二十歳前後、こうした言語観を濃厚にもっていましたし、科学哲学とかいうことにかなり興味を持っていました。ヴィトゲンシュタインの「哲学探求」もその流れのなかにあり、きわめて記号的・語用論的な認識を持っていました。

 背景としては、あまりに稚拙な文学観などについていけなくて、きちんと思考することに切実さと魅力を感じていたからということもあったように思います。そういうぼくにとって、ヴィトゲンシュタインの言葉はぴたっとはまってきたという感じがしていました。そしてその頃ちょうど出た本に「ヴィトゲンシュタインのウィーン」という本があったわけです。この森本哲郎さんの本にも、この懐かしい本からの引用がでていたので、とてもなつかしい気持ちになりました。

 ひとそれぞれウィーンのイメージはあると思うのですけど、本書は、そういうウィーンのイメージを懐かしく喚起してくれると同時に、あのウィーンの世紀末の光と影を思うことでまさにこの100年後の世紀末の状況において、自分が今なにをしようとしているのかということをある意味で俯瞰させてくれるようなところもあるのではないかと思います。

 こうしてインターネットで、シュタイナーなどについて語っていることも、この世紀末の光と影なわけですから。

 

 

カール・ケーニッヒ「子どもが3つになるまでに」


1998.11.1

 

■カール・ケーニッヒ「子どもが3つになるまでに/シュタイナー教育入門」

 (そのだ・としこ訳/パロル舎/1998.5.30)

 シュタイナーは、たとえば1923年のイギリスのイルクリイでの夏期教育講座「現代の教育はどうあるべきか」(人智学出版社/GA307)の第6講で子どもはとくに人生最初の三年間は最も重要なものであり、感覚器官そのものであるということを充分に認識しなければならないとし、

人間の生全体にとって極めて重要な三つの活動、すなわち、歩く、話す、考えるということが、人生の初期にどのように獲得される か、ということが考察されねばなりません。この3つの能力は、生全体にとって極めて重要なものとして、人生の初期に獲得されるのであります。(P143)

 と述べていますが、本書はその人生最初の三年間に獲得される「歩く、話す、考える」ことをテーマに、それを深くほりさげたものです。

 この三つの霊的な贈り物のおかげがあってこそ、人間は自分自身を認識しそれを探求する能力を与えられた存在となることができるにもかかわらずその「歩く、話す、考える」について正当な評価がなされていないと著者はまえがきで述べています。本書が書かれたのは1957年のことですから、現在はどうかわかりませんが本書を読んで、その著者のいわんとすることが切実に実感できました。

 また、シュタイナーは、人間には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の5感だけではなく、さらに熱感覚、平衡感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚(思考感覚)、自我感覚を加えた12感覚があるという12感覚論を提示していますが、著者は「人間のもつ3つの最高感覚」である話す感覚(言語感覚)、考える感覚(思考感覚)、自我の感覚(自我感覚)は 「直立歩行、言葉、思考が発達した結果であると認めたときはじめて、生まれてから三歳になるまでの期間に人間の精神が目をさますことの本当の意味を理解できる」というのです。

 人智学は自我論であるともいわれますが、そのことを理解するための基礎として、 「直立歩行、言葉、思考」という人生の最初に獲得される「三つの霊的な贈り物」について見ていくことが非常に重要なことであることが本書からは切々と伝わってきます。

 まず人間が動物ではなく人間であるための最初の基礎として直立歩行するという能力が生まれて最初の一年目に獲得され、そのことによって次の言葉を話す能力が二年目に獲得され、さらに三年目にそうした最初の能力から思考が芽生えていく。そのあたりまえのようなことが、いかに驚くべきことか、その秘密を解くことこそが人間の謎を解くためにはどうしても必要なことであるということがわかります。そして、なぜシュタイナーが言語感覚、思考感覚、自我感覚を「人間のもつ3つの最高感覚」であるというふうに考えていたのかがまるでスリリングなミステリーを読むときのような感じをともなってぐいぐいと迫ってきます。

 訳者のそのだ・としこさんが「訳者あとがき」で、著者のカール・ケーニッヒのことばを引用しながら、次のように述べられていますが、深く同感できるものです。本書は、シュタイナーの人智学を理解するためにも非常に重要なものであり、ぜひ多くの方に読んでもらいたいものです。

