風の本棚15

(98/6.5-98/7.23)


■ A.P.シェパード「シュタイナーの思想と生涯」

■トマス・ムーア「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」

■ 北沢方邦「近代科学の終焉」

■ 松岡正剛監修「情報文化の学校」

■ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話2」

■ 中村雄二郎「日本文化における悪と罪」

■ 飛鳥昭雄・三神たける「失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎」

■ 小林恭二「カブキの日」

■ エリーザベト・コッホ、ゲラルト・ヴァーグナー「色彩のファンタジー」

■ 田中裕「ホワイトヘッド/有機体の哲学」

 

 

A.P.シェパード「シュタイナーの思想と生涯」


(1998.6.5)

 

■A.P.シェパード「シュタイナーの思想と生涯」(中村正明訳/青土社/1999.6.10発行)

 本書の翻訳者は、ぼくから見ればあまり好ましいとは決して思えないコリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」の二人の訳者のうちの一人なので、少しばかり「そういう目」で読み始めたんですけど^^;、本書は、シュタイナーの思想のいわば解説書としては、とてもバランスのとれた最良のものに属するのではないかと思います。やはり、訳者に偏見を持ってはいけませんね。少しばかり反省させられました。

 それはともかく、「訳者あとがき」の最初にもふれられているように、シュタイナーの思想を学ぶ際には、原典から入るのが正しい入り方だとしても、けっこう無謀だともいえる側面は否定できないようにも思いますので、こうした適切な解説書であれば、こうしたものに目を通した上で、実際の著書や講義録などを読み始めるのもいいのではないかという気がしました。もちろん、適切な解説書であるというのが、大前提ではあるのですけど。

 本書は、「人物像」、つまりシュタイナーの生涯をたどった部分と「思想」、つまりシュタイナーの思想の基礎にある霊学とその応用の部分とでとてもバランス良く構成されています。霊学の部分では、キリストおよび思考という二大テーマがきちんとおされられていますし、また、シュタイナー自身がそう言っていたようにシュタイナーのいうことを鵜呑みにしないようにしなければならならず、偏見なく自分で確かめなければならないということを、きちんとおさえられているなど、シュタイナーの思想に最初にふれるひとにとっても、またあらためてシュタイナーの思想を全体像としてとらえなおそうとするひとにとっても、一読に値する優れた内容になっていると思います。

 もしぼくが、ぼくの理解できる範囲ではありますが、シュタイナーの思想の入門書を推薦するか、または、その概観をするとするならば、現時点では、おそらく本書を最適の書として選びたいなと思うくらいです。

 さて、著者は、本書のなかの「霊学の応用」という章の最初に次のように述べています。

 

 人智学はそもそも論じられるだけの世界観なのではない。それは霊についての理解を通じて、人間の思想と活動の全体を洞察しようとする「運動」である。シュタイナーが講演の中で言っているのだが、「認識がいつでも生活の中に入り、日々の暮らしの中で必要な場合はいつでも、役に立つ知識を与えることが人智学の目的」である。思い出してほしいのだが、シュタイナーがゲーテアヌムを建てたのは、人間の活動の全分野に行き渡る霊的知識のための実験室や作業上としたいからだった。人智学が実地に応用されているこのような例は、イギリスにおいてもヨーロッパにおいても近年とみに増している。それどころか、多くの人は人智学と聞くと、教育、医学、農学の分野での活動しか思い浮かべないほどなのである。

 ところで、これらの活動がいかに魅力的で人を納得させるものであろうとも、それらの根底にある中心的な霊的原理を理解しないかぎり、人智学そのものの真の理解にはつながらない。さまざまな機会にシュタイナーはこの点を強調した。シュタイナーへのこの入門書において人智学の根本原理に焦点を合わせてきたのもそのためである。(p242)

 本書が書かれ、出版されたのは、1954年のロンドンでのこと。著者は各地で司祭を勤めたあと、英国国教会の要職についていて、1941年に時間をテーマにした本を出版したばかりのころ、その著書の内容とシュタイナーの思想との類似を指摘され、それからシュタイナーの思想を研究しはじめたということです。その時間に関する著書は「時間と永遠」というタイトルらしいのですが、おそらくは、そうした著書の時間についての考え方も、本書には随所に反映しているんだろうなと思わせられる記述もありました。

 上記の引用にもあるように、現在の日本でも、たとえばシュタイナー教育の「活動がいかに魅力的で人を納得させるものであろうとも」やはり、「れらの根底にある中心的な霊的原理を理解」するということがなければどうしてもシュタイナー教育そのものが教条化してしまうことになるように思います。本書がイギリスででたのが1954年ですから、もう44年前のことになりますが、日本では、こうした理解もようやくこれからということかもしれませんね。

 

