風の本棚13

(98/3.12-98/4.13)


■沢庵「不動智神妙録」・水上勉「沢庵」

■ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話」

■金子みすゞ童謡集

■河合隼雄「日本人の心のゆくえ」

■尾木直樹・宮台真司「学校を救済せよ」

■西川隆範「薔薇十字仏教/秘められた西方への流れ」

■五木寛之「蓮如物語」

■上松祐二「シュタイナー・建築」

■現代思想4月号・聖書は知られているか

■福田恆存「日本への遺言」

 

 

 

沢庵「不動智神妙録」・水上勉「沢庵」


(1998.3.12)

 

 以前から沢庵の「不動智神妙録」を読んでみたいと思っていた。先日思いがけず徳間書店から出ているものを見つけることができたので、これも気になっていた水上勉の「沢庵」も併せて一読した。徳間書店の分には「不動智神妙録」以外に「玲瓏集」「太阿記」も収録されている。

■沢庵「不動智神妙録」(徳間書店/1970.10.15)

■水上勉「沢庵」(中公文庫/1977.2.3)

 沢庵(たくあん)というと、漬け物の名前でもある。徳川家光に貯え漬けの香の物を出して気に入られたという話からつけられるようになった名前だという。その漬け物の名前は誰にも知られているが、沢庵和尚がどういう人物だったのかを知ったのはこれが最初になる。

「不動智神妙録」を読んでみたいと思っていたのは、それが柳生但馬守に剣禅一如を説いた書だと知ったのがきっかけである。この書も素晴らしいものだが、沢庵の生涯こそが素晴らしい。

 宮本武蔵の話にも、小説家の創作かどうか、沢庵和尚がでてくる。沢庵は柳生但馬守からも徳川家光からも尊崇されるほどの人物だったが、沢庵自らが「今の世に順ずれば道に背く、道に背くまじとすれば、世に準ぜず」と書いているように、幕府や朝廷の権力に抗して決して媚びず妥協しないのが沢庵の一貫した姿勢だったという。

その姿勢にも深く感銘を受けるのだが、死に際しても、葬式や法事、墓を作ることを拒否するほど徹底している。水上勉の著書で遺戒の言葉が市川白弦氏の訳で紹介されているが、そのなかからいくつかを紹介する。

一、わたしに法を嗣ぐ弟子はない。わたしの死後、もし沢庵の弟子と名のる者があったら、それは法の賊である。官に告げて厳罰にせよ。

四、死後、紫衣画像を掛けてはならぬ。一円相をもって肖像に代えよ。

七、わたしの死後、禅師号を受けてはならぬ。

十一、わたしの身を火葬にしてはならぬ。夜半ひそかに担ぎ出し、野外に深く地を掘って埋め、芝をもって蔽え。塚の形を造ってはならぬ。探し出すことができぬようにするためだ。

十四、とくに年忌と称するものを営んではならぬ。

 ある意味では、当然の態度ではあるのだが、当時あれほどの尊崇を集め将軍までもが畏敬した禅僧が、これほどの徹底した態度を持つことには潔い美しさを感じる。すぐれた禅僧の生き方は、どれもそれぞれに壮絶なまでの美しさがあるのだが、この沢庵の態度は、政治や剣などの世界との密接な関係のなかで、とられたものであるがゆえに、道元や良寛、一休などと異なった味わいがある。

 この項の最後に、「不動智神妙録」から少し。

  無心ということが、本当に自分のものになれば、心は一つのことや物に止まることなく、だから何ごとにも、どんな状況にも用を足すことができ、まるでいつでも満々とたたえた水のようになるのです。

 一つの所に止まってしまった心は、自由自在に働かせることができません。車の輪も、堅くないからこそ回転するのです。一カ所にしがみついては、回転することができません。心も一カ所にかじりついていては、他のことに働くことができないのです。

 心のなかに何か思うことがあると、人の話を聞いていながら、少しも理解できません。思っていることが心に行ってしまっているからです。

(徳間書店刊/池田諭訳/P63-64)

この「不動智神妙録」の最後に、次のような歌が紹介されている。

心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな

 これはある意味では、シュタイナー的に言えば、意識魂の重要性ということでもある。意識魂が育っていかなければ、自由も育っていかないといことなのだと思う。

 

 

 

ニール・ドナルド・ウォルシュ

 「神との対話/宇宙をみつける・自分をみつける」


(1998.3.15)

 

■ニール・ドナルド・ウォルシュ

 「神との対話/宇宙をみつける・自分をみつける」

 (吉田利子訳・サンマーク出版/1997.9.30)

 タイトルがタイトルだし、サンマーク出版だしという偏見から^^;典型的なニューエイジ本の類だろうと思いこんでいたのだけれど、実際に読んでみると、これがなかなかのもので、ある意味では、シュタイナーの「自由の哲学」といっしょに読めばいいのではないかと思える内容となっています。

 この本は、悩める著者がその憤懣を神宛の手紙にぶつけようとしたところ、ペンが勝手に動き始め、著者と「神」とのその対話であるその記録になっています。その真偽云々ということは、言ってみればどうでもいいことで、肝心なのはその内容。そこに盛られている内容はとても素晴らしいもので、しかも、「神」はとてもユーモアたっぷりに、著者をからかったりしながら、「神」との対話が進められていきます。「ユーモアを創ったのはわたしだよ!」と。