 わたしたち誰もが、こども時代に、歩行によって空間を支配し、言葉によってまわりの世界を所有し、記憶と空想の助けを得て思考をめざめさせ、自我意識の誕生をへて、TわたしUという存在になれたこと。

TわたしUという言葉のもつ意味。

 「自分と出会った自己の呼び声で、眠っていた思考がめざめます。…このときから、もう、こどもは、はっきり自覚してTわたしUと言えるようになります。…人が自分をTわたしUと呼ぶとき、TわたしUはもはや万物のうちの一つの存在などではなく、TわたしUがあるから万物が存在できるのです。」

 自分という存在に意味と力を与えてくれる文章で、ここを読むたびにいつも勇気づけられます。

 

 

村上春樹「約束された場所で」


1998.11.28

 

■村上春樹「約束された場所で underground2」

 (文藝春秋/1998.11.30)

 文藝春秋の1998年4月号から11月号に連載された「ポストアンダーグラウンド」に、「アンダーグラウンド」出版後とこの8月に行なわれた河合隼雄との対話を加えた、村上春樹の新刊です。

 ここには、オウム真理教の信徒だった人たちへのインタビューの記録が収められています。前回の「アンダーグラウンド」は地下鉄サリン事件の被害者に対するインタビューの記録だったのですが、副題が「underground2」となっているように、「アンダーグラウンド」と本書は合わせ鏡のような役割を持っているといえます。

 とはいえ、本書のタイトルは「約束された場所で」となっているように、「アンダーグラウンド」とは位相を異にしているように思われます。「約束された場所で」というのは、扉に置かれた「マーク・ストランド」の詩から引かれているのだけれど、村上春樹が「約束された場所で」というタイトルをなぜ選んだのかということを、読者は本書を読みながら考えていくことになるのだと思います。そしてそれに答える作業というのはおそらく自らが自らに問いかける作業となっていくのではないかと。

 文芸春秋での「ポストアンダーグラウンド」の連載を読んでいたので、それはあらためて後で読み直すことにして、まずは河合隼雄との対話と村上春樹のまえがき、あとがきを読んでみてあらためて、村上春樹のとっている基本的な姿勢への共感となぜこの作家の作品をデビュー以来ずっと読み続けているのかということを深く納得させられた気がしました。もちろん20年近く前にはこの作家のある種のスタイルに引かれていたのですがそれだけではない何かをずっと感じていました。

 それは「ハードボイルドワンダーランド」などから少しずつ感じ続けてきた自分のなかの「闇」の源泉を探す旅というかそれが自分を取り巻いている世界とどう関係しているのか、またその関係が壊れているということや、それを修復する、いやあらためてつくっていくためにはどうしたらいいのか・・・そうした半ば言葉にならないものを作品にしてくれている、ということなのではなかったのかということだと思います。

 そして、「アンダーグラウンド」が出版されたときに、「ああ、これだったんだな」とやっと思える部分がありましたし、それが今回の「約束された場所で」でもっと意識のなかに入ってきたようなそんな感じがしています。それは、ぼくがシュタイナーの神秘学になぜひかれているのかという部分ともかなり通底しているようにも思います。そのことを象徴的に表現しているのが、河合隼雄との二つ目の対談のタイトル「『悪』を抱えて生きる」ということだと思います。

 おそらくこうした村上春樹の姿勢は地下鉄サリン事件だけではなく神戸の少年Aの事件などとも通底しているであろうものをそれぞれが見つめ直していくためには不可欠なものを提示してくれているように思います。

 

 

西平直「魂のアイデンティティ」


1998.12.5

 

■西平直「魂のアイデンティティ/心をめぐるある遍歴」

 (金子書房/1998.11.25)

 教育学を研究している著者が、その研究会の席上で登校拒否研究の典型的な一事例としてとりあげられていた少年と十年を超えて語り合ってきたことを「体験に即したフィクション」として記録したのが本書です。

 著者に関しては1年半ほどまえに、ユング、ケン・ウィルバー、シュタイナーを扱ったその著書「魂のライフサイクル」(東京大学出版会)をご紹介したことがあるのですが、本書はその執筆と並行して進めてきたものだといいます。

