風の本棚 16

(1998.7.31-1998.10.2)


■シュタイナー「シュタイナー経済学講座」

■与那原恵「街を泳ぐ、海を歩く」

■松本仁一「アフリカで寝る」

野島博之「謎とき日本近現代史」

■林道義「ユング思想の真髄」

■ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」

■マリー・サマー・レイン「スピリット・ソング」

■マイケル・J・ローズ「魂との対話」

■ウォルター・ワンゲリン 小説「聖書」 旧約編・新約編

■森田誠吾「明治人ものがたり」

 

 

 

シュタイナー経済学講座


1998.7.31

 

■ルドルフ・シュタイナー

 「シュタイナー経済学講座/国民経済から世界経済へ」

 (西川隆範訳/筑摩書房/1998.7.25)

 GA340 Nationaloekonomischer Kurs(「国民経済学講座」)1922年7月24日から8月6日に14回に渡ってドルナハで行なわれた経済学に関する講義の翻訳です。

 7月24日から8月6日といえば、ちょうど今頃の季節になるでしょうか。小渕内閣が発足し、経済問題が最重要課題となっている現在、通常の経済学のような抽象化されたものではなく、今自分がそのなかに加わっているものとしての「経済プロセス」についてひとりひとりが具体的に考えていくことの重要性がこの講義を読むことで再認識されるきっかけになるのではないかと思います。

 この講義では、シュタイナーの神秘学で通常イメージされるようなエーテル体やアストラル体などというようないわば特殊な用語は一切使われていませんし、超感覚的世界の認識云々に関係することについてはなにもふれられていません。ここでは、だれでもが否応なく関わっている経済プロセスの問題について自然と資本、価格・需要・供給、決済・融資・贈与、貨幣、労働、精神労働と肉体労働、私経済・国民経済・世界経済などについて抽象的にではなく、具体的に検討することがテーマとなっているのです。経済プロセスは、非常に複雑な要素が絡み合っているだけに、その基本の基本のところに立ち返り、実感としてそれをとらえるということが必要になっているのではないでしょうか。

 第14講において、シュタイナーは、次のように言っています。

 大きくマクロ的に見ると、人間の経済的な行為はすべて自然に帰します。農夫は直接自然に働きかけます。衣服を製造する者は、直接自然には働きかけませんが、その仕事は自然に帰します。仕立屋や、才知を用いているかぎりにおいて、労力を節減しています。しかし、彼の仕事は自然に帰します。非常に複雑な精神労働にいたるまで、すべては自然、あるいは「生産手段を用いた労働」にさかのぼります。とらわれのない目で見ると、「国民経済のすべては、自然に対する肉体労働に帰する」、と考えることができます。そして、労働を通して自然において創造される価値が、閉じられた国民経済の全領域に分配されるよう、考慮しなければなりません。(P270-271)

 こうした引用だけをみるとあまり現実的な感じがしなかったりしますが^^;、現実的な感じがしないというところにこそ現代のわれわれの病があるのかもしれません。

 この講義で、シュタイナーは、経済ユートピアのようなものを提唱しているのではなく、現実であると思いこんでいるものではなく、まさに現実に起こっていることを非常に具体的に示唆しながら、現実に向かい合うことを求めているのだと思います。

 たとえば、この講義でくり返し述べられていることのひとつに、労働と賃金の問題があります。労働は決して売買されてはならず、労働によって生産されるものを経営者が買い取るかたちで金銭が支払われるというのでなければならない。経営者が労働者の労働に賃金を支払うならば、労働者は自分を経営者に売っていることになるというのです。自分を売るというのは、まさに人身売買です。

 「人間の経済的な行為はすべて自然に帰する」というのも、自分がいま行なっている行為の根源について見ていかなければならないということだと思うのです。でなければ、労働に対して賃金が支払われようと商品に対して賃金が支払われようと、どうでもよいことになってしまいます。しかし、それはどうでもよいことではないということこそ、再認識する必要のあることではないかと思います。ここでいう「商品」というのは、先の引用からもわかるように、技術やサービス、精神労働などまでをふくんだものです。

 今日、大変重くのしかかっているのは、自由に展望することによって、文化的弊害を治療しようとする試みに対して、非常な妨害があることです。処方箋として、恐ろしくたくさんのことが言いふらされています。しかし、現実に分け入っていこうという意志は薄弱です。今日、人間は真理から離れ、人間の本質に由来する正義や、人間の進化の可能性からも離れ、実生活からさえ次第に遠ざかっています。真実の言葉から空言へ、正義の感覚から形式的なものへ、実生活から単なる生活の退屈な繰り返しへと、退行しているのです。物事のなかに分け入り、現実を凝視する意志を発展させないかぎり、わたしたちは「決まり文句・因習・退屈な繰り返し」という、三重の虚偽から抜け出すことはできません。わたしたちは、このような病弊を学問的に研究しようとする者です。今日、「現実に分け入っていこう」という意志を、真剣に持っている人は非常に少ないので、恐ろしい弊害を引き起こす扇動的な空言が、世界には満ち溢れているのです。(P279)