 しかし、その表現のされ方はとても平易で、娯楽性さえ感じさせるものでありながら、(実際、読物として見ても面白い!)その実、内容そのものはかなり核心をついているのではないかと思いました。ここに書かれてある内容は、まさに神秘学の基礎でもあるからです。つまり、通常の宗教からは、「悪魔の書」だとも思われかねない内容です。

わたしは正邪も善悪も決めたことはない。そんなことをしたら、あなたがたへの最高の贈り物がだいなしになる。したいことをして、その結果を体験するという機会をあなたがたから奪うことになる。自らを真の自分のイメージになぞらえて創造しなおす機会を奪うことになる。偉大な考え方をもとに、よりすぐれた自分を創り出す能力を発揮する場所を奪うことになる、あることが−−考えでも言葉でも行為でも−−「間違っている」というのは、それをするなと禁じるのと同じだ。禁じるというのは制約するということだ。制約するというのは、真のあなたがたを否定することであり、あなたがたが真の自分を創造し、経験する機会を否定することだ。

あなたがたは自由な意思を与えられたと言う人たちが、つぎには、わたしに従わなければ地獄に落とされるだろうと言う。それでは自由な意思はどうなるのか?それでは神を愚弄することになりはしないか。(P59-60)

 ここには神の似姿として創られた人間の創造の自由についての核心がその半ばユーモラスにさえ感じられる対話のなかで語られているといえる。人間は自由そのものなのだ。けれど、自分が自由であるということを認めたときに、自分の不幸の責任を自分で背負わなければならなくなる。だから、あらゆる宗教や道徳やをつくりだして、その外的な命令に従いたがる。人は、自由に耐えられないのだ。

 しかしそれにもかかわらず、人は自由そのものなのだといえる。問題はその自由が自覚的意識的に獲得されず、無意識の衝動や不安やらを自由に創造してしまうということである。

 たとえば、病気にしても本書では明解に次のように語られる。

まず、ひとつはっきりさせておこう。あなたは病気を愛している。とにかく、その大半を愛している。自分を憐れんだり、自分に注意を向けるために、病気を利用してきたのだ。

珍しく病気を愛していないことがあれば、それは病気が進みすぎたからである。病気を創り出したとき予想した以上に、ひどくなってしまったからだ。

たぶんもうわかっているだろうが、ひとつはっきりさせておこう。すべて、病気は自分で創り出している。いまでは、頭の固い医師たちさえ、ひとが自分で自分を病気にしていることがわかってきた。ほとんどのひとは、まったく無意識に病気を創り出している(自分が何をしているかさえ、気づいていない)。だから病気になったとき、何にやられたのかわからない。自分でしたのではなく、よそから何かが降ってきたように感じる。

そんなことになるのも、ほとんどのひとが−−健康上の問題だけでなく−−人生を無意識に生きているからだ。 (P254)

 「神」は考えと言葉と行動に意識的でいるようにと言い、著者はそんなことをしていたら疲れてしょうがないと言います。意識的でいることをしないがために、自分の無意識によって、自分の現実が創造されていくことになるのだけれど、人は自由であることに耐えられず、自由であるために意識的であることにあまりにも怠惰になりがちだといえます。

さて、いまの自分とこうありたいと望む自分の違いがわかったら、考えと言葉と行動を気高いヴィジョンにふさわしく−−意識的に−−変えようと決心しなさい。

それには、とても大きな精神的、肉体的努力が必要になる。一瞬も怠らず、つねに自分の思考と言葉と行為を見張っていなくてはならない。つねに−−意識的に−−選択を続けなければならない。このプロセスは、意識的な人生への大きな一歩だ。そう決意すると、人生の半分を無意識のまま過ごしてきたことに気づくだろう。結果を体験するまで、自分が思考と言語と行為をどう選んでいるか、意識しないできたということだ。しかも、結果を体験しても自分の思考、言葉、行為がそれと考えがあるとは考えない。(P106)

 こういう箇所は、グルジェフのワークなどを思い出させます。いかに人は眠りこんで自動化しているかということ。その眠りから目覚めるためには、「とても大きな精神的、肉体的努力が必要になる」わけです。

 このように、本書は、最初にも書いたように「自由の哲学」と通ずるものがあり、その解説書のようにもなっているところがあるすぐれた内容がふんだんに盛り込まれていますので、機会があればぜひ目を通されることをおすすめします。

 

 

 

金子みすゞ童謡集


(1998.3.16)

 

■金子みすゞ童謡集(ハルキ文庫/1998.3.18)

 この金子みすゞという童謡詩人の名前はどこかできいたことがあったように思うのだけれど、今回はじめてその人はどういう人なのか、どういう作品を残しているのかを知ることができて。その童謡には、どきりとすることばにたくさんある。

 金子みすゞのプロフィールは、本文庫の扉に次のようにある。

1903〜29年。山口県長門市に生まれる。

西条八十らに称讃されたが、二十六歳で自殺。

半世紀を経て発掘・再評価され、

『金子みすゞ全集』(JULA出版)などが刊行される。

 金子みすゞの生涯については、本文庫にも紹介され、その悲しい最期には涙せざるをえないけれど、そういうことは別として、残された童謡の数々をこうして読むことができることをうれしく思う。

そのひとつをご紹介することにしたい。

 

星とたんぽぽ

 

青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」こんなに単純なことばなのに、こんなにどきりとさせられることば、そこからさまざまな思いがひろがっていくようなことばを、ぼくも使えるようになれたらなあと思う。

 たとえば、「誰がほんとを」という童謡の終わりにこんなことばが使われていたりする。

 