 扱われているのは、おそらくその対話の時間軸に沿ってその都度浮上してきたと思われる次の5つのテーマです。

I 仮面のアイデンティティ−−本当の自分とは何か

II 実存的アイデンティティ−−信仰のアイデンティティをめぐって

III 心のアイデンティティ−−無意識的なエネルギ

IV トランスパーソナルなアイデンティティ−−自己をゆるめていくこと

V スピリチュアルなアイデンティティ−−魂のアイデンティティという視点

 著者はぼくと同世代ということもあり、ここでとりげられている「アイデンティティ」の問題はぼくにとってはどれもそれなりにとくに高校生の頃から今までおりにふれていろいろ考えてきたことのあるテーマなので著者がそうしたテーマについて繰り広げてきたであろう「魂のドラマ」をぼくなりのかたちで捉え直すことができました。

 ただ、とくにシュタイナーの神秘学にかなりつきあっている方にとってはそれぞれのテーマの掘り下げ方と表現の仕方がどこか中途半端な感じがするのではないかも思いました。というよりは、シュタイナーをちゃんと読んでいるとはあまり思えないという印象です。それと教育学研究者であるとうこともあるのでしょうが、テーマをある種の「知識」という「箱」に整理してしまっているようなそんな印象も強くありました。

 知識の箱というよりは、わりと図式的な説明の仕方になっているといったほうがいいかもしれません。テーマ的にかなりな部分がとりあげられているという感じがするのですけど比較的少ない分量のなかに、それらのテーマが整然と整理されていて、整理されている以上のつっこみの部分がほとんどなかったので、その図式的な説明の部分がめだってしまっていると感じたのです。

 とはいえ、本書を出版するにあたって、著者がそのモデルとなっている「実際の彼」に承認を得、その「実際の彼」から著者に送られてきた手紙というのは著者の「研究」ということの姿勢の誠実さを感じさせるものであるとともに「研究」するという行為やその在り方への問いかけとしてもとても興味深いものでした。

 その手紙を読むために本書を読み進めてきたのかもしれないとさえ思える内容でしたので、それを引用紹介させていただきたいと思います。

去年、先生から私をモデルにして一冊の本をまとめられると聞いた時、正直いって『弱ったな』と思いました。たとえ実際とは設定を変えて、本で語られる『彼』が特定できないようにしていただいたとしても、やはりその元になっているのは『私』自身であることには変わらないからです。実際、私にとっても、この本の内容に当たる時期はとても困難で、また思い起こしても多くの悔いと傷みが心に浮かびます。できればそっとして、忘れてしまいたいと思います。けれども私だけの経験ならともかく、これは同時に辛抱強くお付き合いくださった先生の経験でもありますので、まさにその時は『仕方なく』ご承知したわけでした。

けれども今、原稿を読ませていただいて、やはり書いていただいてよかったと思っています。それは先生が私との関係の中から、ご自身の生き方に係わる問題を、想像以上に深く、誠実に考えていらっしゃったことがわかったからです。先生も触れられていたように、確かに私は、人のさまざまな痛みに似た体験を、心理学なり教育学なりの立場から『研究』することに、本能的な反発を感じていました。それは今も変わりません。けれども、もしその『研究』が相手を対象として扱うことを乗り越えて、本当の意味での『対話』へと発展できれば、それはとても深く、豊かな人間への認識をもたらしてくれるのではないでしょうか。

先頃のオウム事件では、宗教研究者がどのようなスタンスで、新宗教にアプローチしたらよいのかが大きな問題になりました。宗教にしても心理・教育にしても、今や多くの満たされない心の若者に係わらざるをえない時代です。研究者がどのようなスタンスをとるべきかが、鋭く問われる状況といえるのではないでしょうか。

 

 

志村ふくみ「色を奏でる」


1998.12.9

 

■色を奏でる

 志村ふくみ・文

 井上隆雄・写真

 (ちくま文庫/1998.12.3)

 「色と糸と織と」(岩波書店/1998.3)の文庫化。両氏の文庫版あとがきが付されています。

 志村ふくみさんを知ったのは、シュタイナーを読み始めてからのこと。高橋巌さんと対談されていたことから、その染色の世界を知り、「一色一生」というすでに評価の高いエッセイを読むことになりました。残念ながら、その作品を直に目にすることがいまだできないでいるのですが、エッセイ集に収められているその作品の写真を味わわせていただくたびに、その草木染の宇宙からどきどきするようなたくさんの贈り物をもらっています。

