風の本棚14

(98/4.26-98/5.30)


■長沼行太郎「思考のための文章読本」

■落合仁司「<神>の存在証明」

■西成彦「ラフカディオ・ハーンの耳」

■村上春樹「辺境・近境」

■「グルジェフとクリシュナムルティ」

■松居桃樓「微笑む禅」

■「夢中問答」

■高橋巌「自己教育の処方箋」

■森田良行「日本人の発想、日本語の表現」

■ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路/ネイティヴ・アメリカンの口承史」

 

 

 

長沼行太郎「思考のための文章読本」


(1998.4.26)

 

■長沼行太郎「思考のための文章読本」(ちくま新書154/1998.4.20)

 すでにトポスノート52で少しだけご紹介したのですが、まさに、この本は「思考のための文章読本」。

 「文章読本」の類は、オーソドックスな文学関連に疎いぼくとしては、拾い読み以外には、ほとんどまともに読んだことがないのですが、ある意味で、哲学にも通じているといえるこうした文章読本はとても魅力的な発想本でもあり、また同時に、みずからの発想の仕方や表現の仕方についてふりかえらせてもくれるものでした。

 著者のプロフィールのところに、

イメージの思考への関心が深く、様々な思想のなかに“かたち”を読む<思考の形想学>を構想している。

 とありますが、ぼく自身の発想法というか何かをとらえようとするときに、“かたち”のイメージでとらえるところから入る傾向があるようですので、本書のコンセプトはぼくにとってもとても近しいのものに感じられました。

 本書でとりあげられている「思考」の“かたち”は、章ごとに次の10のコンセプトとしてテーマ化されています。

・単語の思考/単語は巨大な思考単位である

・語源の思考/原初の宇宙観に立ち会う

・確実の思考/方法的懐疑と論理

・全部と一部の思考/反証・量化・代用

・問いの思考/思考に形を与える

・転倒の思考/視点の転換

・人間拡張の思考/メディアと技術の見方

・擬人法の思考/どこまでがヒトか

・特異点の思考/誇張法の系統樹

・入れ子の思考/思考の原始構成

 こうしてタイトルだけ列挙しても、それぞれがどのような「思考」なのか、すぐにはピンとはこないでしょうが、本書では、それぞれのテーマに応じ、まさに「文章読本」とあるように、さまざまな文章を具体的に引きながら、それがなぜそうした「思考」なのかということをわかりやすく説明されています。

 それぞれの「思考」がどのように活用可能なのか、またそれがどのような危険性をも有しているのかなども含め、密度の濃い内容にもかかわらず、これほど読みやすくまとめるのは、並大抵のことではできなかっただろうなと思いながら読んでいたところ、「あとがき」で、本書は最初1987年に近刊予告さえでていたのが、やっと10年以上経った今年になって完成にごきつけたということだそうです。

 ここに盛り込まれているそれぞれの「思考」については、こうしてあらためて提示されてみると、なるほど自分はおりにふれてこうした「思考」を用いながらその“かたち”のイメージで何かを理解しようとしていたのだなということがよくわかりました。

 もちろん、ここでテーマ化されている「思考」は典型的なものであって、これ以外にもたくさんの「思考」がテーマ化できるわけで、そうしたことをおりにふれて、自分なりに意識化してみると、最初にも述べたように、自分がどのような発想法で何かをどのように理解しているのか、またそれを表現しているのかが分かってくるのではないでしょうか。

 本書は、どの章もとても魅力的にできているのですけど、ここでは、「確実の思考/方法的懐疑と論理」及び「問いの思考/思考に形を与える」がどのようなものかについてそれぞれの最初のところを少しだけご紹介することにしたいと思います。

 まずは、「確実の思考/方法的懐疑と論理」について。

 本章は、日常の思考のなかに確実性をさぐるのが目的である。より正確には、日常言語のなかの概念的思考の特徴をつかむことに主眼がある。

 不確実な時代だから、確実なものがほしい、という願いはだれにでもあるだろう。そして、確実なものを知っている賢者がいたら道をたずねてみたいが、そういう人がどこかにいるとは信じられないというのが現代だ。だいいち、それは自分で求めて自分で納得するしかないことがらだ。それでも先人に道を聞くことはできる。帰依するわけではないにしても、確実なものを求めてきた先人達の歩みをふりかえることは、そこにも同じ願いをもった人がいたという、発見と連携の歓びになる。ここでは、そうした先人のひとりとして、まずルネ・デカルトをえらび、思考の方法ということについてたずねてみる。それから、論理学の思考と日常の思考の「確実さ」ということについて考えてみよう。(P59-60)

 最近、デカルト的二元論ということで評判の悪いデカルトですけど、ぼくはこの人がけっこう気に入っていているのです。なんだか、この人をデカルト的二元論として近代合理主義批判として槍玉にあげる人たちというのは、ほとんどデカルトの言っていることをわかってないんじゃないかということをいつも思うのです。「方法的懐疑」は、それぞれの人が実践的に取り組むべき基本だとぼくは考えているわけです。

 続いて、「問いの思考/思考に形を与える」について。

 考える力をつけたい、もっと深く思考するにはどうしたらよいか。これは漠然とした願いのようだけど実はよい手がある。明確に問うくせをつけることだ。「問題が正しく立てられれば答えが出たと同じだ」、というのはウソではない。それに、「人間は解決可能なことのみを問う」とも言われる。問いは解決に向かおうとする意志でもあり、方法でもある。だから、「必要は発明の母」。「問いは解決の母」なのだ。 (P115)