誰がほんとをいうでしょう、

わたしのことをわたしに。

 こんなことばにどきりとしないひとがいるでしょうか。神秘学をこんなことばで語れるようになれたら、ぼくもどれだけいいかと思いますが、なかなかそこまではなかなか。

 

 

 

河合隼雄「日本人の心のゆくえ」


(1998.3.20)

 

■河合隼雄「日本人の心のゆくえ」

 (岩波書店/1998.3.16)

 

 この河合隼雄の力強さはどうだろう。とくに、ここ数年の氏の活躍には、畏敬の念さえ覚えてしまうほどのものがあるのだけれど、それがこの著書には凝縮されたかたちで現われている。

 「阪神大震災やオウム事件、荒れる子供の世界、家族関係の流動など現代日本の危機の本質を一人一人の『心』のあり方から問う、渾身の長編評論」とあるように、著者の「渾身の」というのが実感できるほどの力強さとそうせざるをえないだろう切実さにあふれたこの本は、現代日本においてもっともアクチュアルな一冊であるように思う。

 現在、河合隼雄は、岩波書店刊の「現代日本文化論」シリーズの編集なども行なっており(あと1冊で完結)、それと平行しながら、「世界」に、1995年7月号〜1998年3月号まで連載されていたものがこの「日本人の心のゆくえ」にまとめられている。

 ここで語られている河合隼雄の言葉には、一歩も二歩もいや可能な限り切実なテーマに肉薄しようとする気迫があり、これほど圧倒される氏の言葉を読んだのはある意味でははじめてのことかもしれない。語られているテーマは、これまで氏が展開されてきたテーマを展開させたものだといえるのだけれど、これまでの氏の態度以上に、現実に深く関わりながら、それをどこまで提言できるかをぎりぎりのところまで追求していこうとする姿勢がぼくには深く感じられた。

 「あとがき」の最期で、「このあたりで私の『日本文化論』も少しお休みにして充電しようと思っている」と述べられているが、たしかに、この一冊と「現代日本文化論」のなかに盛られている内容には、現在生きてとらえなければならないと思われるあらゆるテーマがあり、これをさらに進めていこうとするならば、それなりの「充電」がなければ難しいのだろうなと思わせるものがある。

 収められているのは次の12のテーマ。

1.震災と「一体感的人間関係」

2.青年と「破壊的宗教」

3.「癒し」と「たましい」

4.「夫婦」と「リアライゼーション」

5.いじめと「内的権威」

6.「死生観」の危機

7.「母性」と「父性」の間をゆれる

8.「もの」という日本語

9.「援助交際」というムーブメント

10.地下鉄サリン事件が教えること

11.「異文化間コミュニケーション」で起こること

12.ネットワーク・アイデンティティ

 河合隼雄の著書を読むと、たとえば現代の学問と称するものの多くがあまりもアクティブさを失って、事象をあとから追っかけてそれをある枠組みのなかで説明し位置づけようとする姿勢に終始しているように見えて仕方がない。それは、氏が、常に生きたところからアプローチしながら、さらにそこからあらたなものを創造しようとする姿勢を失わないことと対比してみることでよけいにそう見えてしまうのかもしれない。

 このアクティブな真摯さに学ばねばならないと思う。氏の切実さは、村上春樹が「アンダーグラウンド」や「ポスト・アンダーグラウンド」で見せているある種の衝動と軌を一にしているように思うのだが、ひょっとしたら、ほんのささやかながら、こうしてぼくがなにかの衝動にかられるようにして書いていたりすることも、そうしたものとどこかで通じているのかもしれないようが気がする。

 さて、これらのテーマについては、このままにしておくのはもったいないので「トポスノート」でシリーズとして展開してみたいと思っている。

 

 

 

尾木直樹・宮台真司「学校を救済せよ」


(1998.3.25)

 

■尾木直樹・宮台真司「学校を救済せよ/自己決定能力養成プログラム」

 (学陽書房/1998.3.30発行)

 宮台真司ならではの徹底した現実論である。「自己決定能力養成プログラム」とあるように、学校も家庭や地域の共同体意識が崩壊しつつある今、「個」を主体とした自覚的な共同体性を創造していかなければならないというのが基本的なテーマだといえる。

 どの論点についても、極めて現実的で、納得させられざるをえないもので、実際問題として遅かれ早かれここに述べられているような事が実際に行なわれていかないと、どうしようもないところまできているように思う。そして、これ以上の論点を現在の社会的コンセンサスとしては提示できないのも事実だと思う。

 こうした「現実論」からは、まさに霊学的な観点がごっそりと抜け落ちてしまいかねないというのも事実である。しかし、世のなかがいきなり霊学的な観点を承認するわけもない現実の中、ここに述べられている「自己決定能力養成プログラム」が、現時点では最善の方策であるといわざるをえないのではないか。

 シュタイナー学校がすばらしいとしても、近い将来まで見越しても、ある意味ではそれは特定の人たちによる限られた場所での特殊な教育としてしか成立しないという事実から目を覆うべきではないし、シュタイナー教育を実践できるようなすぐれた人格と能力をもった教師が大量に養成されるという可能性もまず望めない現実のなかでは、現実的に可能な方法を採用する以外にないのではないかと思う。

 「自己決定」というと、シュタイナー教育の観点では、通常子どもの魂の成長にとっては阻害要因ということになるけれども、ここでいわれている「自己決定」というのは、こう語られているように単純な意味でのそれで、しかも親のフォローを必要とするとしている。