 色は生きているのだ。言葉でいえば簡単そうなことなのですけど、コンピューターでCMYKやRGBを混ぜ合わせ、数多くの色が手軽につくれるような時代になってくると、色を即物的にとらえがちです。私たちはほんとうに「生きた色」を体験し得ているのだろうか。現代人はまずその問いかけから始めなければならないようです。

 「色をいただく」というエッセイから。

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった。本にかいてあるとおりにしたのに、という。

 私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。

 雪の中でじっと春を待って芽吹きの準備をしている樹々が、その幹や枝に貯えている色をしっかり受けとめて、織の中に生かす。その道程がなくては、自然を犯すことになる。蕾にびっしりついた早春の梅の枝の花になる命をいただくのである。その梅が抱いている色は、千、万の梅の一枝の色であり、主張である。

 私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。その色と他の色を交ぜることはできない。それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。

 化学染料の場合はまったく逆である。色と色を交ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。単一の色では色に底がない。化学染料は脱色することができるが、植物染料は脱色することができない。(P16-17)

 ある意味では、コンピューターの色や化学染料の色はバーチャルリアリティの色だといえるのかもしれません。もちろん、そうした色にはそれなりの実用的な役割があり、それを単に否定するということはできませんが、もし自然の色をまったく体験することがないとしたならば、その人は「生きた色」を体験しているとはいえないのではないでしょうか。

 ともすれば、死んだ色だけではなく、死んだ思考、死んだ食物など・・・死んだものに囲まれている私たちだからこそ、日々ほんの少しでも「生きた」ものを体験する機会を大切にしたいと思うのです。

 

 

梶田叡一「意識としての自己」


1998.12.13

 

■梶田叡一「意識としての自己/自己意識研究序説」

 (金子書房/1998.11.25)

 先日ご紹介した西平直「魂のアイデンティティ/心をめぐるある遍歴」と同じく金子書房から刊行されはじめている「シリーズ・自己の探求」のうちの一冊。このシリーズは全14巻になるそうですが、ぼくの予想する限りでは、本書がそのもっとも基本となる1冊なのではないかと思います。

 この梶田叡一さんという方の「<自己>を育てる」(金子書房/1996)を読みその深い内容からいろいろ教えられることが多く、おそらく今回の新刊は、そうしたテーマをさらに包括的なかたちで、展開させたものではないかと思い読み始めたのですが、予想通り「自己」「私」ということについて考えるための基本がそこには盛り込まれていました。おそらくアカデミックなかたちで「自己」「私」について見ていくためにはぼくの知る限り本書ほどコンパクトに、しかも深く展開されているものは少ないのではないかと思いました。

 しかしどうしてもそこには限界があるようで(^^;)、それが「プロローグ」と「エピローグ」の章で如実に現われていました。本文にあたる「I <私>とは何か」から始まって、「II <公理系>としての<私>」、「III社会的主体としての<私>」IV「固有の世界としての<私>」、「V <私の世界>と<私たちの世界>と」「補章 アイデンティティの形成と探求をめぐって」、「討論」、「<私>をめぐる6つの問い」と、とても優れた内容になっているにもかかわらず、日本人特有の「お骨信仰」や血縁・遺伝子信仰にとらわれてしまっているようです。本文の内容を見れば見るほど、その内容とのギャップが目立ってしまうのですがこれが「精神科学」の光に照らされていないということなのかもしれません。

 さて、本書には重要な内容がぎっしりつまっているのですが、「補章」というかたちで収められている1997年12月20日に行なわれた「自己意識研究会例会」で著者の話に引き続いて行なわれた「討論」のなかに近畿大学民族心理研究書の山口恒正さんが次のようにコメントしているのが興味深かったのでそれをご紹介することにします。