 この言葉は、1922年に語られたものですが、この内容はさらにエスカレートした状態で現代へとそのままあてはまります。

 「物事のなかに分け入り、現実を凝視する意志を発展」させる勇気がどうしても必要なのですが、そのためには、まず自分「なかに分け入り、現実を凝視する意志を発展」させなければなりません。しかし、そのことこそが多くの人がもっとも恐れていることなのではないでしょうか。アストラル的歓楽にふけることを生きる目的だと勘違いしていて、そこからでることを恐れているということです。だから、「「決まり文句・因習・退屈な繰り返し」という、三重の虚偽から抜け出すこと」ができないわけです。

 経済プロセスについて考えるということを抽象的にではなく現実的に行なうということは、「物事のなかに分け入り、現実を凝視する意志を発展」させることでもある。そのことをまず認識することが求められているのだといえます。

 シュタイナーの経済に関する視点は、日本ではほとんど注目されていませんが、教育についての講義と社会問題についての講義は、かなり平行して行なわれていたようですし、密接に関連したものでもあります。そういう意味でも、「社会の未来」や「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」とともにもっと注目されてもいいのではないかと思います。

 

 

 

与那原恵「街を泳ぐ、海を歩く」


1998.8.14

 

■与那原恵

 「街を泳ぐ、海を歩く/カルカッタ・沖縄・イスタンブール」

 (講談社文庫/1998.8.15発行)

 

 自分の目で見る。そのことは決して易しいことではない。

 多く、人は誰かの目で見ていることが多いように思う。そのほうがずっと楽だからだ。でも、誰かの目を借りることで自分の目は失われてゆく。

 本書を手にするまで著者の与那原恵(よなはら・けい)をまったく知らずにいたのだけれど、プロフィールのところに「アジア、南米、沖縄の各地を歩きながらエイズや売春、フェミニズム、移民……様々な社会問題を「個」の視点から追い続けている」とあることで、興味をひかれた。それと、同じ年の生まれだということ。世代論というのは決して好きなほうではないけれど、同じ時代を呼吸しながら、自分と共通する目や自分とは異なった目を確認してみたい、そう思うときがあるのだ。

 「「個」の視点から」ということは、自分の目で見るというこだと思う。みんなが見るように自分も見ておこう、というのではなく、自分がそれを見て、どう見えるか、感じるか、考えるか。そこから出発すること。本書には、そのことそのままが記されているように感じた。

 自分の目で見るということは、自分だけの目で見るということとは違う。むしろ、自分の目で見ようとしない場合のほうが、自分を囲ってしまっていることが多いのではないかと思う。自分の目で見るということは、むしろ、自分という狭い囲いから自由になることで、自分を発見していくことなのではないだろうか。

 さて、著者はかつて公立図書館に勤めていたが、その仕事を辞めてライターになったのだという。よくある話なのかもしれないけれど、そうした、自分の目で見てみよう、歩いてみよう、生きてみよう、という衝動をあくまでも大切にしようとしている著者の姿勢にはとても共感できる。

 巻末の解説で川本三郎が著者を評し、次のように述べている。

 これは与那原さんが既成の言葉や図式的な考えとは無縁なところにいるからこそ出来ることだろう。簡単なことのようだが誰にでも出来ることではない。普通は安易に「イデオロギー」や「政治」の出来合いの言葉で語ってしまうものだ。だから、「問題」や「事件」がどんどん空疎になっていく。

 与那原さんはむしろ「問題」や「事件」を一度壊そうとする。誰もがことごとしく、センセーショナルに語るオウムの事件や沖縄問題を、もろもろの既成の言葉から解き放ち、個人の静かな目で見ようとする。(P209-210)

 人は、「問題」や「事件」にとらわれ、それらが報道される視点から自由になることができなくなっているように感じることが多い。なぜそうなってしまうのだろうか。それはおそらく、それを人の目しか見ようとしないからだ。そこに、自分は参加しないで済ませようとする。そしてそれが客観的なことであるかのように錯覚する。だが、そんなことはほんとうは不可能なことなのだ。なにかを理解するということは、自分がそこに参加するということなのだから。