 もう20年ほど前のことになるのだけれど、「問いと答えの弁証法」ということを知り、まるほどと関心したことがります。それはまさにこの引用にあるような「思考」です。ぼくはそれをガーダマーなどをはじめとする解釈学関連のもののなかで知ることになったのだけれど、そのことを切実に感じるようになったのは、シュタイナーの思想に出会ってからのことなのかもしれないとも思います。それは、先の「確実の思考/方法的懐疑と論理」についても同じで、シュタイナーが「薔薇十字の神智学」で、「噛みつくような疑念」の必要性を述べていたように、神秘学の基本認識に関しても、「なぜ」という問いかけを忘れないところから発するように思います。そして、その問いかけを常に忘れないことで、「問題が正しく立てる」にはどうしたらよいかを模索し続けることで、「認識の限界」というトラウマから解放されることもできるのではないかとも思います。

 こうしたことをいろいろ考えながら、本書を読み進めることは、「思考」をパターン化し、ルーティーン化することから自由になるためにもとても有効なのではないかと思います。

 

 

 

落合仁司「<神>の存在証明」


(1998.4.26)

 

■落合仁司「<神>の存在証明/なぜ宗教は成り立つか」

 (講談社現代新書1392/1998.2.20)

 この本の著者、落合仁司氏の専攻は「宗教学、数理神学、東方キリスト教学」ということですが、「数理神学」というのはこれまであまり知りませんでした。本書を手にとったのは、ひとつには、「<神>の存在証明」を「集合論」として扱うということで興味をひかれたのと、もうひとつには、「東方キリスト教学」ということに少し前から興味をひかれていたということがありました。

 神や仏と人間とはどう関わるのかということについて、著者は、大きく二つの類型があるといいます。一つは、神が人間と成ってこの世界に現われたり、神が自らの言葉を人間に預けたりするという「他者内在型」という類型、もう一つは、人間が仏となってこの世界の他者と合一したりする「自己超越型」という類型。

 前者を強調するのが西方キリスト教、後者を強調するのが仏教で、その両者、神の受肉あるいは預言と人間の神化のどちらにも等しく重点を置いているのが東方キリスト教とイスラム教だといいます。

 で、神が人になるというのは、この世界の他者、無限である者がこの有限な世界に内在するということであり、人が神になるということは、この有限な世界に生きるわれわれ人間が、この世界を超越し、無限であるものと等しくなるという自己超越です。そのように、無限が有限となり、有限が無限となるという矛盾が成り立つことであって、そうした矛盾をどう説明するかにあたって、主に著者の専門である東方キリスト教を題材にして、「宗教に普遍的な論理」を「集合論」で説明しようというのが、本書のかなり大胆な試みになっていて、なかなかスリリングで読みごたえのある内容となっています。

 詳細に関してはぜひ手軽に手に入る本書を参照していただきたいのですが、その結論あたりのところをはしょって少しご紹介しておくことにします。

 「数理神学」「神の集合論」というからなんだか難しそうではあるのですが、けっこう直観的にとらえることのできるある意味ではわかりやすい結論になっているのが面白いところですし、わかりやすいといいながらも、説得力のある重要な結論であるところがまたなかなかスリリングでいいのではないかと思います。

数理神学あるいは神の集合論は何を達成したのか。それは、この世界の他者、神や仏が無限であるということをひとたび認めたならば、論理的に受け入れざるをえない神や仏の性質を明らかにしたことである。(中略)

神の集合論が見出したこの世界の他者の普遍的な構造には少なくとも以下の二つの点が含まれる。第一点は、この世界の他者は一であると同時に多である。この世界の他者が無限であるとするならば、その全体は自らと同一の多くの部分を含む。神は一であると同時に多であり、仏は多であると同時に一なのである。(中略)

第二点は、この世界の他者は自らをも超越する。この世界の他者が無限であるとするならば、自らの無限を超越する無限(ベキ集合)が必ず存在する。最も大いなるものである神あるいは仏は、自己自身よりさらに大きいのである。(P156-157)

 当然のごとく、上記の第一点の「この世界の他者は一であると同時に多である」ということからは、多神教と一神教の対立が無意味であることがわかります。また、第二点からは、「神や仏の超越は決して終わりのない未完の運動である」ということが導き出されます。

 つまり、別の表現をとるならば、完全なるものがさらに完全なるものへとみずからを超越し続けるという宇宙進化の運動ということでもあります。

 そして、この第一点と第二点を総合して、そこに人間を置いてみるならば、その存在の意味が、宇宙進化論的に見えてくるようにも思います。

 それはともかくとして、こうした本書の試みは、なかなか珍しく、「神学」という名でイメージされるようなくさ味もありませんので、こうした視点をひとつ理解しておくのもけっこう有意義なのではないかと思い、紹介させていただくことにしました。

 

 

 

西成彦「ラフカディオ・ハーンの耳」


(1998.4.27)

 

■西成彦「ラフカディオ・ハーンの耳」

 (岩波書店・同時代ライブラリー340/1998.4.15)

 ラフカディオ・ハーン、小泉八雲に興味をもったのは、比較的最近のこと。HP(「神秘学・宇宙論・芸術」のなかの「日本論3」94.12〜)で、三浦雅士「身体の零度/何が近代を成立させたか」(講談社選書メチエ)に関連して日本の近代化等に関することをあれこれと考え始めたとき、そのなかに、「日本人の微笑」など、ハーンが紹介されていたのに興味を持って以来のことで、それ以前はごく常識的に、その作品のいくつかに親しんでいただけでした。

 それ以来、その作品を含め、研究書などにも少しは目を通していたのですが、本書が1993年に単行本として刊行されたときには、その存在は知っていたものの、まだあまり興味を引かれるまでに至らなかったのですが今回文庫化されたのをきっかけに、「耳」というタイトルにも興味を引かれ、また本書に数多く収録されている、明治期の写真や図版などの面白さもあって、手にとってみることになりました。