最近実はセルフ論をやっていて、「社会心理学は面白くないな」と思っていたのです。なぜかというと、結局、こういうセルフの話をするときに、文学をやっている人とか芸術をやっている人と話していると、「人間どこに向かうべきなのか」を考えさせられる。そうすると今の社会心理学に向かっては、「お前ら価値をどう考えているのか、そこが抜けてるやん」ということになるんですね。結局のところ、今の社会心理学のメイン・ストリームは、梶田先生がおっしゃったところの二番目の段階までの話をこちゃこちゃやっているだけだなと。社会的に形成されるという段階までの話を、その過程だとかメカニズムだとか論じているだけで、その(社会的に意識が形成された)当人自身が、その後の段階としてどこに向かうのか、言い換えるなら、どこに向かう可能性があり、それが人間としてのあり方として望ましいのかどうか、という話ができていない。だから、自分自身の本源的なところを探求して、そうした自分の根っ子の部分との連携を深めて、といった段階への視点がない。芸術をやっている人たちなら、「このアスペクトが欠けていたんじゃ人間じゃないよ」と言うわけです。ここを視野に入れない心理学とは何なのか、だからつまらない、と言われていたわけです。ともかく、価値の視点をセルフ論の中にきちんと入れなくては話にならない、と私も考えていたところだったんです。という意味で、すごく今日のお話は面白かったんですけれども……。(P186-787)

 ここでいう「二番目の段階」について補足しておきますと、第一段階は、名前や性別、年齢、性格や行動において一貫して<私>であるという段階、第二段階は、社会的な位置づけや役割でのアイデンティティ、第三段階は、「主体的段階」のアイデンティティ。この段階では「自分で自分にどういう意味づけをあたえるか」ということが問題になってきます。この第二段階と第三段階について、著者は、前者を「位置付けのアイデンティティ」、後者を「宣言としてのアイデンティティ」というふうに呼んでいます。

私は、従来のアイデンティティ論で欠けがちだった重大な点の一つが、こうした「宣言としてのアイデンティティ」の面だと考えています。アイデンティティを社会的なラベリング、「位置づけ」としてだけ考えるのではなくて、能動的な自己宣言としての面を重視する、そしてその基盤となっている自分自身の確信としてのアイデンティティということに注目していく、ということが必要なのです。周囲からの位置づけと、周囲からのラベルの貼りつけとある程度まで緊張関係を持ちながら、自分という存在の独自の意味を自分なりに宣言し、そしてその宣言に従って生きていく、というタイプのアイデンティティが必要だと思うのです。(P169-160)

 著者はこの主体的アイデンティティの「水平的な拠り所」と「垂直的な拠り所」について、さらには、アイデンティティにおける「前アイデンティティ」「超アイデンティティ」「脱アイデンティティ」などについても論を展開させていて興味深いところなのですが、残念ながらここでは詳しく触れることはできません。

 ともあれ、「自己」ということについてのアプローチは、こうしたアカデミックなアプローチでは、どうしてもたとえばよく仏教などで論じられる、結局のところよくわからない「無我論」のような、唯物論の変形のようなかたちか、そうでなければ父−子−孫というかたちでのこれも唯物論の変形である血縁による継承のようなところにあいまいなかたちで収束しがちなので残念なところです。

 ちょうどシュタイナーの「宇宙言語の協和音としての人間」第5講の後半に「東洋の叡智から学んだひとたちは、世界はマーヤ(仮象、幻影 [Maja])である、ということについて語ります。しかし、世界はマーヤである、と言うなら、それはほんとうに何にもなりません。どういうふうに世界がマーヤであるのかを個々の部分において見ていかなければなりません。」とあるように自己論においても、肝心な部分について非常にあいまいなままになってしまっているのですが、そのあいまいな部分こそ「見ていかなければな」らないのではないかと思います。

 ともあれ、本書はその肝心な部分について考えるための基礎的なところについてとても適切にまとめられているのではないかと思います。

 

 

アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」


1998.12.19

 

■アルバート・ズスマン「人智学講座 魂の扉・十二感覚」

 (人智学叢書4●耕文舎+イザラ書房/1998年春)

 シュタイナーの感覚論は、5つの感覚ではなく、それ以外の7つの感覚を加えた12の感覚ということが基本となっています。通常論じられる5つの感覚というのは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。(ちなみに、仏教では、それに「意」を加えた眼耳鼻舌身意ということをいいますね。)シュタイナーはそれに次の7つの感覚を加えます。生命感覚、運動感覚、平衡感覚、熱感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚です。