 少し前に、シュタイナーの「シュタイナー経済学講座」(筑摩書房)をご紹介したときに引いた次のような言葉が改めて思い出される。

 今日、大変重くのしかかっているのは、自由に展望することによって、文化的弊害を治療しようとする試みに対して、非常な妨害があることです。処方箋として、恐ろしくたくさんのことが言いふらされています。しかし、現実に分け入っていこうという意志は薄弱です。今日、人間は真理から離れ、人間の本質に由来する正義や、人間の進化の可能性からも離れ、実生活からさえ次第に遠ざかっています。真実の言葉から空言へ、正義の感覚から形式的なものへ、実生活から単なる生活の退屈な繰り返しへと、退行しているのです。物事のなかに分け入り、現実を凝視する意志を発展させないかぎり、わたしたちは「決まり文句・因習・退屈な繰り返し」という、三重の虚偽から抜け出すことはできません。わたしたちは、このような病弊を学問的に研究しようとする者です。今日、「現実に分け入っていこう」という意志を、真剣に持っている人は非常に少ないので、恐ろしい弊害を引き起こす扇動的な空言が、世界には満ち溢れているのです。(P279)

 「決まり文句・因習・退屈な繰り返し」。そうした「三重の虚偽から抜け出す」ために、自分の目で見るということから始めなければならない。そのことを、日々実感させられることが最近特に多くなっているように思う。

 本書を読みながら、著者の視線とともに歩いてみることで日々自分の関わっていることを、自分の目で見るということにアプローチしてみるのもいいのではないかと思う。いつも自分の目や言葉が「決まり文句・因習・退屈な繰り返し」になっていないかどうかを確かめながら。

 

 

 

松本仁一「アフリカで寝る」


1998.8.14

 

■松本仁一「アフリカで寝る」(朝日文庫/1998.8.1発行)

 このMLに参加されているエジプトに在住の河江さんのおかげで、自分がアフリカのことをあまりにも知らないことに気づかせられました。

 それで、アフリカについてとにかく何からでも見てみようと思ったのだけれど、どうもいきなり「アフリカの歴史」ということから入るのも、なんだかぼくの性格にも合わないし、そういうのから入ると、どうもアフリカが抽象化されてしまうような気がする。

 そこで、シュタイナー学校での歴史の授業のようにアフリカに関わるある特定の人物を中心にして、自分のなかにその人物を動き回らせるような感じでアフリカ理解のきっかけにしようか。そんなことを考えていたところで、それとは違ったかたちで、アフリカに関する興味深い著書を見つけました。それが、この松本仁一「アフリカで寝る」。

 著者は、朝日新聞のアフリカ特派員、中東派遣員として、アフリカ大陸で八年を暮らし、さらに、その後も何度か取材でアフリカを訪れたときの体験をもとに「アフリカを食べる」「アフリカで寝る」という著書を書いたということで、本書はそれが文庫化されたもので、今回読んだのは「アフリカで寝る」。これは、昨年度の「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞したということです。

 著者は「あとがき」で、

 アフリカは遠い場所です。海外旅行がさかんだといっても、多くの日本人にとって、アフリカはまだまだ「未知」に属する地域です、その上、テレビや新聞を通じて入ってくる情報は、内戦、虐殺、飢え、独裁……。どうも、あまりいいイメージではありません。しかし、そこでも私たちと同じような人々が、悩んだり、笑ったりしながら生活しています。「食べる」とか「寝る」というのは、アフリカ人だろうが日本人だろうが欧米人だろうが、人間なら必ずやっている行為です。そういう当たり前な行為からアフリカをのぞいたら、遠いアフリカの人々の生活が見えてくるのではないだろうか。生活が見えてくれば、社会や文化が姿を現わすはずだ……。(P248)

 と述べていますが、やはり、アフリカをいわば「外から」情報として理解しようとしても、そのことで理解されるアフリカというのは、どうしても抽象的なアフリカばかりになってしまいます。そういう意味で、こういう生活から入る視点というのは、ありがたいなと思います。

 著者はもちろん、単に「生活」を紹介しているのではなく、そこに否応なく入り込んでいる内戦、虐殺、飢え、独裁なども著者の体験から、そして著者の関わった人などを通じて描いているだけに、「アフリカ」の厳しい現実についても読む方にしっかりと伝わってきます。

 しかし、「アフリカ」の「内戦、虐殺、飢え、独裁」などの現実について知るにつけ古くから継承されてきた叡智が崩壊している現実とそうした叡智の崩壊の後に接ぎ木された稚拙な在り方について深く考えさせられます。また、「アフリカ」ほどの悲惨な状況ではないとしても、この日本でも、古くから継承されてきた叡智の崩壊に直面しているのだといえます。おそらく世界全体の問題として、太古の叡智が一度失われ、それが新しい形で獲得されなければならない時代が現代なのだといえるのかもしれませんが民族紛争や難民などのニュースを見るだけでも、その困難さは、計り知れないものがあります。

 しかし、その困難さにまずは目を向けていくこと。そして、民族の問題、国家の問題、文化の問題、宗教の問題・・・そうしたことを抽象的にではなく、できるだけ生きた問題として理解する試みを始めること。そして生きた問題であるということは、今自分の生きた問題としてもとらえかえす必要があるということ。