 本書には、タイトルにあるように「耳」に関連づけられながら、「大黒舞」「ざわめく本妙寺」「門づけ体験」「ハーメルンの笛吹き」「耳なし芳一考」などどれも思わず引き込まれてしまうような内容が盛り込まれていて、それについてひとつひとつご紹介していく余裕はないのですが、本書のテーマを集約したものをあえて本書のなかから拾い出すとすれば、「耳なし芳一考」の最後のあたりに記されている次のようなところでしょうか。

 ひとびとが雑音として抑圧してしまった音に、敢えて耳を傾け、耳本来の受動性にすべてをゆだねること。ラフカディオ・ハーンの耳が、明治中期の日本で十四年かけておこなったフィールドワークの中で最もかけがえのない部分は、この聴覚を介した作業であった。松江時代には書斎にこもりきるよりはフットワークのよさを発揮したハーンだが、熊本から神戸、そして東京に至るにつれて、彼は職場と自宅を往復するだけのサラリーマンと化した。この点では、民俗学者として、彼はどんどん堕落していったのである。しかし、怪談を語って聞かせるセツの側で耳の穴をおしひろげながら、ハーンは盲目の琵琶法師へと変身し、後に柳田が仮説として立てることになるような口承文芸の本質的特徴を、推理力によってではなく、身体感覚を通してつかみとった。明治期の日本人が、急速に磨滅させはじめた身体性のレベルにおいてである。

 その日本体験は、言語聴取の器官としてよりは、純粋な雑音に向かって開かれた器として耳を用いることによって可能になった。それは日本を知的に理解する上ではたいへんな迂回であったし、十四年間の滞在は廻り道をするには短かった。しかし、耳という通路を開放にして、いかなる雑音をも排除しない、いかなる衛生学をも介入させない中立を貫くことで、日本的身体性に限りなく近づいてしまった帰化日本人、それがハーンであった。(P202-203)

 目は閉じれば見えなくなるが、耳は自分で自分を閉じることができない。そういう意味の言葉を残しているのは、我が敬愛する寺田寅彦ですが、しかし、耳は閉じることができないからこそ、その自衛手段として、耳は、聞くことに対して、みずからのあり方を最初から決めてしまっているというところがあります。

 自分の聞こうとする音以外はすべて「雑音」とし、それを排除してしまう仕方もそのひとつで、近代日本は、その排除によって、耳をスポイルし続けてきたといえます。

 ハーンは、瞽女を褒めそやし、

西洋の音譜にむかしから書かれたこともないような全音・半音・四分の一音を自由に歌いこなす

 とも書いているくらいなのですが、「日本的身体」における、西洋的な尺度では測れない「耳」は今どこに残っているのか疑わしいまでになっています。むしろ、みずからの身体性を放棄しながら、非常に即物的な部分だけ西洋的な身体性をコピーしようとし、その宙づりの状態のなかにいるともいえるのではないかと思われます。

 「耳」ある人、にとっては、現在の日本人の音に関する鈍感さはあまりあるほどのひどい状態だといえるのですが、スポイルされた「耳」にとっては、おそらくは実の所それが無意識的に深く働きかけているにもかかわらず、それがなんでもないらしい。

 本書は、そうした提言をしているような内容ではないのですが、ハーン後、100年ほどの時代にいる我々にとって、ハーンの耳についてのこうした論考にふれることは、なにがしかの感受性を得るためには有効なのではないかと思われます。

 

 

 

村上春樹「辺境・近境」


(1998.4.28)

 

■村上春樹「辺境・近境」(新潮社/1998.4.23)

 村上春樹の最新旅行記。最新といっても、収録された文章の初出誌一覧をみると、主には1990年〜1995年。基本的には「ねじまき鳥クロニクル」前のものが多く、一部、「アンダー・グラウンド」前のものがあるという感じです。

 出かけた先、及びテーマは、「イースト・ハンプトン/作家たちの静かな聖地」、「無人島・からす島の秘密」、「メキシコ大紀行」「讃岐・超ディープうどん紀行」、「ノモンハンの鉄の墓場」「アメリカ大陸横断を横断しよう」、「神戸まで歩く」、など。

 村上春樹ならではの、相変わらず独特なユーモアに一気に読まされてしまいながら、そうしたなかでいつのまにか次のような言葉に表現されているような思いを共有することになりました。これは、「アンダー・グラウンド」などにもつながるものかもしれません。

いちばん大事なのは、このように辺境の消滅した時代にあっても、自分という人間の中にはいまだに辺境を作り出せる場所があるんだと信じることだと思います。そしてそういう思いをつい確認することが、即ち旅ですよね。そういう見極めみたいなものがなかったら、たとえ地の果てまで行っても辺境はたぶん見つからないでしょう。そういう時代だから。(P252)

 ところで、今回は、ぼくの住んでいる四国の話題が「讃岐・超ディープうどん紀行」としてとりあげられていて、ぼくも行ったことのある「超ディープ」なうどん屋さんが紹介されていました。「中村うどん」です。

 こうした超ローカルな話題が「辺境」ネタとして取材の対象となるのは少し複雑な気持ちもするのですが^^;、ここで紹介されている内容は実際にそうなので、やはりそうなのかな、そうなのだと思ってしまいます。

ここは文句なしに凄かった。ディープ中のディープのうどん屋である。ひどく交通不便な場所にあるうえに店の場所もわかりにくいので、一般旅行者にはまったくお勧めできないけれど、マニアックにうどんの好きな方には是非試していただきたいと思う。苦労して行くだけの価値のあるうどん屋である。