 

トマス・ムーア「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」


(1998.6.20)

 

■トマス・ムーア「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」(平凡社/1998.5.13発行)

 本書については、そのなかのいくつかをトポスノートですでにかなり前にとりあげたことがあります。最近あまり「風の本棚」を書いていないことに気づいたのと、やはり、これはご紹介するに値する本だとあらためて思ったので、ご紹介させていただくことにしました。

 本書のタイトルにある「ソウルメイト」という言葉は、よく「魂の伴侶」という意味で使われますが、ここでは、人間関係を象徴するような意味で使われています。ですから、本書では、人間関係とそれに関するテーマがさまざまな形でとりあげられています。

 人間関係は、ほんとうにむずかしい。それは、自分自身を知るということと同じ意味を持つからです。本書を読み進むにつれ、人間関係の難しさをあらためて思うとともに、そしてそれをについて、静かに、そして確かに迫っている著者の洞察には驚くほどの深さを感じさせられます。こうしたすぐれた著書を通じて、あらためて自分の深みに降りていきながら自分自身の関わっているさまざまな人たちとの関係から学べるものの豊かさを見つめ直してみることも意義深いことなのではないかと思います。

 著者は、本書の「序文」のなかで、次のような提案をしています。

 本書を読むにあたって、過去や現在の自分の人間関係を振り返ってみていただきたい。家族のきずなや疎外感を考え、昔の愛や現在の愛を思い浮かべてもらいたい。希望や夢に思いをめぐらせ、不幸や悲劇を見過ごさないようにしてもらいたい。そして以上すべてのことが自分の魂とどのように関わっているかを考えていただきたい。安易な判断は禁物だ。ひょっとしたら自分の人生の物語や記憶にふくまれている大きな神秘より、成功や失敗について考えたくなるかもしれない。そのような考えにとらわれるのは、自己愛のなせるわざだり、しがみつかずに手放してもらいたい。

 本書は提案の寄せ集めではなく、瞑想の導きとして活用すべきものだと言ってよい。満足をもたらす魂の結びつきを妨げる唯一のものは、あなたの発想であることを心に銘記してもらいたい。あなたは豊かな想像力を駆使しているだろうか?実用的な尺度にとらわれ、月並みな発想しかしてはいないとしたら、本書を読みながら、発想に枝葉を与え、花を咲かせてもらいたい。親しさのイメージを豊かに想像できるようになれば、人間関係という錬金術はより多くの金を生み出せるようになるだろう。(P18)

 まさに、人間関係は錬金術そのものだといえます。そして、どのようなものを生み出せるかは、自分の魂がどのような在り方をしているか次第です。

 「瞑想の導きとして活用すべきものだ」とありますが、瞑想というと、静的なイメージがあると思うのだけれど、この場合、自分の魂の在り方とこれまでそれが人間関係のなかでどのような現われたかをしていたか、そのクセのようなものと、それが導き出すことになった結果などについて、恐れることなく自分の前に置いてみるような、かなりダイナミックな力強さが要求されるものでもあります。

 この場合、もっとも思い出したくないような苦々しい過去から目をそらさないで見据えることが、多くの変容をもたらすことになります。そして、自分の陥りやすいパターンから脱するための重要な鍵を見つけることができるかもしれません。

 よく言われることですが、人はなんでも環境のせいにしたがります。家庭環境が悪かったから始まり、学校が悪かった、友人が悪かった・・・しかしそういう外的環境を創造しているのは、自分なのだという洞察を持つことによって始めて道を見出すことができるように思います。それは、「自由への道」だということです。「自由」を得るための基本は、「自分が決めている」ということだから。そして、「自分が決めている」ことによってこそ、人間関係という錬金術が「金」を創造することになるのだといえます。

 

 

北沢方邦「近代科学の終焉」


(1998.6.22)

 

■北沢方邦「近代科学の終焉/脱近代の知を探る」(藤原書店/1998.5.30)

 思いがけず北沢方邦さんの新刊を見つけました。北沢方邦さんを始めて知ったのは、

講談社現代新書の「構造主義」という著書で、もう20年ほどまえのことになります。その頃は、「構造主義」を始めて知った頃でしたし、それと同時に、ポスト構造主義とかいうのもあれこれと言われ始めていましたが、まだその意味するところがわかっているとはとうてい思えませんでした。

 その後、「知と宇宙の波動」、「日本神話のコスモロジー」、「歳時記のコスモロジー」、「メタファーとしての音」などを始め、その多彩で意味深い著書にふれてはいたのですが、著者の意図するところについて、腑に落ちるところまではなかなか至っていなかったわけなのですけど、ひさびさ出された今回の著書で、やっとそこらへんのことが、ピンとくるようになったような気がします。