 著者は「アフリカ」を「食べること」「寝ること」を通じて紹介しようとしていますがそうした、人間がだれでもが関わらざるを得ない問題から、実感に近いかたちで、今自分の「未知」の世界へアプローチすることの大切さを再認識させられる一冊でした。「食べること」についても、引き続き読んでみようと思っています。

 

 

 

謎とき日本近現代史


1998.8.26

 

■野島博之「謎とき日本近現代史」(講談社現代新書1414/1998.8.20)

 

 学校で教えられた歴史は、ほんとうに面白くなかった。暗記ばかりが強要され、自分で考える余地はないように思えた。記憶力のきわめて弱いぼくには、とくにそうだった。けれど、やっと最近になって、歴史はとほうもなく面白いものだし、総合的にものを考える力が必要だということがわかってきた。

 著者は、予備校で日本史を教えているということだけれど、「歴史ってつまんない」という感覚がもたれても仕方がない現状とそういう感覚をつくりだしている「教科書」の問題について次のように述べている。

  歴史をつまらなくしている要因は何でしょうか。おそらく、教師の力量・入試問題の現実、学生の関心度など複合的な要素がからみあっていると考えられますが、その主因は、何といっても教科書にあるといわなくてはなりません。

 しばしば、歴史の教科書には、「現代社会をよりよく理解し、豊かな未来をきずくためには、人類が歩んできた過去の歴史に学ばねばならない」といった主旨のことが記されています。

 教科書は学習の基本です。高い決意を胸に、四百ページ近くある教科書を懸命に読んでみます。しかし残念ながら、現代を理解し未来を考察することのできるような知恵は、とうとう手に入れることができません。

 この背後に、教科書選択システムがあることはいうまでもありませんが、それにしても現在の教科書は、かぎられたページのなかに、多くの歴史事項を無理に盛り込みすぎてしまっているようです。

 このため教科書は、複雑な出来事を深くほりさげた多角的な解説や、歴史の陰影をくっきりと伝えるような豊かな叙述を欠いています。そして何よりも、歴史には重大な「なぜ」があることを、ほとんどまったく気づかせてはくれないのです。(P10-11)

 ぼくはほとんど教科書をまともに読んだことのないタイプだから、「教科書は学習の基本です」という感覚はよくわからないのだけれど^^;、確かに、「歴史には重大な「なぜ」があることを、ほとんどまったく気づかせてはくれない」というのは非常に重要な指摘だと思う。歴史に限らず、教科書というのは、「なぜ」を排除したところにしか成立しないのではないかとさえ思うのだけれど、その「なぜ」という問いかけこそが、もっとも重要なのではないかと思う。

 とくに、歴史というような総合力の要求されるようなテーマの場合、「なぜ」の塊のようなものだと思うし、「過去の歴史に学ばねばならない」ということは、まさに、今自分のいるところから、あらゆることに「なぜ」を発することのできるようにすることが、歴史の最重要テーマでなければならないのではないかとさえ思う。

 この本は、気をてらったようなものではなく、「日本近代史のかかえる「なぜ」をキチッと提示し、とりあえたテーマすべてを正面から突破しようと考えました」とあるように、近代日本の歴史をふりかえるならば、必ずでてくるような「なぜ」に対して真っ正面から答えようとしてる。日本近代史というのは、現代に直接ひきずっている問題も多いだけに、重苦しいテーマもあるのだけれど、だからこそ、その「なぜ」を問い続けなければならない問題だと思った。

 もちろん、そこには、神秘学的な問いかけや答えが用意されているわけではないけれど、時代を見る基本的な視点がまさに「キチッと提示」されているし、そのことで、むしろ、それを神秘学的に問いかけてみる可能性も開けてくるのではないかとも思う。

 さて、ここで問いかけられている「なぜ」は、次の九つ。 

・日本はなぜ植民地にならなかったのか

・武士はなぜみずからの特権を放棄したか

・明治憲法下の内閣はなぜ短命だったか

・戦前の政党はなぜ急成長し転落したか

・日本はなぜワシントン体制をうけいれたか

・井上財政はなぜ「失敗」したか

・関東軍はなぜ暴走したか

・天皇はなぜ戦犯にならなかったのか

・高度経済成長はなぜ持続したか

 おそらく、こうした「なぜ」は、こうした例題から学ぶことで、今、自らに、そして現代に投げかけてみることが求められているのだろうと思う。

 

 

 

林道義「ユング思想の真髄」


1998.8.29

 

■林道義「ユング思想の真髄」(朝日新聞社/1998.8.5)

 これは、ぼくのこれまで読んだユング関連のもののなかでもっとも充実し、かつ深く啓発される内容が盛り込まれています。ぼくのこれまでもっていたユングに対する理解をぐんと深めてくれることになりました。