 この12感覚については、主には教育に関する高橋巌さんの著作で興味をもっていたので、それについてもっと詳しく知りたいと思っていました。しかし、本書が半年ほど前に刊行されたのは知りながら、通常の書店では扱っていない関係から、読むのがやっと今になってしまいました。耕文舎からは、「人智学叢書」として「J.ぼっけみゅーる:植物の形成運動」「E.メース−クリステラー:人智学にもとづく芸術治療の実際」「W.ホルツアッペル:体と意識をつなぐ四つの臓器」を含め、現在4冊刊行されていて、今回それらをまとめて取り寄せたのですが、残念ながら、「植物の形成運動」だけは品切れになってしまっていました。

 さて、今回こうして12感覚についての精神科学的探究を読み進めながら、それがとても優れた「人智学」への「扉」にもなっていることを実感させられました。以前から、シュタイナーを読み始めた方から、シュタイナーの人智学を理解するためのアプローチ方法についていろいろご質問を受けるのですが、そのたびごとに、ぼく自身がまだまだ無理解だというのもあって、どう答えていいものか、考え込んむことが多いのですが、本書で、次のようなことが述べられているのがとても印象に残りました。

 人智学の理解へと向かう道はたくさんあります。私たちはもちろん、それらの道のなかから一つを選び取らなければなりませんが、その道は、誰もが自分の仕方で選び取ればよいのです。私は特定のテーマから出発しようと思いますが、一般的な人智学から始め、そこから特定のテーマを見出すこともできるでしょう。興味深いのはしかし、あるテーマから出発し、そしてそこから人智学へと歩み登っていくこともできるということです。この講座では一般から特殊へと向かう代わりに、最終的には全体へと到達するために、むしろ特殊から出発する逆の道を皆さんと共に歩んでいきたいと思います。

 私たちの出発点はルドルフ・シュタイナーの感覚論です。かつてルドルフ・シュタイナーは、感覚論はそもそも人智学の最初の章であると述べています。彼はそのように言うことで、感覚論が最も身近な章であることを示しています。なぜなら感覚は、まさに世界と出会うための道具なのですから。(P15)

すでに最初の晩に述べましたように、皆さんは人智学の第一章を学んできたわけですが、この第一章がどのような世界であるかがおおよそお分かりになったのではないかと思います。同じく最初の晩のことでしたが、この第一章はすべてを包括するものである、とも述べました。今私は、それに加えてこう言うことができます。人智学のどの章を選び取ろうとも、やはりそれはすべてを包括する章なのだ、と。そしてそれは、人智学の人智学たる所以なのです。人智学はいわゆる還元主義には立脚しておりません。いや、まったく反対なのです。携わる領域がごく小さなものであるにしても、それは包括的な視点から見ることなしには理解できませんし、一方、包括的な全体は小さな部分からは決して理解されえません。すべては最小単位である原子に基づいてこそ理解されるのだと言われています。しかし、一つの原子を理解するのにも、すべてを包括する世界観が必要となります。そして、感覚とはそのような小さな領域なのです。(P186)

 シュタイナーの示唆した12感覚というのは、「小さな領域」なのかもしれませんし、ひとつひとつの感覚に対して、それを実感しながらアプローチしていくというのは、あの壮大な人智学的世界へのアプローチのほんの入口なのかもしれないのですが、読み進むにつれ、それにアプローチしていくためには、人智学全体への射程が必要とされるのだということが実感されていきました。身近な自分の感覚のひとつひとつがあの壮大な世界への確かな入口であり、同時にそれらを包括することのできるものでもあるのだと。

 実際、本書を読むことは、どの感覚についても、驚きと発見の連続でした。ひとつひとつの感覚の意味するものについてもそうでしたし、感覚相互の関係についてもまた壮大な宇宙を感じさせられることになりました。そして、人智学がいかに根源的でありながらそれがいかにあらゆることに展開可能なものであるということを再認識させれらた気がします。本書は、まさしくある意味で、「人智学入門」として、同時に、つねにそこに立ち返ることのできる応用書としても位置づけることができるのではないでしょうか。