 早い話が、著者の意図は、近代知の可能性を踏まえながらも、その限界について、自然科学、人文科学などを総合した意味でとらえ、いわば、来たるべき知の方向性についてアプローチする、ということだと思いますが、今回の著書は、ある意味でこれまでの著書を総合した内容にもなっているために、ぼくにもやっと遅まきながら少しわかったかな、という気になることができました。

 本書のアプローチは、自然科学の側面からのアプローチと人文科学・人間科学の側からのアプローチの双方からなされているもので、その両者の最新の成果を概観しながら、その背景となっている近代知とでもいえるものの限界が強力に示唆されているといえます。

 おそらくこの方向をずっと押し進めていくならば、シュタイナーの神秘学のようなものにならざるをえないのではないかという気もするのですが、本書では、そうした方向性については、まだまだ非常にぼんやりとした示唆しかなされてはいないように思います。

 とはいえ、先日来、ここで観測者の問題についていくつか話がでましたが、その問題に関連した、科学認識論とその限界について見ていくためには、格好のものではないかという気がします。少し前に、ジョン・ホーガンの「科学の終焉」(徳間書店)が出て少し話題になりましたが、それよりも本書のほうが、人文科学系の認識についても同様に問題にしているというのもあって、さらにラディカルで示唆するところも多いのではないかと思います。著者お得意の構造人類学的な知見や例も豊富に盛り込まれているのも魅力的なところです。

 では、「まえがき」から、本書で著者の提示している問題性が提示されているところを少しご紹介したいと思います。

 近年の自然科学の<革命>は、結局「超空間」(ハイパースペース)という名の多次元の時空のなかでの物質の<構造>の発見であるが、ここから構造概念を手掛かりに人間科学と自然科学を統合する視座が得られるだけではなく、近代の世界観をくつがえす脱近代の知が、おぼろげながらも展望されはじめたのだ。

 ただ残念ながら、これらの革命を主導する哲学が不在であるといってよい。たとえばその諸発見のひとつである超弦理論をめぐって熱い論争が続いているが、それも実験不可能・検証不可能といった技術的レベルか、あるいはたんにその前提となる多重世界解釈に対する嫌悪といったイデオロギー的なものにすぎない。いまやそれは信ずるか信じないという神学論争のおもむきを呈しているが、それを超えて、それが脱近代の知の構築の一環であるとする哲学が要求されているといってよい。(P3)

 こうした問題性に関しては、同じく藤原書店から昨年の11月に刊行された西宮紘「多時空論/脳・生命・宇宙」も参考になると思うのだけれども、これは、例の観測者の階層の問題とも深く関係してくるように思いますし、それらを統合した上で、それらをさまざまな方向でトータルな意味での応用や実践を可能にしているのが、やはりシュタイナーの神秘学なのではないかとあらためて考えさせられました。

 本書の紹介としては、少しわかりにくい紹介しかでなかったように思いますが^^;、本書のなかで提示されているさまざまなテーマは、とても示唆的なものが多くありますので、できれば、このなかのいくつかを、「脱近代知ノート」とでもして何か書いてみることにようかと思っているところです。

 

 

松岡正剛監修「情報文化の学校」


(1998.6.23)

 

■監修・松岡正剛「情報文化の学校/ネットワーク社会のルール・ロール・ツール」

(NTT出版/1998.4.27)

 曾野綾子とご夫婦の三浦朱門を会長とする教育課程審議会が、この22日に、「審議のまとめ」として公表した「検討結果」のなかには高校の必修教科に「情報」が新設されるということになっているらしい。

 かねてより松岡正剛が、NTT出版から出されている編著などを中心に繰り返し繰り返し、「情報」「情報文化」を学ぶ必要性を訴えているわけですが、やっとそういう動きが、教育課程のなかに盛り込まれようとする動きがでてきたということでしょうか。

 この「情報」という、きわめてあいまいにとらえられているものをさまざまな角度から考えていくということは、現代そして近未来においては、極めて重要なことであるにもかかわらず、これまではあまりにもなおざりにされてきました。

 折良く、まさに「情報」についての基本的な考え方などについて学ぶことのできる「情報文化の学校」が出ていますので、ご紹介しておくことにしたいと思いました。

 これまでの松岡正剛による情報や編集などについての著作などの紹介は省略させていただいて、本書に盛り込まれているカリキュラムの内容をご紹介させていただき、「情報」というとらえどころのないテーマをどのように学んだらいいのか、というイメージをもつための概観をしてみたいと思います。