 ユングの業績は「心理学」という言葉からふつう理解されるような狭いものではなく、精神史、哲学、神話学、宗教学など、広い分野にわたる学問・思想を含んでいる。したがって、その真髄を明らかにするためには、心理学的なアプローチだけではなく、幅広い文化的な視野をもちつつ、高度な哲学的方法論を理解できる教養が必要とされる。(P3-4)

 とあるように、本書は、通常の「心理学」という範囲を超えたユングの「思想」についてその全体像を提示したものです。

 著者は、ユング思想の真髄を次の三つの理論を中心にしてその他の部分を配置、再構成することでユング理解が可能になると述べています。

●原型論

●学問方法論

●対立物の結合

 確かに、読み通してみて、これまでぼくの理解していたユングとはひとまわりもふたまわりも広がりのあるユングが姿を現わしてきたように思います。特に、「対立物の結合」という「弁証法的な心の構え」の錬金術的な意味は、ぼくのこれまでずっとアプローチしてきた「中道」(まさに弁償法的統合のこと)とも深く関連しているのもわかりました。

 「ユングとシュタイナー」という研究書が訳されていたのもあって、その比較や両者の総合ということについては以前から関心があったのですが、本書から示唆されることによって、その糸口が少しだけではありますが見えてきたような気がします。

 ユングもシュタイナーも、ともに在来の学問、科学の可能性を大きく広げてくれることになったという点で共通しているのですが、そのアプローチの角度は異なっています。シュタイナーのほうが、より広く多角的であり、応用可能性も大きいのですが魂の科学という点では、やはりユング的なアプローチによってさらに可能性は広がっていくのではないかと、本書を読むことによって認識を新たにすることができたようです。

 さて、本書については、やはりじっくりその内容を検討したいと思いますので、これから、「ユング・ノート」ということで、重要テーマについてピックアップしてご紹介しながら、そこから見えてくる可能性にアプローチすることにします。

 著者の林道義氏は、最近「父性の復権」というのが話題になった方。もともと「父性」とかいうこととは日本人は無縁なのだから「復権」などというのはちょっと違うのではないかと思ってあえて読まなかったのだけれど、そういう思いこみを持たずに読んでみようと思っているところです。

 

 

 

ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」


1998.9.12

 

■ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」

 (星川淳訳/徳間書店/1998.8.31発行)

 以前、同じポーラ・アンダーウッドの「一万年の旅路」(翔泳社)をご紹介しその内容の一部から「ネイティブアメリカン・ノート」を書いたことがありますが本書は、その「一万年の旅路」より前に刊行された「狼の代弁はだれがする」「白い冬と黄金の夏」「多くの輪・多くの道」そして「知恵の三つ編み−−学びを促す人びとのための手引き」の4冊を一巻にまとめたものとなっています。4冊を一巻にまとめたといっても、「一万年の旅路」の分量に比べればずっとコンパクトなものではありますけど。

 本書を書店で見つけたときには、なんだか久しぶりに友人に再開したようなそんな懐かしさとうれしさでいっぱいになってしまいました。「一万年の旅路」のときにも感じたことなのですけど、ここに語られていることを、どこか自分でも深いところですでに知っていたようなそんな気持ちになりました。ひょっとしたら、ぼくはずっと以前、イロコイ族として生きたことがあるのではないか。そんなことを考えたりしながら、とてもうれしく読むことができました。

 すでにその一部をトポスノート88に書いたのですけど、ここに語られている「学びの物語」は、答えを先に与えるのではなく、問いを生み出すための仕掛けです。そしてそのことについて子どもも大人も関係ありません。大人だからといって子どもよりちゃんとわかっているなどということは決してないということさえ強調されているくらいです。しかも、常にバランス感覚にあふれた知恵の在り方がそこでは底流に流れています。

 さて、そうしたことのいくつかについてはあらためてトポスノートで書かせていただくことにして、本書の紹介に代えて、本書の最初に書かれている著者の言葉を引用紹介させていただくことにします。

 私の祖先は一万年以上にわたり、感受性から意思決定にいたるまで、人間というシステムがどのように機能するのかを学んできました。そのなかで、彼らは<理解への多様な道>が必要なことに気づいたのです。ある道はほかの道より開かれているけれど、ある道はあまりに狭すぎて、それ以外の道を探さざるをえない、というように……。

 彼らはまた、一族全体が繁栄するためには、それら多くの道を一つの統一体へと紡ぎ合わせなければならないことも理解しました。

 そうして彼らは何百年、何千年という時間をかけ、互いに補い合う学びの道をじっくりと編み出してきました。それらの道はともに紡ぎ合わせると、記憶と検索、全体性と実用性という両方の力を与えてくれるのです。