宮台 自己決定のシステムにすると、何かが起こると、自分が招いたことなんだという態度が養成される。「自己決定」というと西洋的個人主義と勘違いする人がいるけど、そんな大それたことは言ってない。単純なことですよね。自分で尻をぬぐえるような態度を養うということが、教育の自由化プログラムの最初であり最後であるという。抽象的なことを言っているんじゃなくて、まったく当たり前に養成可能な生き方のスキルを言っている。

そういう自己決定のプログラムは、自己決定が重要なんですよと「教える」ものではありえない。大人で自己決定している人はほとんどいませんから「教える」どころか(笑)。(略)

自己決定プログラムが重要視される社会においては、失敗を受けとめる大人の役割が非常に重要になっていくわけで、全然、大人は用済みにならないんですね。むしろ、安心して失敗できるためにこそ、大人の役割はあまりにも絶大なんです。

子どもに自己決定させると大人にはやることがなくなると思っていたら、それは大間違いです。

(P262-265)

 尾木直樹というのは、この本ではじめて知った方なのだけれど、4年前まで現役の中学教師をされていた方で、現在教育評論家。この本は、その尾木直樹と宮台真司の両者によってテーマをわりふり、一方が「尋ね手」、他方が「答え手」になる形で対談したものを「答え手」による語り下ろしという形に書き下ろしたもの。

 扱われているテーマは次のような、どれも切実でアクチュアルなテーマばかり。こうした現実論を念頭に置いた上でないと、霊学的なアプローチも、単なる理想論に終わりがちだということを認識する上でも重要だと思う。

宮台真司 神戸小学生殺人事件/中学生のキツい日常を解除せよ

宮台真司 仮想現実/「現実」に適応する者ほど生きにくい

尾木直樹 体罰事件/どこまでが体罰か明確に規定せよ

尾木直樹 いじめ/救済すべきなのは加害者のほうだ

尾木直樹 不登校/何をどう学ぶかを自己決定していい時代

尾木直樹 内申書/選別をあきらめろ、高校全入しかない

宮台真司 髪型と制服/制服を着ている子どもに気をつけろ

宮台真司 援助交際/「学校化」が売春やりたい女の子を生み出す

宮台真司 覚醒剤/やるかやらないか自分で判断させろ

尾木直樹 校内暴力/いま迎えつつある、暴力の第四のピーク

宮台真司 親/親に無理なことを期待するな

尾木直樹 教師/教師だけではもう学校は背負えない

 

 

 

西川隆範「薔薇十字仏教」


(1998.3.28)

 

■西川隆範「薔薇十字仏教/秘められた西方への流れ」

 (国書刊行会/1998.1998.3.16)

 インドで仏陀の説いた教えは、東に伝わり、いわゆる「仏教」になったが¥その教えは西に伝わって「薔薇十字仏教」ともいえる秘められた流れをつくりだしている、というのが本書の趣旨らしい。

本書は、次の4部構成になってる。

I 顕わな東方の道  南伝仏教と北伝仏教

II 密かな西方の道  薔薇十字仏教

III 薔薇十字仏教の教え

IV 薔薇十字仏教の修行

 第一部は、通常の仏教紹介のレジュメ。第二部は、シュタイナーが講演した仏教関連のものを中心としたレジュメ。第三部は、シュタイナーが「神智学」や「神秘学概論」で述べていることを仏教風の用語でアレンジしたもの。第四部は、シュタイナーが「いかにして超感覚的世界を認識するか」などで述べている修行関連のものを中心に、これも仏教風にアレンジしたもの。

 仏教の基本的な思想を理解することは重要だし、キリスト衝動を準備した仏陀の働きについても、理解しておく必要があると思うのだけれど、本書では、キリスト衝動を準備した仏陀ということが、その「キリスト衝動」や「ゴルゴタの秘蹟」についての基本的な理解を促さないままに、シュタイナーの神秘学の内容の一部がいつのまにか「薔薇十字仏教」ということで、レジュメ化されている。

 もちろん、「薔薇十字」は、通常のキリスト教よりも、ずっと仏教的な認識等に近いということはいえるのだと思うのだけれど、それを「薔薇十字仏教」というふうにしてしまう必要はないように思う。

 それよりも、「キリスト衝動」や「ゴルゴタの秘蹟」について基本的な理解を強調した上で、現在「仏教」といわれているものには、隠されたかたちでそれらが衝動として組み込まれていて、改めてその部分を新たな顕在的な衝動として、再認識するということのほうが、重要なのではないかと思う。つまり、「仏教」をキリスト衝動で貫くということ。

 本書では、太陽神としてのキリスト、地球の霊となったキリストについて言及されているものの、それがいつのまにかどこかに消えてしまって、なんだかわからないままに、シュタイナーの神秘学が、仏教風の用語でアレンジされてしまっている。

 シュタイナーが神智学協会を離れたのは、キリスト理解の違いをめぐってのものだったのだけれど、やはり、シュタイナーの神秘学をベースにしている以上、その点を明確にしておかないと、神智学協会と変わらないことになってしまうのではないだろうか。

 もちろん、ただただ後生大事にシュタイナーの神秘学を受け入れるというのではなく、とくにこの日本において、仏教理解とシュタイナーの神秘学の理解を比較しながら、あらたな認識の可能性を開く試みとしては理解できるのだけれど、そのためにこそ、「キリスト衝動」や「ゴルゴタの秘蹟」についての基本的な理解が必要なのではないかと思う。そうしてこそ、「仏教」の素晴らしさも再認識されるのではないだろうか。また、そうした試みとしては、「神道」に関しても同様な試みが可能だし、その必要もあるのではないかと思う。