 まず、本書のコンセプトについて、監修の松岡正剛による「開講のことば・オリエンテーション」から。

 この「情報文化の学校」は高校生や若いビジネスマンを対象として、格別な趣向で構成された講座です。月曜日から金曜日までの五段階のステップに四つずつの特別講義が用意され、各先生方の授業がすすむにつれ、「情報とは何か」「情報を科学するにはどうするか」「情報をあつかう方法にはどのようなものがあるか」「情報文化とは何か」「情報と経済はどのように関係するか」「情報の編集とは何か」といったことが、しだいにわかるように構成されています。(P4)

 月曜日から金曜日までの五段階のステップというのは、月曜日「情報のしくみ」、火曜日「情報のふるまい」、水曜日「情報のつながり」木曜日「情報社会のなりたち」、そして金曜日「情報のあつかい」というように展開されていきます。

 全部で、五段階のステップ×4つの講義という全部で20の講義の先生と講義のテーマをご紹介して、概観に代えたいと思います。

・月曜日/「情報のしくみ」

一時限目 松岡正剛「これからの社会科」

二十一世紀の編集知のために

関係を発見する冒険へ出かけよう

二時限目 吉見俊也「もっともらしい国語」

メディア・リテラシーの実践

教室の中でテレビを考える

三時限目 大須賀節雄「いろいろな科学」

情報学の見取図

人間と機械のあいだの情報構造

四時限目 伊藤穣一「なかまをつくる算数」

縁と信用のネットワーク

コミュニティには価値がある

 

・火曜日/「情報のふるまい」

一時限目 津田一郎「むずかしいことを考える」

カオスと多様性と複雑性

落ちる木の葉を科学にしたい

二時限目 佐倉統「観察の時間です」

進化の床に文化の種を蒔く

カレーとラッキョウの進化論

三時限目 合田周平「わけもちの理科教室」

環境と技術と人間と

エコテクノロジーが描く将来

四時限目 大澤真幸「たいへんなホームワーク」

体も対話をしている

コミュニケーションの不思議

 

・水曜日/「情報のつながり」

一時限目 竹村真一「きもちのよい経営」

感性のジグソーパズル

インターネットの社会学

二時限目 原島博「にんげんの学習」

顔のない社会はあるか

コミュニケーションをする人類の行方

三時限目 金子郁容「まよいとあそびの実験」

合理性と相互依存性

ゲームメークの決め手はどこにある?

四時限目 石黒憲彦「いっしょにする工作」

CALSな会社のつくり方

ローカルとグローバルのはざまで

 

・木曜日/「情報社会のなりたち」

一時限目 正慶孝「歴史をふりかえる」

欲望と発展のルール

「もっと、もっと」はもういらない

二時限目 川勝平太「国をながめる」

富のかたち・日本のすがた

楽しむ力が景気と景色を変える

三時限目 森谷正規「みんなの反省」

「公」と「私」ってなんだろう?

これからの日本人の課題

四時限目 原丈人「お金のいかし方」

仕事と遊びが社会をつくる

ベンチャー好奇心のすすめ

 

・金曜日/「情報のあつかい」

一時限目 高橋秀元「国語のひみつ」

和歌というソフトウェア

日本には大胆な感性情報システムがあった

二時限目 室井尚「お話という国語」

物語とマルチメディアの話

情報と自己と世界をむすぶ方法

三時限目 田坂広志「ふくざつな社会科」

コンソーシアムという戦略

複雑系市場に求められる七つの知

四時限目 菊地史彦「自修から編集へ」

知識の相互編集ゲーム

ポストモダンの先のほうへ

 こうしてテーマを書きうつしているだけでも、あらためて、この「情報文化の学校」の充実がわかりますね。こういうかたちで「神秘学の学校」というカリキュラムでもつくってみたいなという誘惑に駆られたりもします。

 とにかく、高校の授業にとりいれられていこうという動きさえある今、現代を生きるために欠かすことのできないものとして、この「情報」ということを考えていきたいものだと思います。

 

 

ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話2」


(1998.6.28)

 

■ニール・ドナルド・ウォルシュ

 「神との対話2/宇宙を生きる・自分を生きる」(サンマーク出版/1998.7.6発行)

 以前にご紹介したことのある「神との対話」の続編。三部作あるという対話の二冊目がやっと訳されました。三冊目は、今年の終わりくらいにアメリカで出版されるそうです。

 前回もお話したのですが、「神との対話」というタイトルなので、眉に唾をつけながら読みすすめたところ、こらがすごくまとも。宗教くささというのもなく、またドグマ的なところもなく、非常に示唆的な内容が、きちんと押さえられていて、ある意味では、コンパクトな神秘学の入門書としても格好のものではないかと思っています。

 また、とくに本書が有効なのは、「宗教」ということに思いこみの激しい方、「神」概念を、どこか自分の外に置きたがる方だろうと思います。また、何か正しいことを外から指示されてそれに従おうとするような非−創造的な方にとっても、有効かなと思います。つまり、本書の基本は、ある意味では、シュタイナーの「自由の哲学」を展開させたようなものだともいえるからです。本書の第8章には、このような「目次」がつけられているように。