 理解への橋渡しとして、人生の崖から転落せずに生きていく方法として、またさまざまな可能性をしっかり吟味すると同時に、それらの可能性をはらんだ全体性を把握する方法として、一族の人々は学びのための三つの物語を生み出しました。それぞれ、次のように人生経験の三つの基本要素に対応しています。

一つは体のため

一つは心のため

一つは魂のため

 (中略)

 これらの物語は、経験の蓄積というデータベースへのアクセスコードのような働きをします。簡単だけれども複雑なピアノ練習のように、のちのち壮大な交響曲の演奏を可能にしてくれるのです。(P5-7)

 ある意味で、ぼくが「神秘学遊戯団」を通じて「遊戯」していきたいと思っていることは、ここに書かれてあることをシュタイナーという経糸にそしてそのほかのさまざまな知恵を緯糸に、交響曲のような織物を織っていこうとすることで、無謀ではあるけれど、ビジョンとしてはどうしても試みてみたい誘惑から始めてしまったことだといえそうです^^;。実際に織りあげることのできるのは、かなりいびつで小さな織物でしかないわけですけど・・・。

 <理解への多様な道>その可能性について、本書はやさしく、そして読む者の心の深みにまで届く深さで語りかけてくれます。もちろん、「 一つは体のため  一つは心のため 一つは魂のため」というのは、神秘学の基本である「霊魂体」という三つ編みであることはいうまでもないことです。

 

 

 

スピリット・ソング


1998.9.15

 

■マリー・サマー・レイン「スピリット・ソング」

 (VOICE/1998.6.15)

 コロラドの山中に住んでいるインディアンの老メディシン・ウーマン「ノー・アイ」から学ぶ著者の体験を小説の形にしたものだという。インディアンとひとくくりにすることはできないが、こうしたインディアンのスピリチュアリティを記したものを読むととても懐かしい人に会ったような、そんな気持ちになるのはおそらくぼくだけではないと思う。

 インディアンの継承してきた叡智は、インディアンの絶滅とまでいるほどの大量殺戮によってそのほとんどが失われようとしている。その歴史の悲惨さはどうして起こったのだろうか。そんなことをよく考えてみることがある。

 叡智の高みということからいえば、殺戮を行なった白人たちというのはかなりの稚拙で暴力的な段階にあり、それに対してインディアンたちは、今残されているものから考えるだけでも、その高さは比類がないほどだ。その調和あふれる生き方を通じて教えられることは数え切れない。それなのになぜ歴史は、幼稚な暴力の侵略というかたちをとったのだろう。

 本書で、メディシン・ウーマン「ノー・アイ」は弟子ともいえる著者サマーレインにさまざまなことを教えていく。おそらくその内容は、いわゆるニューエイジ風に脚色されているようなそんなことも感じるのだけれど、それは別として、自覚的なシャーマンとでもいえるあり方からすれば、おそらくは最高度の叡智を伝えているものではないかと推察できる。しかし、そこに継承されているであろう太古の叡智と現代において必要とされている「愛」とでもいえるものとの違いも感じ取ることはできるように思う。つまり、「悪」についての視点があえて排されているようなところがある。

 今朝、NHKの海外ドラマで「マザー・テレサ」を見たのだけれど、(そのドラマとしての演出はもうひとつという感じでした^^;)メディシン・ウーマン「ノー・アイ」が、大自然の調和のなかで生きようとしているのに対し、マザー・テレサはあえてスラムのようなところに赴く。それぞれにそれぞれの目的と使命とでもいうものがありそれを単純に比較することはできないのだけれど、その違いに注目するときに、見えてくるものはあるのではないかと思う。もちろん必要なのは、その両者の道のどちらかだけを賞賛したり選んだりするというのではなく、その両者の統合の道の可能性を模索するこということではないだろうか。そしてそこにシュタイナーの神秘学の開こうとしている可能性もまた見出すことができるのではないかと思う。

 

 

 

マイケル・J・ローズ「魂との対話」


1998.9.29

 

■マイケル・J・ローズ「魂との対話」(徳間書店/1998.9.30)

 昨年、同じ著者による「魂の絆」が出版されたが、これは、タイトルが「魂との対話」となっているものの原題は「Talking with Nature」とあるように「自然との対話」。山川紘矢さんは「魂との対話」のほうがふさわしいということを述べられているが、やはり原題の通り「自然との対話」というのがよかったのではないかと思う。

 それはともかく、著者は、植物や動物はもちろんのこと、岩や川といった存在とも会話することができるという。その対話の記録が本書だともいえる。特に全体としてストーリー感のある展開ではなく、日々坦々と著者がさまざまな形で「自然」から語りかけられながら、「自然」について、そしてその「自然」との関係において自分という存在について考えていくプロセスがなかなかいい。