 しかし、そうした試みは、こうした受験参考書的なレジュメ集のような形ではなく、もっと生きた表現形式が必要なのではないだろうか。河合隼雄さんのような表現が、生きて伝わってくるように。

 

 

 

五木寛之「蓮如物語」


(1998.3.39)

 

■五木寛之「蓮如物語」

 (角川文庫/1997.11.25)

 米良美一の歌う「やしょめ」を聴いたのをきっかけに、さっそく、その映画の原作五木寛之「蓮如物語」を読みました。

「やしょめ」は、蓮如が幼い頃唄っていた唄で、それがいつのまにか蓮如作と伝えられているということ。

 

やしょめ やしょめ

京の町の やしょめ

うったるものを 見しょめ

きんらん どんす

綾や ひぢりめん

どんどん ちりめん どんちりめん

どんどん ちりめん どんちりめん

 

 「やしょめ」は、「優女」で、「やさしい女性」、「観音さん」。「うったるもの」は、「すくいの光明、輝きにみちた浄土のすがた」。「見しょめ」は、「それを見せようと手をさしのべられる声に、見せてくだされと応ずる人びとの声」。「きんらん どんす 綾や ひぢりめん」は、「暗い人びとの心の闇にくりひろげられる光の世界のありがたさを美しい布にたとえた言葉」。「どんどん ちりめん どんちりめん」は、「光を見せていただいたありがたさ、うれしさ。そのよろこびのあまり、つい心からわきでる感謝の念仏」。

 解説でも述べられているように、日本の中世から近世にかけて「さん」づけで呼ばれている高僧がいるのですが、「一休さん」「良寛さん」とならんで「さんづけ」なのが、この「蓮如」だということで、数年前から五木寛之はこの「蓮如」をいろいろなかたちで紹介してくれていて、「五木蓮如」ともいわれているようです。ぼくも、いぜん、岩波新書の「蓮如 聖俗具有の人間像」を読んだことがあります。

 この「蓮如物語」の背後にはずっと「やしょめ」の唄が流れているようで、最初に、米良美一の唄を聴いたものですから、読んでいるあいだずっと、耳にはこの唄とオーケストレーションが耳から離れませんでした。映画は、この4月25日から全国東映系ロードショーということですが、なんだかいちはやく見てしまったような気がしてしまいました。(実は、米良美一の唄のことを知るまで、映画のことなど知らなかったのです)

 さて、蓮如の時代は、この物語にも書かれているようにこういう時代でした。

都の辻にも、道ばたにも、物乞いをする老人や、親のない子供たちが見られ、鴨川の河原には打ち捨てられた死体がごろごろ転がっているという、無惨な時代だった。

 その時代にあって、「南無阿弥陀仏」の教えは、蓮如という親しみやすい人物とそのわかりやすい表現形式、そして「おふみ」という、今でいえばニューメディアを駆使して、またたくまに広がっていき、「救い」「安心」をもたらしたわけですが、現代という時代をあらためて見つめなおしてみると、この日本は蓮如の時代のような意味で「無惨な時代」ではありません。だからこそ、「南無阿弥陀仏で救われる」というような在り方、マザーテレサが「あなたは必要とされている」と死に行く人に語りかけるような在り方は、人の心には届きにくいように思います。

 しかし、確実に、現代は、その表面上の豊かさとは裏腹に「無惨な時代」だということがいえますし、これからますますそれがエスカレートしかねない様相を呈しています。心の目でみるならば、豊かに見える世界は、草一本も生えていないような砂漠でしかないかもしれないのです。

 現代人にとって、「やしょめ」とはいったい何でしょうか。また、どうすれば、「うったるものを 見しょめ」、「きんらん どんす 綾や ひぢりめん」を見ることはでき、「どんどん ちりめん どんちりめん」と魂がその底から喜びの声をあげることができるのでしょうか。

 蓮如の時代に較べ、はるかにむずかしい時代だといえる現代に生きる私たちはいったいどのように生きれば、それを真に燃焼することができるのかを、模索していきたいものだと思いながら、まずは、現代が心の目でみるならば、「無惨な時代」だということに多くの人が気づかなければならないと同時に、そこには多くの可能性が秘められていて、その可能性の鍵を一人一人が確実に持っているのだということにも気づかなければならないのだと、「蓮如物語」を読み、米良美一の唄う「やしょめ」を聴きながら思うのでした。

 

 

 

上松祐二「シュタイナー・建築」


(1998.3.31)

 

■上松祐二「シュタイナー・建築/そして、建築が人間になる」

 (筑摩書房/1998.3.25)

 上松祐二には、シュタイナーに関して次の3冊の著作、翻訳がありますが、

・「世界観としての建築/ルドルフシュタイナー論」(相模書房/1974)

・シュタイナー「新しい建築様式への道」(相模書房/1977)

・「ルドルフ・シュタイナー」(PARCO出版/1980)

 「あとがき」でも述べられているように、

この三冊によって、シュタイナーの建築については書くべきことはすべて書いた、と思っていた。ところが、1998年2月5日から3月29日まで、グループ現代と東京コデックスの企画によって、東京ガス・銀座ポケットパークで、「ルドルフ・シュタイナー 建築と教育」展が開催されることになり、子安美知子さんと私とで、この展覧会の監修役をお受けすることになった。