まずだいいちにこの店はほとんど田圃のまん中にある。看板も出ていない。入口には一応「中村うどん」と書いてあるのだが、それもわざと(だと思うけれど)道路から見えないように書いてある。奥のほうまでぐるっとまわりこんでいかないと、それがうどん屋であるとは絶対にわからないような仕掛けになっている。

ここの店では客が並べて置いてあるうどん玉を勝手にゆがいて、だし汁なり醤油なりをかけて食べ、勝手に金を置いて出ていくのである。

うどん屋の建物の裏は畑になっていて、そこには葱が植えてある。お客の証言によると、昔「おっちゃん、葱がないで」と文句を言ったら、「やかましい、裏の畑から勝手にとってこい」と中村父に叱られたそうである。

 なんだか、変なところを引用してしまうことになりましたが、こうした記述は誇張でもなんでもなくて、その通りなので、ついついつまらない引用が長くなってしまいました。

 ぼくが知人にぜひといわれ、この中村うどんに行ったときも、ご主人らしき人はただただ葱をきざんでいるだけで見よう見まねで自分でうどんをゆがいてわけのわからぬうちにたくさん食べて支払からおつりをもらうところまで自分で勝手にして出てきました。なんだか不思議な感じだけが印象にあったりしたのですが、たしかに味は抜群によくて、こんなうどんはほかではなかなか食べられないのではないでしょうか。

 しかし、高松のひとたちは、本書にあるようにほんとうにうどん好きで、ひどい人は朝昼版と、この人はうどんしか食べないのではないかというくらいのうどんフリークがいたりします。

 なんだか、変な紹介になってしまいましたが、最後に少しちゃんとしたことを書いてしめくくりたいと思います。「神戸まで歩く」から。

西宮から神戸までの道をひとりで、二日がかりで黙々と歩きながら、僕はそのような命題についてずっと考えていた。地震の影の中に歩を運びながら、「地下鉄サリン事件とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。あるいは地下鉄サリン事件の影を引きずりながら、「阪神大震災とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。それら二つの出来事は、別々のものじゃない。ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明解に解くことになるはずだ。僕はそう思う。それは物理的であると同時に心的なことなのだ。というか、心的であるということはそのまま物理的なことなのだ。僕はそこに自分なりの回廊をつけなくてはならない。そしてさらにつけ加えるなら、「僕に今、いったい何ができるか」という、より重大な命題がそこにはある。(略)

結局のところ僕という人間は、自分の両足を動かし、身体を動かし、そのような過程をいちち物理的に不細工に経過することによってしか、前に進むことができないのだ。そしてそれには時間がかかる。惨めなほど時間がかかる。間に合えばいいのだれど。(P239-240)

 ぼくは村上春樹のような旅にでるタイプではないけれど、ぼくにはぼくのなかにいつも「いまだに辺境を作り出せる場所がある」と思っています。そのぼくなりの旅を通して、ぼくのなかの「辺境」を旅することで何が見えてくるのかを日々感じ考え続けているわけです。そして、「僕に今、いったい何ができるか」ということをぼくはぼくなりに次第に思うようになってきました。そして、なんだかわからないけれど、ほんとうになんだからわからないのだけれどぼくのなかにも「間に合えばいいのだれど」としか表現できないような何かがいつもぼくの背中を押しているような気がしてなりません。

 こうしてMLやHPをひらいて、いろいろ書いていたりするのですが、なぜ自分がこういうことをしているのか、実のところ、あらためて考えるとよくわからないところもあります^^;。けれど、なにかがぼくの背中を押している。ぼくのこうしてしていること、書いていることはほんのささいなことなのですがそれでも自分のなかで「間に合えばいいのだれど」というような気持ちがどこかで響いているような気がしています。

 ひょっとしたら、村上春樹の小説やこうした文章を読んでいて自分のなかにそれらの言葉がよく共鳴するのも、今という時代を村上春樹はその(マラソンさえするような)身体性をふくめたもので、感じ取っていて、ぼくもぼくなりにぼくなりの仕方でそれと似たものを感じ取っているのかもしれないからかもしれません。

 ぼくにとって、村上春樹は、そういう意味での同時代に生きる作家なのです。同じ空気を生きている感じがするというか。それは、決して大江健三郎ではない、わけです。

 

 

 

グルジェフとクリシュナムルティ


(1998.5.1)

 

■ハリー・ベンジャミン

 「グルジェフとクリシュナムルティ/エソテリック心理学入門」

 (大野純一訳/コスモス・ライブラリー/1998.3.3)

 このところ、クリシュナムルティの話がでてきたりしましたので、その関連のものを理解するために比較的参考になりそうなものをご紹介します。本書の訳者の大野純一といえば、クリシュナムルティの訳者として有名ですが、「訳者あとがき」でも、本書は、主にクリシュナムルティ理解の足がかりを提供することがねらいだとしています。

 しかし、本書は、グルジェフとその弟子のウスペンスキーの両方の弟子だったモーリス・ニコルの「グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解」に基づいて「グルジェフ・システム」を解説しながら、それを通じて、クリシュナムルティの教えとの共通点を探っているものです。

 訳者の大野純一さんも、これまではあまりグルジェフやその「エソテリック=秘教的発達システム」については門外漢だということですがこれまで、グルジェフとクリシュナムルティの共通点を見ていこうという視点はあまりなかったように思いますので、本書は、どちらかしか知らない方にも、また両者を別ものとしてとらえていた方にしてもとても有効なものではないかと思われます。

 また、グルジェフとクリシュナムルティの共通点を見ていくことで、その視点からラジニーシについて理解するための足がかりとしてもひょっとしたら有効なのではないかと思われます。