 この著者のような特殊な能力はないとしても、ある意味ではどんな人でも、「自然」と対話している。というか、「拒否」ということも含めて、対話の可能性のなかで日々を送っているのだといえる。要は、その対話の可能性をどれだけ可能性のあるものとするか。それが、特に原題においては求められているのだといえる

 もっとも、「自然との対話」という、その「自然」ということを「自然を守ろう」というようなムードによってとらえるならば、守る自分と守られる自然というように、「自然との対話」はむしろ閉ざされてしまうように思う。

 また、こういう著書を読みながら、「自然」とはいったい何だろう。というように、あらためて考え直してみることが重要だと思う。そういえば、先日(高価だったので買えなかったのだけれど^^;)、ギリシアの昔から、ヤーコプ・ベーメなどをも経て、現代のホワイト・ヘッドなど古代から現代に至るまで、「自然」がどのようにとらえられてきたのかをかなり詳しく解説したものが出ていたけれど、そういうことを検討してみることなどが必要かもしれない。そうでなければ、「自然」をどうもムード的にとらえがちなのだ。

 本書では、通常外的なかたちで現われている「自然」を人間がこうして物質界に顕現している肉体という「器」(霊の器)のようにとらえている。つまり、重要なのは「自然」の外的な現われであるよりも、むしろその霊的な潮流の部分を深く認識するということだ。だから、ここで「自然との対話」というふうに表現されているのも、ただ、目に見えるかたちでの「自然」との対話ではない。

 たとえば、本書では、「自然」は次のように語りかける。

 きみの両面を歓迎しよう。しっかり認識しなさい。私は滝ではなく、きみはものを書く手ではないことを忘れるな。その相違点と類似点をよく観察せよ。きみは拡張することを求め、自分の運命を探求する知性、すなわち本当の自分を探求する者だ。私もまた然り。

このような全体という考えによって、我われは目に見える形に対する愛着や自分であることを捨て、「一つ」の意識に溶け合うのだ。私のエネルギーにとっては、これは生命の現実である。きみにとっては、肉体的なアイデンティティがきみ自身であると信じているものだ。それは何千年もかかって作られてきた執着で、実に根強い思考の形態と信条となっている。しかし、そこから抜け出さなければならない。きみのやるべきことはそれなのだ。この滝はエネルギーの集積(フォーカス)である。ほかのたくさんの滝も多かれ少なかれ力を集めるが、目には見えにくく、ふつう人間は気がつかないのだ。(P97-98)

 しかし、ここで気を付けなければならないのは、「肉体的なアイデンティティ」への執着を解くと同時に、なぜその執着が必要であったのかということの認識である。そうでなければ、単に霊の賛美になってしまう。

 自分はなぜこうして肉体という器をまとって生きているのか。そのことを問うことをなおざりにして、「自然との対話」は成立しないと思うのだ。

 

 

 

小説「聖書」


1998.9.29

 

■ウォルター・ワンゲリン

 小説「聖書」 旧約編・新約編(徳間書店/1998.5.31&6.30)

 

 聖書に縁のあまりのないぼくのような存在にとってこうして、旧約と新約を一連の物語のようなかたちで読めるのはなかなかに魅力的なことなので、どうしようか迷いはしたのだけれど、結局のところ旧約編・新約編合わせて買ってしまった。合わせてといっても、原書は「The Book of God (神の書)」というタイトルの一冊の本になっているということだ。

 新約聖書はともかくとして、旧約聖書というのは創世記あたりのところを除けば、ぼくにとってはほとんど未知の世界。というよりは、ぼくの無知の世界^^;。エリアの話、エレミアの話など、断片的には知っているものの、全体のなかでどういう位置になっているのかほとんど知らなかった。しかし、こうして良くできた物語にしてもらえると読みやすいだけでなく、旧約聖書に流れているテーマのようなものが見えてくるように思った。

 そして、なぜ旧約であり、なぜ新約といわれるのか、というあたりのこともあらためて考えさせてくれる。とくに、シュタイナーの神秘学的な観点からユダヤとキリストということを照らしながら読み進めることで、よりいっそう見えてきたものもあるように思った。

 やはり、「選ばれた民」であるユダヤは、ヤハウェによって自我の器として、そして肉体の器としても準備される必要があったのではないか。アブラハムの昔から、モーセを経て、最初は「王」がいなかった民族が「サウル」から「王」を戴くようになる。その意味もそうしたことと関係がありそうだ。また、アブラハムの頃、年老いるまで子供が生まれず、かなり高齢になってはじめて後継ぎが生まれることが多いのも、かなり意味深いようにも思われたりした。