 ということで、「シュタイナー建築の源流とそのから流れ出た潮流としての現代建築の意味を問う」ために、ドルナハ、テュービンゲン、シュトゥットガルト、エンゲルベルク、ヤーナへ取材旅行を行なうことで、できあがったのが本書だといえます。

 本書は、第一部で「シュタイナー建築の源流」を巡り、第二部で「現代」を問うという構成になっています。第一部写真等については、上記のPARCO出版のもののなかでもかなり詳しく紹介されていますが、第二部については、これまでほとんど知らなかったものばかりで、ほとんどが写真等の目に見えるかたちで構成されているので、シュタイナーの建築に関する営為とその後の展開が概観でき、資料としてとても重要なものだといえます。

 本書の基本的な構成は次の通り。

・第一部 源流

 1 第1ゲーテアヌム

 2 第2ゲーテアヌム

 2 ゲーテアヌム付属建築

・第二部 潮流

 1 学校

 2 ヤーナ・複合文化施設

 3 銀行

 4 オフィス

 5 集合住宅

 6 教会

 7 ホール、博物館

 8 広場、列車

 寡聞にして知らずにいたのですが、著者の上松祐二は、「善光寺外苑−西之門」(1997/長野県建築文化賞最優秀賞)や「長野冬季オリンピック表彰式会場セントラル・スクエア」(1998)などの建築作品があり、シュタイナーに関する著書以外にも、「建築空間論」などの著書もあるということが本書でわかり、そうした業績とシュタイナー建築についての観点がどのように関連しているのかを見ていくと興味深いのではないかと思いました。

 さて、本書のキャプションには「そして、建築が人間になる」とあるのですが、自然科学的思考によるモダニズムを背景にした建築の考え方ではなく、「精神科学」、「人智学」という「人間のなかの精神的なものを、宇宙の中の精神的なものに導こうとする一つの認識の道」に基づいた建築ということをシュタイナーは模索していたのだといえます。「建築は建築」「人間は人間」だというのではなく、すべてを宇宙的な連関のもとに見ていかなければならない。そうシュタイナーは考え、実践していったわけです。

 その他のシュタイナーの営為である、「ゲーテ研究」「哲学」「教育」「劇作」「社会学」「医学」「農学」「造形芸術」なども同じで、すべてはその根底に流れる「精神科学」の展開のひとつに他なりません。

 ですから、「そして、建築が人間になる」というのは、「そして、○○が人間となる」という○○には、人間のあらゆる営為があてはまるのだといえます。

 そういう意味では、日々自分が行なっていることも、すべてが「精神科学」の展開のひとつとしての可能性を持っているのだといえます。本書から、単に外的な建築運動の展開だけを見るのではなく、そうした観点をそれぞれが持ち得ることで、本書もまたそれだけのひろがりをもって私たちに迫ってくるものとなります。

 ところで、本書は12,000円^^;。とても高いので、とりあえずこの第一部に関連した資料の欲しい方は、上記に紹介したPARCO出版のものを購入されるのがいいのではないかと思います。解説としてはそのほうが詳しいので、本書を購入された方も、まだそちらを参照されていない方は、そちらも参照されることをおすすめします。

 

 

 

現代思想4月号・聖書は知られているか


(1998.4.2)

 

■現代思想4月号・特集「聖書は知られているか」

 (青土社/1998.Vol26-5)

 聖書がブームになっています。この「ブーム」ということについては、この特集の最初に、新約聖書学の田川健三が「本当だろうか」という異議申し立てをしているわけのですが、その「ブーム」が、「謎」や「ミステリー」といったことによって煽られているという要素は否めないとしても、その「ブーム」に乗じて、混沌のなかから清水を得るということも可能なのだと思います。

 思想的なアプローチから、仏教などには、たとえば角川書店からシリーズで刊行されたものなどを読むことなどで(これは昨年あたりに文庫化されたので今では読みやすくなっているけれど)ある程度その概観することなどはしてきたのだけれど、ぼく自身のことをいえば、かなり最近まで、聖書にもキリスト教にもほとんど無縁でした。(そもそも宗教といわれるものにはほとんど無縁だったのだけれど)

 最初に聖書に興味をもったのは、本書でも「聖書とグノーシス」ということでインタビューを受けている荒井献によるグノーシス関連のものやトマス福音書、トマス行伝といったものの解説書を見つけたことが最初のように思います。かつて「エピステーメー」などに連載され、後に朝日出版社から刊行された「ヘルメス文書」あたりのものもその時期に、こんなものがあるのかあ、という感じでその存在を知った頃のことです。

 ぼくがキリスト教に少しながら関心を持つようになったのは、シュタイナーのキリスト教についてのものだから、ぼくのキリスト及びキリスト教理解は、通常のそれとは、かなり異なっているのはたしかのようで、神秘学的な理解から見れば、どうでもいいような枝葉末節の内容に信仰にしがみついたり、逆に非常に唯物論的な学問にこだわったりというあり方はけっこう興ざめというか、あまり関心を呼ぶものではないのだけれど、やはり、「グノーシス」や「死海文書」、「ナグ・ハマディ文書」などについていろいろでてくると、それについて目を通しておきたくなります。それに、やはり、自分の理解があまりにも仏教的な視点がまだまだ強いものだから、そういう視点ではない、キリスト教やイスラム教などについても、ある程度理解しておかなければならないと、特に最近では思うようになっています。