最高の自由を経験することによってのみ、最高の成長が達成される。他人のルールに従っていたのでは成長しない。誰かに従属するだけだ。従属は成長ではない。わたしが望むのは、成長だ。

 ちなみに、本書には、シュタイナー教育もでてきていますが、地球環境の問題、教育の問題、政治の問題などがさまざまにとりあげられ、そして今われわれが何を考え行動していかなければならないかが、「そうすべきだ」というのではなく、どうするのが創造的なのかを各自が模索できるようなかたちで示唆されているなかなか密度の濃いものとなっています。

 本書にも書かれてあるように、前回の一冊目では「個人的な人生の真実と課題」がとりあげられていて、この二冊目では、「地球上の家族としての生命の真実を話し合」い、次の三冊目では、「宇宙の秘密」についてのものになるということで、どうやら、地球外の存在にも言及されていくことになりそうです。そこらへんのことについては、シュタイナーも言及していないところなので、今からとっても楽しみにしているところです。

 

 

中村雄二郎「日本文化における悪と罪」


(1998.7.6)

 

■中村雄二郎「日本文化における悪と罪」(新潮社/1998.6.30)

 4年ほど前に刊行された「悪の哲学ノート」の続編としての意味も持っているということだけれど、日本の哲学者で「悪」について掘り下げようとしている方はおそらくこの中村雄二郎だけなのではないだろうか。そこまでの射程をもっている方がいるということに希望をもつべきかそれとも他にだれも見当たらないということを嘆くべきかわからないが^^;とにかく、中村雄二郎の存在はぼくにとっても、ひとつの道しるべとして、その著作を読ませていただけることに感謝したいと思う。

 さて、今回のテーマはまさに「日本文化における悪と罪」。そこでとりあげられているアクチュアルなテーマは、臓器移植の問題とオウム真理教の問題。中村雄二郎のようないわばアカデミズムの立場から、ここまでアクチュアルな視点を提示しえているということが重要だと思う。

 ここで著者は、日本人の宗教心の根底にまで迫り、そこにある仏教だけでない、儒教や道教、神道などの問題にも現在可能な範囲での問題提起を行なっている。たとえば、葬式仏教は、仏教ではなく、むしろ儒教だということなど。つまり、ふつう「日本人の宗教心」といわれるものは、仏教、儒教、道教の「混淆形態」であるという、いわばあたりまえすぎることが、やっと中村雄二郎のような方の口からも述べられるようになったということである。

 また、本書で最も興味深かったのが、日本人の重要視する「誠」という「道徳的価値」についての論考だった。オウム真理教事件の過程で、その幹部である村井秀夫がテレビ会見で行なった言動との関連で次のようなことが述べられている。

オウム教団による大量のサリン製造疑惑が強まった1995年4月上旬の段階で、その疑惑に対して彼は平然とその疑惑を否定した。ある外国人記者は、自分で写した山梨県上九一色村教団施設の写真を証拠にして村井をきびしく問いつめた。相手が言を左右にすると、最後には<ライヤー(嘘つき)!>ということばまで投げつけた。ところが多くの日本人は、誠実さを示すような<彼の目が澄んでいる>ことに誑かされて、高名な評論家までも、彼の嘘を見抜けなかったのである。

 もちろんこれは、ただ村井秀夫幹部一人だけの問題ではない。オウム教団のインテリ出身、科学者出身の幹部たちが、なぜあんなにもたやすく、ひたすら、教祖麻原彰晃の説くところに<純粋かつ誠実に>のめり込み得たのだろうか。

 もっとも、<誠>や<至誠>に絶対的価値を置くこの考え方は、日本思想あるいは日本人の宗教心において、西田の倫理学説になってはじめてあらわれたものではなく、実はそれはすでに徳川時代の日本儒教のうちに色濃く見られたものなのである。そういう観点から、<日本人の宗教心を探る>一環として<誠>という道徳的価値について考えることにしたい。(P119-120)

 非常に重要な指摘である。まさに、日本では、「純粋」「誠実」ということが最高の美徳として賛美される傾向にある。だから、<彼の目が澄んでいる>ならば、嘘をつくわけがない。そう思いこんでしまうのである。<彼の目が澄んでいる>ことと嘘をつかないことは別のことなのに、それを同一視してしまうというところに、<日本人の宗教心>が典型的なかたちであらわれているように思う。

 「禊ぎ」とかいうのも、穢れを祓うということで、そのことで、「純粋」「誠実」が取り戻せるという感覚なのではないだろうか。そして、「純粋」「誠実」さえあれば、OKなのである。子どもを穢れのない純粋な存在として持ち上げる傾向もその発想からすれば、かなり納得がいく。