 本書の内容については、関心のある方に実際に読んでいただくとして、ここでは、紹介に代えて、本書の扉に置かれている前述のモーリス・ニコルの「注解」の美しい言葉を。

なぜ<ワーク>が存在し、何をそれが意味しているかをあなたが理解するとき、それが輝く。それは“解放”についてのものである。それは、あたかも何年も監獄に閉じこめられていたあたなの許に見知らぬ人が入ってきて、あなたに鍵を渡すかのように美しい。が、監獄の習慣があなたに染み着き、かなたの星々こそが自分の故郷だということをあなたが忘れてしまったので、あなたはそれを断わるかもしれない。

 まず大切なのは、自分は今監獄にいるのだと知ること。今の自分が自由だなどと勘違いしないこと。また自分が自由だと思いこんでいることは、実際には監獄から出ないための理由づけにすぎないことを知ることです。

 鍵はだれにとってもすぐ手の届くところにあるのですが、それを鍵だと思いたくないわけです。それを鍵だと認めてしまうと、言い訳ができなくなってしまうから。

 このように、グルジェフの意図する“解放”は、クリシュナムルティのそれと極めて同じ観点から語られていることがわかります。そして、ラジニーシを理解するのもそこが糸口になるのではないでしょうか。もっとも、それが成功しているかどうかは別の問題になるのですけど。

 

 

 

松居桃樓「微笑む禅」


(1998.5.2)

 

■松居桃樓「微笑む禅/生きる奥義をたずねて」

 (潮文社/平成10年4月30日発行)

 松居桃樓(まついとおる)という名前を見て、もうお歳のはずだが、新刊を出したのだな、と思い喜んで手にとってみたところ、著者は、3年半ほど前に亡くなっていたと知りました。松居桃樓さんの著書からは、ほんとうにいろいろなことを教えていただいたと思っているだけに、感慨深いものがありました。

 本書は、昭和54年に出版された「禅の源流をたずねて/天台小止観」の新装版で、NHKラジオで昭和53年の4月から54年の3月までに放送されたものを書き取ったものだということです。

 これまでの松居桃樓さんの著書もそうですが、これは田所静枝さんという、「蟻の会」以来、松居桃樓を補佐し続けた方によって刊行されています。本書の「新装版発行にあたって」に、田所静枝さんのこんな言葉が記されています。(*「蟻の会」は、東京浅草の「蟻の街」という廃品回収の貧しいひとばかりが集まっている町づくりのために起こした会)

 著書は長逝して三年半経ちました。三十余年ついていて弟子という位置はついに許されずに一人取り残され、自失していた私に、この本を再び世に出して下さるというお話は希望をよびさまされるものでありました。

著者が初心者への禅の指導書として、これ以上はない珠玉の書−−と信じてやまなかった「天台小止観」を、いかに平易に紹介できるかに、全力が傾けられていたことが思い出されます。

 「三十余年ついていて弟子という位置はついに許されずに」というあたりが松居桃樓さんらしいところで、弟子は一人もいないと言い切っていた親鸞を思い出させるものがあります。

 弟子をとらないということは、自分を師だとか先生だとか思わないということ。だからこそ、常に自らを高めようとする姿勢を失わないのだといえます。自分を師だとか先生だというふうにしてしまったとたんに、よほどの覚悟がないかぎり、自分をスポイルしてしまうことになるるわけです。

 松居桃樓さんの語ることは、いわゆる霊的な事柄ではなく、ある意味ではきわめて常識的な範囲の認識の在り方にもとづいているのですが、それにもかかわらず、その内容は、極めて深い宗教性を湛えていますし、またともすれば陥りがちな宗教的なくさ味からは遠いものです。

 ぼくが松居桃樓さんの著書を読んだ時期は、シュタイナーを知る直前の時期で、それまではどちらかというと、宗教=くさい、危ないというイメージがどうしても強かったのですが(今でもそれはたくさんありますが^^;)松居桃樓さんのおかげで、そうではない智恵の深みとでもいえるものについてある種予感のようなものを得ることができたのではないかと思います。今読み返すと、もっとつっこんで書いて欲しいとか、いろんなことを思いますけど、唯物論的になってしまっている人にとっては、松居桃樓さんのようなスタンスから、理解を深めていくのが、かなり有効なのではないでしょうか。つまり、ぼくにとっても有効だったというわけです(^^)。

 松居桃樓さんについては、語ることが多すぎて何から語ったらよいかわからないのですが、今手元にある著書を読んだ順からご紹介して、著者の紹介に代えさせていただくことにしたいと思います。

 

■松居桃樓・述/田所静枝・記

 「桃樓じいさん大法螺説法!消えたイスラエル十部族/法華経・古事記の源をさがすの巻」

 (伯樹社/1985.8.15)

 今思い出しても、はじめて読んだときのスリリングな感動が思い出される本。それまで、あまり消えたイスラエル十部族だとかいう類のことにあまり興味をもったことがなかったのですが、本書を読んで以来、そうしたテーマに大きく目を開かせられました。死海写本だとか、トマス福音書だとか、グノーシスだとかいうことにも本書がきっかけになってその後、いろいろ見ていくことになりました。

 

■松居桃樓・述/田所静枝・記

 「桃樓じいさん大法螺説法!黙示録の秘密 聖書は暗号で書いてあったの巻」

 (伯樹社/1981.11.15)

 「〜の巻」と上記の本に書いてあったので、別の本もあるはずだと思って探して見つかったのが本書。聖書は秘密に満ちている!ということが、本書ではじめて実感されましたし、キリスト教は実は面白いんだ、ということがはじめて実感されました。

 

■松居桃樓

 「いのち きわみなし/法華経幻想」

 (ミネルヴァ書房/1979.1.15)