 そうしたおりに、「ブーム」に乗って、現代思想の特集が「聖書」だというので、やはりここは目を通しておかなければと思って、ひろい読みをしているところだ。しかし、特集の最初にある田川健三の「聖書をめぐる障壁」というのには笑えた。「聖書」の翻訳や受容をめぐる正当な批判(この批判の仕方がぼろくそで面白い)のだけれど、視点が非常に社会批判的というか、ほとんど神秘学的なところもいわゆる宗教的なところもないというのが、なおのこと笑わせてくれます。

 しかし、この田川健三は、旧約聖書学の木幡藤子と対談しているだけれど、この対談は、田川健三の一方的なぼろくそ批判が全面にでていてかなりしつこいので、あまり面白くありません。とはいえ、こういうのが特集の最初にあると、肩の力が抜けていいともいえます^^;。

 本書をざっとみたところで興味深かったのは、大貫隆のインタビュー(聞き手/入江良平)の「ナグ・ハマディ文書とは何か」でした。

 大貫隆という方は新約聖書学・古代キリスト教学をされている方で、今岩波書店から刊行されはじめている「ナグ・ハマディ文書」のシリーズを翻訳されている方、聞き手の入江良平は、心理学をされている方で、たとえば、「グノーシスとはなにか」(マドレーヌ・スコペロ/せりか書房)などを訳されていたり、ユング心理学とグノーシスなどをテーマにされている方のようで、興味深い話になっています。

 あと、フェミニズムの視点から聖書を読み直すとかいう最近の流れについての話もあるけれど、それは常識的な視点を出るものではなくて、まずまずといったところ。今回の現代思想は、そのほかにもそこそこ面白い記事があったので、目を通しておくのもいいかな、というところでしょうか。

 紹介の最後に、大貫隆のインタビューの最後のあたりから重要ポイントを少し。

大貫 ・・・超越ということと歴史の中に内在して自分自身の歴史を刻んで、そこで変化をして、あるものに「なる」ということと、神「である」ということが矛盾しない。それが旧約聖書以来の、あるいはもっと一般的に言えば聖書的世界の存在のとらえ方なんだと言うことですよ。時間と永遠を対立して考えないんですね。

 ヨハネに戻って言えば、神がひとり子を地に送って、さまざまな事件を起こしたということは、自分自身を結局歴史化したということです。自己疎外して自分と異なるものの中に自分を送り込んで、受難して、しかしそのことによって神は神になる。人間にとって神になるのではなく、神が神自身に到達する。ですから抽象的に言うと歴史は神にとって、神が神であるということにとって決定的に重要なのです。

 それは旧約聖書以来の考え方の本流だと思います。だから、先ほどおっしゃった、超越と歴史の区別はむしろギリシア的な存在論の影響を受けた段階でなされたということです。その限りでは、たとえば一度意識を抱いてしまった意識は逆戻りはできないのであって、自分と対立するもの、つまり無意識をくぐり抜けた上で、なお最終的には意識の立場で生きていくしかない。無意識に付帯するのではなく無意識をくぐり抜けてそれを自分自身に統合する仕方で、ある安定を獲得して生きていくという深層心理の弁証法みたいなものと、ヨハネ福音書は少なくとも構造的には似ているところがあるのです。自分と異なるものが無意識ではなく、現実のこの歴史的な世界と考えられている点が内容的に異なりますが。

 極端に言えば、歴史の終末がくるまで、神がどんな神になるかということは未決なのです。個人の運命が未決で最後までわからないように、神がどういう神かということも未決である。それは人間の認識レベルにおいて未決であるというのではなくて、神の存在そのものにおいて未決なんです。つまり存在というのは終わりから決定されてゆく。この意味でキリスト教の存在論は終末論的なのです。 (P146-147)

 「時間と永遠を対立して考えない」というのは重要な点で、そういう考え方からすれば、たとえば、神が完全な存在であるということと、神そのものが進化しているということとは矛盾しなくなります。完全なる存在が完全なるものとして同時に進化の途上にあるわけです。

 そこから敷衍していくと、「永遠」へと「回帰」するということは、単なる「回帰」ではありえなくなります。「永遠」そのものが、いわば永遠のプロセスだということにもなるわけです。

 ちょっと本旨からそれてしまいそうなので、話を本書の紹介に戻しますと、その他にも、たとえば彌永信美「『対を絶する絶対』と日常世界」などという、グノーシス主義の論理構造などについての考察もあったりします。つまり、「二元論」と「一元論」をめぐる論理的なあれこれです。

 さて、ぼくは少なくとも「聖書」をあまり知らないので、知らないがゆえに、今のところはけっこう面白がっているとこだといえます。しかし、このところ、キリスト教神秘主義関連の著作を探すために、これまではあまり足を運んだことのない、キリスト教書店に出かけたりするので、書店の人に「お探しの本は見つかりましたか」などと笑顔で声をかけられたりして、どうも変な気持ちになったりもします^^;。ま、こういう「冒険」もたまには面白いかなという感じの昨今です。

 

 

 

福田恆存「日本への遺言」


(1998.4.13)

 

■福田恆存「日本への遺言」

 (中村保男・谷田貝常夫編/文春文庫/1998.4.10)

