風の本棚12

(98/2.1-98/3.7)


■宮部みゆき「火車」

■河合隼雄ほか著「こころの声を聴く−河合隼雄対話集−」

■福田和也「近代の拘束、日本の宿命」

■唐十郎「きみと代わる日/唐版・とりかえばや物語」

■五木寛之「よみがえるロシア/ロシア・ルネッサンスは可能か?」

■百姓 高橋丈夫「生命農法/動・植・人と地球の共生」

■ダン・ミルマン「聖なる旅」

■田島正樹「哲学史のよみ方」

■飛鳥昭雄+山上智「未来記と未然記・聖徳太子の「秘文」開封」

■友常貴仁「もう朝だぞ!/聖徳太子の末裔が解く“朝の不思議”」


 

宮部みゆき「火車」

(新潮文庫/1998.2.1)


(1998.2.1)

 

 以前からこの作品のことが気になっていて、文庫になったら読んでみようかと思っていたのだけれど、「ミステリー史の残る傑作」だという評があるように非常にすぐれたものになっている。

 この物語(ミステリー)は、カード社会、消費者金融などによって、人がどのような破壊的な人生を歩むことになるかを深くえぐった作品で、解説では、経済小説的な側面についてふれているのだけれど、ぼくとしては、どちらかというと、人はなぜそう考え行動するのか、してしまうのか、せざるをえないのか。そういう「運命」とでもいえるようなことについてあらためて考えさせてくれるものとして一気に読みすすめた。(というか、面白くて目が離せなかった(^^))

 「私」は特定の環境のなかに生まれ、否応なくある種の「運命」のなかで育っていくのだけれど、その「私」の「必然性」とでもいえるものとそしてその「必然性」から自由である可能性についてどうとらえることができるのかということだ。

 この作品では「そうせざるをえなかった」悲しみについて描かれていてその「そうせざるをえなかった」ことについて感じ取ることで別の意味で実際に「そうせざるをえなかった」「私」についてもそれをあらためてとらえなおすきっかけを与えられるのではないかと思った。

 「私」という「運命」の流れに「ついて」考えることで、その「運命」を形成しているものについて洞察することができるのではないかということだ。そのように、自分が今こう感じ、考え、それに基づいて行動するという枠組みを対象化し、認識を深めることはカルマ論の核心に迫るものだといえる。「運命」を自分で創っていく「立命」の可能性は、そこから生まれてくるのだとも思う。

 もちろんそうした神秘学的な観点がこの作品に盛り込まれているというのではなくこうした読書体験は、そうした観点から読みすすめることによって、さらに深みをおびるのではないかということだ。

 しかし、あらためて、「私」が「なぜ」「そうせざるをえないのか」。そのことについてもっともっと深く感じ取らなければならないと思った。そうでない限り、人の魂の深みについて洞察することはできないからだ。その「否応なさ」とでもいえるものの洞察からこそ、カルマ的な条件そのものを包み込んで変容させることのできる何かを見出すことができるのではないかと思うのだ。

 

 

 

河合隼雄ほか著

「こころの声を聴く−河合隼雄対話集−」

 (新潮文庫/1998.1.1発行)


(1998.2.4)

 

 河合隼雄という人は、なんと懐の深い人だろうか。ここには、次の10の対話及び往復書簡が収められているが、どれもその分かりやすい表現の奥に、非常に深い洞察と問題提起がある。 

1.対話者・山田太一 「魂のリアリズム」

2.対話者・安部公房 「境界を越えた世界」

3.対話者・谷川俊太郎「常識・智恵・こころ」

4.対話者・白洲正子 「魂には形がある」

5.対話者・沢村貞子 「老いる幸福」

6.対話者・遠藤周作 「『王の挽歌』の底を流れるもの」

7.対話者・多田富雄 「自己・エイズ_男と女」

8.往復書簡・富岡多恵子「『性別という神話』について」

9.対話者・村上春樹 「現代の物語とは何か」

10.対話者・毛利子来 「子供の成長、そして本」

 あまりに面白いので、一気に読んでしまおうと思ったのだけれど、もったいないのでケチって一日少しずつ読むようにしたくらいの内容になっている。

 この本の最初に、「読書のよろこび・語り合うたのしみ」と題された河合隼雄さんのまえがきのようなものがあって、そのなかに次のような箇所がある。

 ここに理想として述べたような「対話」は、おそらく欧米では非常に難しいのではないだろうか。「討論(ディスカッション)」あるいは、誰かにインタビューする、ということはある。しかし、「語り合う」ような対話は、ほとんどは不可能ではないだろうか。ひょっとしてあるのかもしれないが、私にはそう思える。(P17)

 最後の解説を書いているテッド・グーセンという方も、こう述べている。

 対談はなぜ日本でこんなに人気があって、西洋ではほとんどないのか。それは対談が日本的な“語り合い”の形式にもとづいていて、西洋人には真似できないものだからなのか。または、何か他の理由があるのか。 (P307-308)