 「桃樓じいさん大法螺説法!」とはなっていませんが、たぶんこれは、上記のような「大法螺説法!」シリーズの流れのもの。「法華経幻想」とあるように、ファンタジックなSFのような設定から語られこれもぼくにとってきわめてクサかった法華経のイメージを変えてくれることになった一冊です。

 

■松居桃樓

 「死に勝までの三十日/小止観物語」

 (伯樹社/1966.5.10 初版発行)

 この解説書とでもいえるのが、今回再刊された「微笑む禅」です。これを読んだ時点ではそうではなかったのですが、その後、「三諦円融」などの思想にふれて、天台大師を深く深く尊敬するようになりました。

 

■松居桃樓

 「はじめはみんな宇宙塵」

 (伯樹社/1989.11.20)

 蟻の街での体験に基づく著者の「エントロピー哲学」が語られる著者の原点。本書は、著者の「エントロピー哲学」と「いじめを越えて」という二冊を一冊にまとめたもの。「いじめ」の問題について考えるためにも好著。

 

■松居桃樓

 「天国ははだか」

 (伯樹社/1990.2.10)

 上記の書にもつながる著者の貧乏哲学が語られています。

 

 

 

夢中問答


(1998.5.3)

 

■西村恵信「夢中問答/禅門修行の要領」

 (NHKライブラリー/1998.4.20)

 「夢中問答」は、夢窓疎石(1275-1351)が、室町幕府を開いた足利尊氏の弟の直義(ただよし)から出される禅についての問いに答えた法語93段を集めたものです。本書は、そのうち13の問答を選び紹介、解説してあります。

 夢窓疎石については、これまで名前だけで、どういう方か、ほとんど知りませんでした。興味を引かれてはいたのですが、特に適切なテキストが見つからなかったのです。今回、「夢中問答」という格好のものが見つかりましたので、読んでみたところ、その素晴らしい内容に驚かされました。

 禅の問答というと、内容は素晴らしいとしても、公案だとか、わかったようなそうでないようなものが多いわけですが、この「夢中問答」は、きわめて具体的で、「問答」とあるように、テーマに添った内容がこれ以上は望めないのではないかというほどしっかりと盛り込まれています。ぼくがこれまで読んだ仏教関係のものでいえば、最高の内容の部類に入るのではないかと思います。必要なことが難解晦渋な表現を避けながら実質的にかつ簡要にしかもきめ細かく書かれていて、しかも文章が生きて迫ってくる。

 比べるのもなんですが、読み進めながら、これはまるでシュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」の禅バージョンではないか、ということさえ思わせるものでした。こうしたものが、室町時代の最初の頃に出版されていたというのは、驚くべきことではないかと思います。

 しかも、この「夢中問答」は、夢窓疎石がまだ生きているうちに、仮名交じり文で記されていたということです。

 本書には次のテーマでの13の問答を中心にしたものが紹介されているのですが、93の問答すべてを読んでみることにしたいと思っているところです。

・月の衆水に影を映すがごとし

・仏道に内魔と外魔とあり

・仏界をも愛せず 魔界をも怖れず

・禅門に学解機智をきらふこと

・莫妄想の一句を通過せば

・仏に根本智と後得智とあり

・無上菩提を信ずる心もて

・得失是非一時に放却せよ

・仏道修行に效なしとて

・万事と工夫との別あるべからず

・本文の田地に到る道

・かならず教外別伝を信ずべし

・この問答を記し置くこと

 なお、この「夢中問答」に関しては、トポスノートでもとりあげてみることにしたいと思っています。

 

 

高橋巌「自己教育の処方箋」


(1998.5.19)

 

■高橋巌「自己教育の処方箋/おとなと子どものシュタイナー教育」

 (角川書店/平成10年5月15日発行)

 「処方箋」とか「おとなと子どもの」とかいう言葉がタイトルにあるので、比較的軽めのものかなと思って読み始めたのですが、「学ぶ」ということ、「自己教育」ということをめぐって、角川選書などにもある高橋巌さんの他の著書と同じく、けっこう骨のある、深くアクティブな内容になっています。

 おそらくこのタイトルは、販促用につけたようにも思うのですが、やはり、「シュタイナー教育」ということで最近出されながら、「シュタイナー教育」という名前をつけなくてもいいような他の方々の著書などとは一線を画しているなという印象があります。本書の中でも、ブランド化されている傾向のある日本の昨今の名前だけの「シュタイナー教育」への批判もちらほらあったりもします。

 本書は、次のような言葉で始まります。

ルドルフ・シュタイナーは、教育には処方箋がない、と述べています。

 本書のタイトルは、「自己教育の処方箋」となっているのが、「教育には処方箋がない」というのと矛盾していて面白いのですが、これはおそらく、「処方箋」は外からノウハウのように与えられるのではなく、それぞれが自分なりの格闘を通して発見していかなければならないという、高橋巌さん流の意図的な表現なんだろうなと思います。

 それと、子どもの教育のことばかりがノウハウ的に云々されていることに対して、「おとな」の、つまり人間学としての「自己教育」というテーマについて著者なりの考え方を提示する必要を強く感じられたのかもしれません。つまり、大人だからこそ自分で学ぶことが必要なのだということです。本書は、シュタイナーの思想をガイドとしながら、一人一人が自己教育によって学ぶためのざまざまな観点が著者なりの仕方で語られているといえます。

 本書の内容については、別途ご紹介させていただこうと思っていますが、ここでは、「あとがき」に書かれている次のような重い言葉をご紹介することにします。

 宇宙のあらゆるところに存在する生きる意志を感じとり、自分もその意志に生かされていると思う、そういう基本的な宇宙感覚は、知性を育て、技術を発達させる中で、現代の教育現場から失われてしまった。私たちは物質に限りなく隷属して、学ぶことの本質から離れたところで、右往左往している。だから宇宙感覚の現われである「誇り」とか「志」とかいう言葉も、このごろはあまり聞かれなくなった。しかし子どもは皆、誇り高く生きようとしている。人前で叱られるのをひどく嫌うのもその表われである。