 最後に、この12感覚とその6つの対極性について、本書にまとめられてあるものを引用させていただくことにします。

●4つの肉体的感覚は4つの霊的感覚に向かい合っている

 *肉体的感覚/触覚・生命感覚・運動感覚・平衡感覚

 *霊的感覚/自我感覚・思考感覚・言語感覚・聴覚

-------------------------------------------------------------

1 触覚 12 自我感覚

境界に気づくことで    他者の境界内に入り込み

   自分自身に気づく 他者の自我に出会う

 

2 生命感覚 11 思考感覚

自らの体調の 他者の霊(思考)の

良し悪しを感知する 真実と虚偽を感知する

 

3 運動感覚 10 言語感覚

自らの活動を感知し 他者の霊的活動と

自らを身体の動きで表わす その顕れを感知する

 

4 平衡感覚 9 聴覚

重力場(創り出された世界)で 素材を形づくっていた霊を

方向づけをする 解放する(創造する力の解放)

 

●4つの魂的感覚はそれぞれ二つずつ向かい合っている

 *魂的感覚/嗅覚・味覚・熱感覚・視覚

-------------------------------------------------------------

5 嗅覚 8 熱感覚

自らを空にし 関心をもって

満たされるに任せる(物質的に) 世界へと流れ出る(非物質的に)

 

6 味覚 7 視覚

軽量しうるものを調べ 軽量しえないもの(太陽と光の

自らの小宇宙へと取り込む 作用)を大宇宙の内に体験する

(内へ向けて) (外へ向けて)

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ヴァルター・ホルツアッペル

「体と意識をつなぐ四つの臓器」


1998.12.20

 

■ヴァルター・ホルツアッペル

 「体と意識をつなぐ四つの臓器

  肝臓・肺・腎臓・心臓−−人智学的治療教育のための生理学的基礎」

 (石井秀治・三浦佳津子・吉澤明子 訳/

  耕文舎叢書4 光文社+イザラ書房 1998年春)

 本書は、スイスのドルナハとドイツのバード・ボルで行なわれた人智学的治療教育ゼミナールに基づいたもので、邦訳にもあるシュタイナーの「治療教育講義」(角川書店)や「オカルト生理学」(イザラ書房)、「精神科学と医学」とも深く関係した内容となっています。

 標題にもあるように本書は、肝臓・肺・腎臓・心臓という「四つの臓器」が主なテーマになっているのですが、それらの臓器についての現在の通常の医学的な見解を踏まえながらも、それらによっては理解できないそれらの本質に迫るものとなっています。ぼく自身、小さい頃、腎臓病で死にかけたことがあるものですから(^^;)、そういう意味でも、それらの認識の深みに驚かされました。たとえば、耳と腎臓が対応するという指摘などはどきりとさえするものでした。

 人智学的にいえば、臓器となってあらわれているのは、「エーテル体(生命体)によって生命を、アストラル体(魂体)によって魂を付与されて、自我(私)のなかに統合され」たものであり、そうした4つの構成要素は「四大元素を介して、有機的なプロセスへと介入」するものとしてとらえられています。

 つまり、「物質的なプロセスは固体(地)エレメントのなかで」、「エーテル体は液体(水)エレメントのなかで」、「アストラル体は気体(空気あるいは風)エレメントのなかで」、「自我は熱(火)エレメントのなかで」働くというのです。

 こうした観点は現代の通常の医学的観点では受け入れにくいと思われるものの本書を読み進めることで、そうした人智学的アプローチによる現代医学の補完ということが極めて重要なものであることがわかります。というのも、人智学的に臓器を認識するということは、それを「体と意識をつなぐ」ものとして総体としてとらえるものだからです。

 本書の章のタイトルにも各臓器が「体と意識を」どのように「つなぐ」ものなのかが表現されています。

・肝臓(肝臓は行為に向けて力を与える)

・肺(肺は思考にかたさを与える)

・腎臓(腎臓は魂のいとなみに生気を与える)

・心臓(心臓は内なる支えを与える)

 シュタイナーの著作・講演や人智学関連の書籍を読むにつけその内容の深さとともに、それぞれのテーマがそのテーマだけに切り離されないであらゆるものとの深い関連性ということが射程におかれているということをいつもいつも驚かざるをえませんし、その認識を得るということそのものが深い感情を伴った意志を与えてくれるような深い感動を与えてくれます。科学は単なる科学ではなく、哲学も単なる哲学ではなく、医学も単なる医学ではなく、芸術をふくめてあらゆるものがそこには内包されています。