 そのことについては、このMLやHPでも何度もとりあえてきたことなのだけれど日本人ということを見ていく場合、その「純粋」「誠実」という価値に注目していくことからは、多くの示唆を得ることができると思う。

 さて、その他、本書には、第二部として、そうした日本文化の問題に関連したかたちで西田幾多郎の哲学の諸問題がまとめられている。この部分は、先日刊行された

■中村雄二郎「術語的世界と制度/場所の論理の彼方へ」(岩波書店/1998.5.22)

と関連した内容になっている。

 西田幾多郎の哲学については、ちょっととっつきが悪いところもあるけれど、おそらく、日本文化を考えていく場合、それにどう向かうにせよ、西田哲学を無視することはできないように思う。「術語的世界と制度」のほうは別として、「日本文化における悪と罪」のほうで、その問題点のいくつかを理解しておくことは決して無駄にはならないのではないだろうか。

 

 

飛鳥昭雄・三神たける

「失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎」


(1998.7.10)

 

■飛鳥昭雄・三神たける「失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎」

(学研/1998.4.23)

 こういうジャンルの本をぼくはJUNK本と読んでいたりします。JUNKというのは、この場合決して否定的な意味で使っているのではなく、アカデミックではない、ともすればトンデモ本になりかねないような類でありだからこそ、そこからは想像力を刺激され、いろんな発見がある。という意味で使っています。もちろん、なかには、ただ売るためのまさにばかばかしいだけのものもあってそういうのを、ぼくは馬鹿本(バカボン)と呼んでいまして、それはJUNK本には値しない代物なので、区別しています。

 で、ぼくは少し発想などが硬直化したときなどに、とくにこうしたJUNK本などが無性に読みたくなったりします。そして、それがとてもスリリングな内容だった場合、なんだかとても得したうれしい気分になります。

 さて、この「失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎」の内容は一見そのタイトルは、まさにJUNKなように見えるにもかかわらず、たくさんの非常に重要なテーマが盛り込まれています。おそらく、ここに書かれてある内容にシュタイナーの神秘学的な視点を加えていくことで、驚くべき真実がさらに明らかにされていくのではないかと思われます。

 この本は、日本における最大の謎である、「神道とは何か」「天皇とは何か」ということに真っ正面から挑んでいて、そこには、ユダヤの失われた十部族や原始キリスト教が深く影響しているということがかなり多角的に述べられています。そして、天皇と天照大神、キリストの関係がスリリングに解き明かされていきます。

 そのアプローチの仕方のなかには、かなり強引なところもあり、もう少し神秘学的にアプローチすることで、より深い部分が見えてくるのではないかとか思うところもあるのですが、こういう論考を読むことによって、今日本でシュタイナーの神秘学を学ぶことの意味が見えてくるところがあるように思います。逆に言うと、ただ教条的にシュタイナーの神秘学を学ぶだけでは、せっかくの機会を無にしてしまうことになるということでもあります。

 本書のようなアプローチは、アカデミックには決してできないような部分がふんだんに盛り込まれた、まさにJUNK本ならではの良さが発揮されているもので、だからJUNK本はやめられない、とかあらためて思っているのであります(^^)。

 内容について興味のある方は、偏見を持たずに(持っててもいいですけど^^;)目を通してみられるとなかなか楽しめるのではないかと思いますし、先ほども述べたように、この内容とシュタイナーの神秘学を照らし合わせることで、さらに深くこの「日本」の姿とその可能性が見えてくるのではないかと思います。

 

 

小林恭二「カブキの日」


(1998.7.12)

 

■小林恭二「カブキの日」(講談社/1998.6.20)

 読み始めたら止まらない物語にひさびさ酔わせてもらった。小林恭二というのは、島田雅彦などと同じくぼくと同世代ということもあり同世代がどういう「動き」をしているかは気になっていたのだけれど、こんなに言葉の自在な方だとは思わなかった。それはおそらくぼくがこれまで「俳句」や「短歌」について書かれてあるその著書に目を通していなかったせいかもしれない。

 翻訳では味わえない日本語ならではの語感を存分に生かした現代の本というのはなかなか少ない。やはりもっとも味わい深いのが、謡曲ではないかと気づき、昨年あたりから、謡曲をいくつか読みはじめているところだ。

 本書は、「カブキ」そのものを題材にして奇想天外なストーリーを疾駆するように語ったものなのだが、まさにその「カブキ」のもとになっている「傾(かぶ)く」をこうした言葉によって語ろうとする試みをこれほどの疾駆する面白さでかたちにするのはスゴイことだと思う。こういう物語を体験すると、その体験によって自分のなかの何かが変容させられるような感覚が味わえるのがいい。とくに、この夏の暑さのなかで、ぼーっとしている意識を鼓舞させて「傾(かぶ)」かせるのはもってこいだと思う。