 誇りをもった子どもの代わりに、このごろはよく、キレる子どものことが話題になっている。しかし。誇りを奪われるから、キレるのではないだろうか。すぐにキレる親や教師に誇りを奪われて、子どもが反抗すると、その親や教師は、「このごろの子どもはすぐにキレる」と言う。長年、教育の現場で経験を積んできた友人は言う。「先生のほうがとっくにキレていた」と。すぐにキレるのは生徒ではなく、教師の方で、子どもはその先生を見習って、キレるようになったのだという。

 親が子に対して、夫が妻に対して、教師が生徒に対して、キレるのを当然のように是認していた状況の中で、弱い者が強い者に対して突然反抗的になったとき、「キレる」という特別の言葉が子どもに対して使われるようになった。そして今、教師の自己防衛とか警察官の導入とかが教育問題として取り上げられている。教育の理想を高く掲げることができず、教育そのものが今、誇りと志を失っている。(P210-211)

 誇り高く生きたいというのは、誰にとっても大きな願いのはずなのに、いつのまにか、それがお金になったり、名誉になったりしてしまっています。人が生まれてきたということは、大いなる意志の表われだといえるのに、その意志がいつのかにかすり替えられてしまっているのです。それを巧妙にすり替えているのが、今の教育だといえます。

 キレる子どもを正当化しようとは思わないけれど、教師も親もすでにキレているのに、キレていることを認めないのは、フェアじゃない。それは、自己教育という発想がないからではないか。そして子どもは、それをまねてゆく。

 誇り高く生きるためにはどうしたらいいのだろうか。そうした自問から始めなければならないように思います。その自問こそが、自己教育だともいえます。そのためのヒントが本書にはたくさん盛り込まれているのではないかと思います。

 

 

 

森田良行「日本人の発想、日本語の表現」


(1998.5.28)

 

■森田良行「日本人の発想、日本語の表現

      「私」の立場がことばを決める」

     (中公新書1416/1998.5.25発行)

 日本に生まれ育っていると、否応なく「日本人の発想」「日本語の表現」から影響を受けるが、それは「○○人の発想」「○○語の表現」というように、日本に限ったことではない。

 しかし、日本人は、明治維新後のことだろうが、「発想」「表現」が日本人の受け入れようとしていた西欧のそれと異なっていることを意識し始めたようで、それで、日本人論や日本語論やらがたくさんでているようだ。それを見て、いろいろ考えさせられることもあるし、西欧の哲学や、シュタイナーの神秘学などにふれる場合でも、多かれ少なかれ、西欧との「発想」「表現」の違いを意識させられることが多い。

 そして、その違いの部分と同時にもちろん共通する部分も含めてそれらをいかに認識するかによって、それらを有効なガイドとすることができるように思う。

 さて、本書は、次のようなテーマで書かれたものだ。(カバー折り返し部分の紹介より)

日本語は、発話者がどんな視点に立っているかを認識したうえで、場合場合に応じて表現を選択してゆく。それによって、言語生活を円滑に進めているのである。その一方、外国語に見られるような形式的論理を中心とした客観的な表現姿勢がとりにくい。これは、日本人の物の見方や考え方と共通するものがあるからではないだろうか、本書は、豊富な実例を引用しながら、日本人の思考様式と日本語の姿や表現との関わりを探る試みである。

 たしかに、本書は、「日本人の発想」「日本語の表現」を意識的にとらえかえしてみるのには、かなり有効なのではないかと思う。日本語は「私」中心の発想で、「内」と「外」とをかなりはっきりとわけてとらえる。おそらくは、「私」を表わす言葉が多様なのも「私」中心の発想ゆえのもので、その「私」を意味する言葉が「われ」「手前」というように相手を表わすことばとしても使われることもそれゆえなのだろうと思う。

 しかし、その「私」というのは、「個」というのではないというところが面白い。それに、「私」中心で、感情や人間関係の表現の機微にすぐれている反面、その「私」をいわば客観化しにくく、対象化した表現や、思想や論理の表現についての困難さを抱えているということはいえるように思う。

 著者は、「あとがき」で次のようなことを述べている。

たとえば、多くの国では、買い物をしてお釣りをもらうとき、まず桁の小さい金額かの小銭から始めて順に上の単位へと上がって、最後に大きなお札へとたどりつく。大きな札から順に下の桁へと進む日本の釣り銭方式とはまったく逆の順序である。慣れないうちは本当に全額釣りを渡してくれるのかどうか不安だったものだ。こんな些細な問題でも、発想のパターンとしてとらえていくと、意外なほど共通性を持っていて、「なるほど。そうだったのか」と驚かされることが多い。外国の住所の表示一つを見ても、まず最小単位の地番から始まって都市名、国名へと次第に範囲を広げていく。釣り銭の計算とまったく同じだ。人の名前も個人の名前から始まって家族の名前「姓」へと進む。どうやら彼らに共通の発想は、まず「個」からスタートして全体へと展開する膨張型だし、我々日本人の考え方は、「個」(己)の存在を成立させるためにまず全体を設定して、それから順に同心円の輪を狭めていく。個は最後に行き着く「点」だ。「初めに全体ありき」というのが日本人の発想の出発点で、その定められた領域が決まらなければ何一つ始まらない。無限に広がる大地の大陸とは異なり、初めから限られた猫の額のような狭い土地、島国日本に住む日本人の宿命なのだろうか。(P237)