 逆にいえば、多くの場合、なにかのテーマがあまりに閉鎖的に(専門的にのみ)扱われているとき、それらがまるで死んだものを扱っているかのように感じられてその閉鎖性に憤りさえ覚えてしまうことさえあります。人は全体としてとらえないとわからないことがありますし、宇宙も全体としてとらえないとわからないことがあります。専門分野としての部分だけが切り離されてしまうことでわからなくなってしまうことが多いのではないかと思います。そういう意味で、各専門分野の間を統合するものとしても、人智学的に認識はこれからその重要性が見直されてくるのではないでしょうか。

ルドルフ・シュタイナーは、人間学的領域や自然科学的領域など多くの領域で真実を語ってくれています。たとえそれらが、流布している見解に真っ向から対立するものであったとしてもです。彼は、そのような真実が徐々に浸透し確認されていることを辛抱強く待つことのできる人でした。しかし心臓機能に関しては、正しい理解が、すでに今現在から、人間のなかに流れ込む必要があると強調しました。

 このことが彼にとってそれほどまでに重要だったのはなぜでしょうか?それは、自分自身の心臓をどう理解しているかということが、その人間の霊的・魂的・身体的存在の体験に深く関わっているからです。(P85)

 「精神科学と医学」でも、「心臓はポンプではない」ということが強調されていましたが、本書では、たとえば心臓移植に関連した諸問題に関してもそれを人智学的にとらえた心臓そのものの認識から、心臓が「自我の臓器」であるということを見ていきます。心臓移植によって人格が変わってしまうことなどもそのことから理解できるのです。

 本書で扱われているどの臓器に関しても、その認識の深さに感嘆するばかりで、それらを詳細にご紹介する力のないことが残念ですので、興味をお持ちのかたは、このすぐれた書物を最初に挙げたシュタイナーの講演とともに併せて読まれることをおすすめします。

 さて、ご紹介の最後として、少し前に問題になった「拒食症」についてふれられていた箇所がありましたので、それをご紹介してみたいと思います。それはここでは「肺」に関連したものとしてとらええられています。

 肺の硬化傾向は、身体的空腹として生命現象のなかへ作用するだけではなく、同じような仕方で心的にも、思考形成のなかへ作用していきます。私たちは肺のモティーフを「肺は思考にかたさを与える」と表現することができるでしょう。肺の作用のこの心的側面は、強迫神経を伴う偏執狂や病理学的傾強迫症一般を引き起こすことにもなるのです。

 肺の硬化傾向の二つの側面を特徴的に示している病気があります。それは、一方では空腹をまったく感じることができず、他方では統御不可能な強迫行動が生じる病気、拒食症です。

 この病気は、思春期的拒食症とも呼ばれているように、主に思春期に発症します。ルドルフ・シュタイナーは思春期を、通常の性的成熟期という呼称に対して、地上生活の成熟期と呼んでいます。この年齢の人間は性に目覚めるばかりではなく、地上的環境のすべてに対して目覚めていくのです。しかしこの地上的環境は、若者たちにつねに受け入れられるわけではありません。彼らの内に、反抗や抵抗や拒絶が頭をもたげるようにもなるのです。拒食症の場合のその拒絶は、地上的な物質との結びつきが生まれ、食べ物が受け付けられないようになってしまうほどにも進みます。(略)

 拒食症患者は−−そのほとんど(95%)が少女なのですが−−大人になることに全力で抵抗します。彼女たちは地上的環境のなかに入っていくことを恐れているのです。思春期に到るまで、彼女たちはとりわけまじめな、聞き分けのよい子どもでした。彼女たちは、第一・七年期の自我の危機(3歳頃の反抗期)も第二・七年期のそれ(いわゆる9歳の危機、周囲の世界に対する批判)も通り抜けてこなかったように思われます。そして今、それまでやり過ごしてきたものが、倍加した勢いで取り戻されようとしているかのように見えます。(略)

 思春期拒食症の治療においては、鉄分が大きな役割を果たします。受肉のために不可欠な金属であると同時に、肺の呼吸プロセスにも結びついている鉄分、薬剤としての鉄分です。(P47-49)


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