 ストーリーを紹介すると、読もうとする方には失礼だと思うので、このなかで、「傾(かぶ)く」についてふれられているセリフを少し。

そうだ。人間生まれた限りはいつか死ぬ。これは自明のことだ。だが、その死の正体がどんなものかは誰も知らない。何しろ、人間死んだらそれで終わりだからな。人間にとっていちばん大事なことを誰も知らない。これはなかなかのことさ。だったら俺たちにできるのは何だ。それは死の匂いを漂わせることさ。『傾ク』という言葉があるだろう。あれは元来死を際だたせるってことなのさ。死を演じると言ってもいい。何も死にたがっているわけじゃない。ただ人間にとって絶対的に不可知である死を、せめて自律的に演じることで受容したいという気分を『傾ク』って呼ぶのさ。日本人が特に死に方に気を配ったのが、カブキの生まれた時代さ。いつ首になるかわからない時代だったからな。逆にいえばいつか必ず首になるような時代だった。死後のことはわからんが、せめて死のかたちはきらきらしくありたい、誇らしくありたい、力強くありたい、繊細でありたい。俺たちの先祖であるカブキ者たちは切実に願ったのさ。(P309)

 神秘学なんぞを学ぶと、「死」がやたらと近しいものとなり過ぎて、逆に、「死」を「自立的に演じ」、「死のかたち」へのこだわりがいまひとつ緊張感に欠けるものとなりかねないのだけれど、やはり、神秘学を学ぶからこそ、『傾』いて生きようじゃないか!というのでありたいと思う。

 瞑想や祈りというのも、ともすればスタティックで、平穏で、平和なイメージでとらえられることが多いのだけれど、そうではなくて、それらも『傾』いたものでありたいと思う。それは、生きながらにして、死と隣り合わせに自らを置くことでもあるのだから、まさに『傾ク』ことなのだから。

 

 

エリーザベト・コッホ、ゲラルト・ヴァーグナー

「色彩のファンタジー」


(1998.7.14)

 

■エリーザベト・コッホ/ゲラルト・ヴァーグナー

 「色彩のファンタジー/ルドルフ・シュタイナーの芸術論に基づく絵画の実践」

 (松浦賢訳/イザラ書房/1998.4.21)

 シュタイナーは、キュルシュナーの「ドイツ国民文庫」の「ゲーテ研究自然科学論集」の編集にたずさわり、さらに、最大のゲーテ全集でもあるヴァイマール版のゲーテ全集のなかの自然科学論集のかなりの部分編集しました。

 ゲーテの自然科学に関する研究には、「形態学」に関するものや「色彩論」に関するものがあるのですが、シュタイナーは、そのゲーテの「色彩論」を再評価し、それを展開させました。

 シュタイナーの「色彩論」に関するものは、邦訳では主に、

・「色彩の本質」(高橋巌訳/イザラ書房)

・「色彩の秘密」(西川隆範訳/イザラ書房)

という2冊があるのですが、本書は、そうしたなかにもふれられている基本的な観点の紹介をしながらそれを実際に描くことのなかで実践的に理解を深めていく試みとしてとても貴重なものなのではないかと思います。

 シュタイナーの色彩論に関しては、それを最初に知った頃にほんのさわり程度にまとめたものをHPでも紹介していますが、それはまさにほんのさわりにしかすぎないおそまつなものですし、生きた紹介にはなっていません。やはり、絵画の訓練をきちんと積み重ねることなどを通じて、生きた理解の仕方をすることが必要なのだと思います。その意味でも、本書は、上記のシュタイナーの色彩に関する発言とあわせて体験的なかたちで読むことができるとてもすぐれた内容になっています。

 本書の最後には、訳者の松浦賢訳さんによる「ゲーテとシュタイナーの色彩論について」というとてもわかりやすい解説もあり、シュタイナーの色彩論がどのような観点のものなのかについて概観するにも格好なものとなっています。

では、本書に紹介されている本文のなかのシュタイナーの「色彩の本質」(GA291)のなかにある言葉から。

地上で形態や色彩として生み出されるものと、もっとも深い内面において私たちの魂を動かす霊的な認識のあいだに、内的なつながりを探究する必要があります。

多くの人にとって抽象的な理念にとどまっている精神科学の内容と、私たちの手や鑿(のみ)や絵画のなかから生じるものとのあいだに、橋を架けることが求められています。

私たちは、色彩の問題に深く関わることによって、魂と精神科学(霊学)をつなぐことができるようになるかもしれません。私たちは、生きた色彩の流れを体験することによって、自分自身から抜け出して、宇宙的な生命とともに体験できることができるようになります。色彩とは、自然と宇宙全体の魂です。私たちは、色彩を体験することによって、自然と宇宙全体の魂に関与するのです。