 福田恆存といえば、かつてはシェークスピアの訳者としてしか知らずにいた。といっても、シェークスピアをそう読み込んだということとはほど遠く、その名作のいくつかを、半ばさらりと、半ば名文句を味わうような感じで、読んだことがあるというにすぎない。よくある恥ずかしい話だが、その死の後、わずかではあるが、その残した言葉のいつくかにふれるようになった。同じ文春文庫の「日本を思ふ」がそれであり、今回、この「日本への遺言」が文庫化された。

 しかし、「日本を思ふ」とか「日本への遺言」とかいうタイトルは、どうも編者の思い入れが勝ちすぎているように思う。実際、この「日本への遺言」も、著者は「「言葉、言葉、言葉」にしたらどうか」と書いていたらしい。そこらへんは、著者の意向を知らないぼくのような者が憶測すべくもないが、個人的にいえば、「言葉、言葉、言葉」から受ける感じのほうが、本書をぼくが読んで受けたものには近いという気がする。もっとも、おそらくはそのタイトルでは、あまり売れないかもしれないが。

 現代の日本、少なくともぼくの育ってきた環境からいえば、こうした福田恆存の言葉のようなことにふれる機会は少なかったのではないかと思う。大江健三郎の「ヒロシマノート」だとかいう類の内容のほうが、とっても「キレイゴト」してるし、幼い頭でもわかりやすいものだから、そうしたマスコミなどでもとりあげやすいような言葉にふれる機会が多かった。

 しかし、それが「キレイゴト」だと感覚的にわかっているものだから、ぼくとしては、そういうものから身を引いて、シュールレアリスムだとか科学革命だとか、ポストモダンだとかいうものを好んで身につけようとした。そうしたぼくのような世代を「シラケ世代」だということもできるが、それはもはや「キレイゴト」という「嘘」では満足できなかったし、あえてそれに反旗を翻すだけの真剣さも持ち合わせていなかったということだ。

 ぼくのようなシラケで無気力で、できるだけ社会的なものに関わらずに生きようとした者もやっとここ10年ほどの間に、いやここ5年ほどだろうか、こうした福田恆存のような方の言葉のなかにあるものが感じられるようになった。左翼だとか右翼だとか、保守だとか革新だとかいう言葉の遊びの不毛さにはいまやだれもが気づくようになって久しいが、ぼくとしても、やっとほんの少しではあるが、「人間」を、そしてその「言葉」を見ようとする姿勢が育ってきたということかもしれない。

 それにともなって、それまで「尊敬する人物」のいなかったぼくにも、シュタイナーをはじめとして、日本でも、素晴らしい人物のいることに気づくようになった。「尊敬する人物」がいなかったのではなく、それに気づくことができなかっただけだという、お粗末さだ。小さい頃こそ、そうした「尊敬する人物」をもつことが大切な人格形成になるというのだがぼくの場合は、それがはるかに遅れてやってきたのだといえる。もう手遅れかもしれないけれど、「尊敬する人物」を持てることは幸せだと思う。いまも、日々「尊敬する人物」のリストは増え続けていることを喜びたい。

 そして、この福田恆存もそのひとりだといえる。もちろん、その言葉のすべてに賛同しているわけではない。ときには、ぼくとはまったく異なった考え方が提示されている。しかし、そういうことが問題なのではない。大事なのはそれが借り物の言葉ではなく、福田恆存の言葉だということだ。

 氏は晩年、「自分の書く文章に筋がとほらなくなったと判断」し、断筆したそうだが、その前後に残した言葉を編者の中村保男はあとがきに書いている。

これからの日本に必要なのは、もはや日本人論ではなく、人間論である。その仕事をするのが哲学だ。

 その通りだと頷かざるを得ない。ぼくがテーマとしているシュタイナーの神秘学もまさにそれであり、それは「哲学」をも包括するものであるとぼくとしてはとらえている。しかし、その「哲学」の部分さえ、日本ではなかなか受容されない。

 さて、最後になったが、本書の「まへがき」から、氏を紹介したところを少し。

 あなたは若い頃「自分は〜になりたい」と抱負を語る友を見て、自分のなりたいものが何もないことにひけ目を感じたことはなかったか。

 福田恆存にとってそれはひけ目ではなく、いはば大志であった。「私は<〜家>とか<〜者>」といつた特定の肩書きをつけずに人間として生きたい」と決意されて、「全人をめざす」仕事を始められた福田氏はまさにその言葉どほりの生涯を送り、文芸評論家、文明批評家、政治評論家、エッセイスト、翻訳家、劇作家、演出家、劇団主宰者、国語論者など多くの役割を時に応じて演じ分けたが、何を書いても氏は氏自身でありつづけ、たとへば政治評論においても、政治を唯一絶対の救ひとする政治主義に抗して個人としての氏の実感にもとづいた論を押し通した。

 ぼくなども、「自分は〜になりたい」とは小さい頃から今に至るまでまったく思いもできない人なのだけれど、「ひけ目」などを感じたことはない。もちろん、福田恆存のような「大志」をもっていたからではなく、その逆に「大志」などなかったからだ。しかし、否定的ながらも「特定の肩書きをつけずに人間として生きたい」とはずっと思っていて、今も、自分が何者かよくわからないままに、とりあえず、日々食うための仕事などしながら、インターネットなどというものの普及のおかげで、こうして書きたいこと、やりたいことなどをしているだというだけだ。

 それはともかく、福田恆存のような、集団化し(群れて)迎合することのない人物は、それだけで尊敬に値するように思う。そうした人物の言葉は、やはり生きた言葉になっている。そして、本書にはその言葉がちりばめられている。

 


 ■「風の本棚13」トップに戻る

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る