 「島国日本に住む日本人の宿命」だとは思わないし、その両方の発想をダイナミックに活用する可能性も大切ではないかと思う。「初めに全体ありき」という発想も、悪くすればこれほど窮屈はないのだけれど、その発想の可能性というのも否定できない。その可能性を広げるためにも、「個」からスタートする発想でそれを補完していくというか、裏付けていくというような、双方向、まさに「インター」「インターネット」という発想が必要だと思う(^^)。

 おそらくは、どちらの発想もそれを偏狭に使えばどうしようもない閉塞状態に陥ってしまうのだろうし、逆にそれを突き詰めていくならば、陰陽の太極のようにそれぞれの発想は逆転していくのではないか。ホメオパシーのような発想もそのようにとらえていくことも可能だと思う。

 

 

ポーラ・アンダーウッド

「一万年の旅路/ネイティヴ・アメリカンの口承史」


(1998.5.30)

 

■ポーラ・アンダーウッド

 「一万年の旅路/ネイティヴ・アメリカンの口承史」

 (星川淳訳/翔泳社/1998.5.25発行)

 カスタネダ、ローリングサンダーなどの話が出ましたが、ちょうど、ネイティヴ・アメリカンによる口承史が出ました。

 この口承史がどういうものかについては、扉に次のように紹介されています。

アメリカ大陸に住む、インディアンとも呼ばれるネイティヴ・アメリカンの人々は、その昔ベーリング海峡が陸続きだったころ、すなわちベーリング海峡を渡り、アジア大陸からあまりか大陸へやってきたモンゴロイドの子孫だという説が定着しつつある。「一万年の旅路」は、ネイティヴ・アメリカンのイロコイ族に伝わる口承史であり、物語ははるか一万年以上も前、一族が長らく定住していたアジアの地を旅立つところからはじまる。彼らがベーリング陸橋を越え北米大陸に渡り、五大湖のほとりに永住の地を見つけるまでのできごとが緻密に描写されており、定説を裏づける証言となっている。イロコイの血をひく著者ポーラ・アンダーウッドは、この遺産を継承しそれを次世代に引き継ぐ責任を負い、ネイティヴ・アメリカンの智恵を人類共有の財産とすべく英訳出版に踏み切った。

 モンゴロイドの子孫としてのネイティヴ・アメリカンについてぼくがはじめて興味をもって見るようになったのは、10年ほどまえにでた北山耕平さんの「ネイティブ・マインド」(地湧社)にふれてからのことになります。「ローロングサンダーの教え」を知ったのもその著作からでした。それまでにも、カスタネダの著作のようなかたちでの興味を持ってはいましたがネイティヴ・アメリカンそのものについてはあまり知りませんでした。

 ネイティヴ・アメリカンの継承している智恵については、ここでそれを云々するまでもないことなのですし、北山耕平さんをはじめとした方々がこの10年ほどのあいだに、いろいろなかたちでその紹介に努めてこられたようです。すっかりポピュラーになったというわけではないにしても、ビジョン・クエストなどについてもそれをテーマとしたものさえ邦訳ででていますから、かなり参照しやすくなっているように思います。

 さて、「一万年の旅路/ネイティヴ・アメリカンの口承史」をとても面白いお話として読むこともできますし、ネイティヴ・アメリカンについての歴史を綴った書として読むこともできるように、ひとによりいろいろな読み方が可能ですが、ぼくとしては、それ以上に、ネイティヴ・アメリカンならではの発想法、古代から培われてきた認識の方法が、かつてどういうものであり、それがそのまま継承されるというよりも、幾多の苦難や困難、他の民との交流等を通じて、どのように育てられてきたのか、そういったことに興味を引かれながら、今読み進めているところです。

 こうした書は、これからも長く読み継がれていくべきものだと思うのですが、それを単なる過去の記録として読むよりも、古代からの感じ方、考え方などを今そしてこれからどのように生かすことができるのか、また、そうした感じ方、考え方などを鏡としながら、またガイドとしながら今の自分のそれを「見る」ための思いがけない視点、物差し、言語・・・等々としてじっくり検討してみるというのが、こうした口承史の持つ意味を引き出すためには必要なのではないかと思います。

 ネイティヴ・アメリカンの近代における迫害の歴史などを知ることもまた重要なことですけど、そこで多くのものが失われてきたとしても、そのプロセスを通して残されてきたものの智恵を学ぶこと。そして、かつてひょっとしたら、自分もそのネイティヴ・アメリカンの口承史のなかで語られている人物のひとりだったかもしれず、そうした経験が今の自分にもその深みにおいて生かされているのではないかなどと想像しながら、自分のなかに眠っている宝物を再発見すること。そうすることで、こうした書は、はじめてその生命を得てくるのではないか、ということを考えたりしているところです。

 実は、今日、仕事で、早朝から瀬戸内海の離島に渡りました。100人ほどのかたの住んでいる島なのですけど、そこにいらっしゃったおばさんたちおじさんたちの顔を眺めていて、「ここの方にネイティヴ・アメリカンの衣装を着せれば、けっこう違和感のないどころか、ネイティヴ・アメリカンとあまり区別がつかなくなるのではないか」とか思ったのですが、スタッフにそれを帰りに話したところ、「それいえてる」とか笑っていました(^^)。たぶん、この口承史のネイティヴ・アメリカンと先祖が同じなのかもしれません。

 その先祖がネイティヴ・アメリカンかもしれない(^.^;方をけっこうしきっているようにも見えるおばちゃんが、帰りに、その島でちょうどとれた枇杷をたくさんくださったのですが、なかなかいい笑顔でした。こんな笑顔のネイティヴ・アメリカンが火の端に座りながら、語ってくれているのをイメージしながら本書の残りを読んでみようか、などと思ったりしています。


 ■「風の本棚14」トップに戻る

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る