 やがて、そうした時代を経て、イエス・キリストが現われる。そして、モーセの時代からの律法が、形としての律法ではなくいわば「内面」における律法として新たなものとされる。そこに外的な律法と内的な律法が逆転し結合する。敬虔な羊飼いと東方の賢者たちの叡智とが逆転し結合する。その逆転し結合させるものは「愛」。

 旧約の部分では、いたるところに殺戮が満ち満ちていて、神がその殺戮に関わっているところが妙になまなましく感じられて半ば読んでいてうんざりするところが正直いってあったのだけれど、新約の部分に至って、それがまさに逆流していくイメージがあった。イエス・キリストの物語はたとえようもなく美しく、そしてその苦悩はあまりにも切実で深く悲しい。

 著者の筆も、新約に至って冴えわたり、イエス・キリストとその周辺の人物があまりにも生き生きと描かれていて、それまでの半ば戯画的にさえ見えてしまう旧約の世界と比べ、「人間」のドラマとしての色合いを深めていく。

 やはり、こうして旧約から新約まで、一気にその流れが読めるこうしたすぐれた物語は、読んでおいて損はないように思う。

 

 

 

森田誠吾「明治人ものがたり」


1998.10.2

 

■森田誠吾「明治人ものがたり」(岩波新書/1998.9.21)

 

 明治の人たちの話はとてもおもしろい。それは、明治から大正、昭和に向かう時代の変化、人間の変化ということを見た場合、きわだって見える。司馬遼太郎の描いているような時代と人間も興味深いが、この著書のようなアプローチの仕方もなかなかいい。こうした本を読み始めると時の経つのを忘れて読みふけってしまう。

 この著書を読むまで知らなかったのだけれど、著者の森田誠吾は、「魚河岸ものがたり」で直木賞を受けている作家で、車にはねられて入院しているあいだによみふけった文庫本から、本が本を呼ぶというかたちで浮かび上がってきた人物や事柄の話のたねからひろがったのが本書だということです。

 収められているのは、「睦仁天皇の恋」、「学歴のない学歴」、「マリとあや」の3つの話。

 「睦仁天皇の恋」では、星新一が「夜明けあと」という島崎藤村の「夜明け前」をもじったようなタイトルだけれど、明治時代の新聞などから丹念に拾った記事を年を追って並べた編著から見えてくる若き明治天皇の姿から明治時代〜昭和への変化が描かれている。

 明治7年(1874)年には、次のような記事が載るほど時代はまだ自由なものだったということが見えてくる。

 天皇、二十三歳。新しい侍女と深い仲となり、皇后ご立腹。岩倉具視、その和解のために苦心。なんとかおさまり、酒宴となる。その帰路、岩倉は食違坂で暴徒に襲われ、あやうく命を失うところだった。

 明治のはじめのこうした自由な報道も、次第に皇室報道に遠慮が加わるようになり形式化し、やがては「御真影」を火災で焼失しただけで割腹してしまうような時代に変わっていく。

 「学歴のない学歴」で学歴のないがゆえに学界へ孤独な闘いを挑んだ森銑三がとても興味深く描かれ、最後の「マリとあや」では、森茉莉と幸田文という森鴎外と幸田露伴の娘を、父との対照的な関係をめぐって描いていく。

 森鴎外と森茉莉、幸田露伴と幸田文というのは、そのあまりにユニークな父娘関係が有名だけれど、こうしてほとんど交流のなかった森茉莉と幸田文の二人、しかし一つ違いで亡くなるのも三年ほどの違いだけという二人を時代とともに交互に描いていく試みは、むしろその二人の人物像をその父をもくっきりと浮かびあがらせるのに成功している。

 有名な話だけれど、森茉莉と鴎外の関係についての次のようなところを引用してみることにする。 

 マリには、こんな記憶がある。

「私は幼時、父が絶えず私を膝にのせて背中を軽くたたき、“おマリは上等、おマリは上等”を繰り返し、又、“おマリの目は綺麗だ、おマリの髪は綺麗だ、おマリの性質は素直だ”と繰り返し耳の傍で言うので、私はだんだん、自分は綺麗でおとなしいんだと思いこむようになった。」

上等というのは、父の一種の口癖で、上等な酒、上等な料理、上等な人間、そして上等なおマリに至るのである。この父の繰り返しは、一つの刷り込みと思えなくもないが、実は、父の溺愛がいわせたうわ言で、いいかえれば、子の溺れていい季節に、マリが生まれたといえる。(P120-121)

 さて、少し前に手塚治虫文学賞なるものを受賞した全5巻の漫画「『坊っちゃん』の時代」(関川夏央・谷口ジロー)も明治人の肖像が生き生きと描かれていて話題になったが、明治から昭和にかけて失ってしまった自由闊達さを新たな形で獲得するためにも、そしてその時代の限界をも超えていくためにもこうした明治人たちのあれこれについて見ていくことは楽しくもありかつ有意義なのではないかと思う。

 


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