 

 

田中裕「ホワイトヘッド/有機体の哲学」


(1998.7.23)

 

■田中裕「ホワイトヘッド/有機体の哲学」

 (現代思想の冒険者たち02/講談社/1998.7.10)

 講談社からでている「現代思想の冒険者たち」全31巻の「ホワイトヘッド」の巻がようやくでました。

 ホワイトヘッドは、ニーチェやハイデッガーなどに比べると格段低い知名度しかないのですがぼくのなかでは、「現代思想」では、西田幾多郎と並び傾聴すべき哲学者の筆頭にいます。もちろん、シュタイナーは別格だといえるのですが、アカデミックななかでは、これほどの内容のものが広範な分野で研究されているというのは、現代におけるひとつの大きな可能性なのではないかと思います。

 ホワイトヘッドは、ほぼシュタイナーと同時代人なのですが、シュタイナーが亡くなってから、その本格的な活動を始めたという感じの晩熟の方です。というより、しっかりとした基礎を十分時間をかけながら構築しながら、その思想を確実に展開させていった方だといったほうがいいでしょうか。

 ちなみに、ホワイトヘッドの誕生日はぼくと一日違いです(^^)。だから、ファンだというのでもないのですけど。

 ぼくがホワイトヘッドの名前を始めて知ったのは、ラッセルとヴィトゲンシュタインなどの論理実証主義との関係からでした。ラッセルは、ホワイトヘッドと共著で有名な「数学原理」を公刊したわけですが、ラッセルはホワイトヘッドより随分若くて、早熟なものですから、けっこう目立っているのですが、思想をそれ以降あまり発展させていません。そういえば、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にもラッセルが関わっていますが、それ以降のヴィトゲンシュタインの展開には理解を示さなかったようですね。

 ちなみに、T・S・エリオットがラッセルを「永遠に早熟である」と評したそうですが、それをもじって本書では、ホワイトヘッドを「永遠に晩熟である」といっています。

 その晩熟さゆえに、ホワイトヘッドは、本書でも「7つの顔を持つ思想家」として紹介されています。

 その「7つの顔」というのは、まず先ほどご紹介したラッセルとの共同作業にみられるような「数学的論理学者」の顔です。さらに、アインシュタインの重力理論に代わる新しい重力理論である「相対性原理」の著者としての「理論物理学者」の顔があります。また、自らをプラトンの後継者として位置づけていたように「プラトニスト」の顔、「過程と実在」という書にみられるような「形而上学者」の顔、そしてホワイトヘッドの影響のもとにアメリカの神学者が「プロセス神学」を起こしたことにみられるような「プロセス神学の創始者」の顔、それから、ホワイトヘッドの哲学のもつ有機体的自然観がエコロジーの先駆でもあるということからくる「深い意味でのエコロジスト」の顔、最後に、ラッセルが「ホワイトヘッドは教師として非の打ち所がなかった。……私の中に、そして彼が接した有能な青年たちすべてに彼は真摯この上ない永続的な愛情の灯火をともした」といっているような「教育者」であり「文明批評家」であるような顔です。

 こうして並べてみるだけではわかりにくいのですが、アカデミックな立場でこれだけの顔を持つと言うことはほんとうに稀有なことなのではないかと思います。

 さて、ホワイトヘッドの哲学は「有機体の哲学」というふうに言われていますが、ホワイトヘッドは「有機体」という言葉からもわかるように、自然をいわば死んだもの、対象化されるだけのモノだとはとらえませんでした。人間も自然も生きた「活動的存在(アクチュアル・エンティティー)」の連鎖としてとらえられ、さらにすべての存在が、いわば仏教の「縁起」のように「相依性の原理」のもとで、どの事物も(もちろん人も生き物も)主体でありその事物固有の世界をもっていて、主体はその都度全世界を自分のなかに統合し、同時に客体として世界に自己を与える存在でもあるとしてとらえられています。そうした考え方から「神学」の部分もでてきますし、西田哲学との共通性のところもでてくるのですけど、長くなりますので別の機会にさせていただきます。

 ホワイトヘッドは、まるでかつて華厳に関わった仏教者ではなかったかと思えるほど仏教的な側面があって、同時にあの仏教のわかりにくい用語のように難しい表現や用語がけっこうたくさんでてきますので、本書も読み進むにあたって、少し難しい部分もあるのですが、おそらくは、シュタイナーの神秘学をある程度理解しているとすれば、そこでいわんとしている問題点などをとらえていくのは比較的容易なのではないかと思います。


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