 ぼくにはこのことはとても驚きだったのだけれど、あらためてこのことを考えてみると、なるほどと納得した。そのことについては、なかでは特に村上春樹との対話のなかに示唆的なところがあったりもして、そういう観点からもただの対話の内容の興味深さに加えた別の楽しみ方もあるように思う。

 さて、本書に収められている対話はほんとうにどれもひとつひとつが面白くて、紹介したいところもたくさんあるのだけれど、この対話でひさしぶりに懐かしい思いをしたのが安部公房だった。

 安部公房は、ぼくがまともにいわゆる「文学」なるものを読み始めたほんとうに最初の人のひとりだったからだ。もちろんそれまでにいわゆる「文学」を読んだことがなかったというのではなく、その著書をかなりまとめて読むようになった最初の人の一人だという意味で、その高校の最初の頃というのは、この安部公房のほかに、大江健三郎や萩原朔太郎、それから高橋和己などがいたのを覚えている。

 とにかく、本書は、文庫本(476円!)でもあり、楽しめてためにもなるとってもお買い得の1冊だと思う。

 

 

 

福田和也「近代の拘束、日本の宿命」

(文春文庫/1998.2.10)


(1998.2.14)

 最近、舟虫さんとの話で「モダン」「ポスト・モダン」の話がでていたし、Mumulさんとの話で村上春樹の話もでていたが、この本はその両方のテーマにも深く関わる内容となっている。

 福田和也の「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」という著書を読み、自分のとらえている日本人についての観点と多く共通しているところがあることを興味深く思ったことを思い出すが、彼はぼくと同世代人(2年ほどぼくのほうが上だけれど)であるがゆえに、どこかで何かを共通してもっているのかもしれない。

 この文庫は、平成3年に刊行された「遥かなる日本ルネサンス」と平成5年に刊行された「『内なる近代』の超克」という2冊を併せて収録したもの。

 前者のテーマは、西欧近代ヒューマニズムに呪縛された日本をその呪縛からの解放へと導くために必要な視点の提示であり、後者のテーマは、著書自身の「プライヴェート・ヒストリー」を軸に「近代」が日本人にとっていったい何であって、それが何を切実に問いかけているかを語ったものになっている。

 特に「遥かなる日本ルネサンス」において明治維新以降日本人が直面した「近代」について日本人はいったいどのような態度で望んだのかどう考えてきたのかなどについて詳細にかつ包括的に述べられている点に関しては、ぼくのきわめて漠然と感じ考えてきたことをかなりクリアにしてくれたような気がしたし、「『内なる近代』の超克」においても、村上春樹における「闇」の問題について語られているところなど、とても興味深いものだった。

 作家はジリジリと闇に近づきつつある。いつか村上氏は、この闇を抱きとめてその姿に明確な輪郭を与えるかもしれない。(中略)なぜならば、この「闇」とは、私たちが近代世界で生き、独立を守り、繁栄するために切り捨て、忘れようと努め、あるいは憎み厭ってきたものすべてであるからだ。近代国家となり、市民となり、個人となるために今では名前もなければ明確な姿もなく、顔もない、しかし明白に存在し、時に私たちにその力と魅力を思い出させる、私たちが私たちであることの根にある、私たちのアイデンティティの領域なのだ。(P350)

 しかし、福田氏のいう「私たちのアイデンティティ」という「私たち」ということに関しては、福田氏がたとえば、「遥かなる日本ルネサンス」において、

 たとえば、死者がでたときに、国家としてその魂をどこにまつり、慰霊するのだろうか。(P172)

 といったような記述があるように、そこには、ほとんど神秘学的な観点が考慮されていない。もちろん、こうした著書でそうした観点が考慮されるはずもないし、それはそれで意味のある記述ではあるのだけれど、神秘学的な観点にまで踏み込むことなしに、「日本人」を語ることはできないのではないか、というのがぼくなりの考え方ではある。問題はおそらくは、目に見える状況以上に複雑なのだと思われるからだ。しかし、こういう著書にそういう視点を望むことは望むことそのものが間違っているのだといえる。

 この本は、現代日本に生きている以上、意識せざるをえない問題がコンパクトに集約されている好著だと思う。部分的には首肯しかねるところや感覚の違いなどがあるとしても、ここに盛られた問題を無視することはできないと思うのだ。

 

 

 

唐十郎「きみと代わる日/唐版・とりかえばや物語」

(主婦と生活社/1998.2.16発行)


(1998.2.15)

 

 ぼくは大学の頃、少しではあるけれど演劇部にいて、唐十郎やつかこうへい、別役実などに興味をもっていた頃があったのだけれど特にこの唐十郎の芝居からは、ぼくのなかの意識化のどろどろしたものをどろどろしたままにさらけだしてくれるような快感を味わったことを覚えている。「少女仮面」だとか「ジョンシルバー」といった戯曲を何度ぞくぞくしながら読み返したことだろうか。そしてその度ごとに頭のなかがぐちゃぐちゃになったことを覚えている。この「きみと代わる日/唐版・とりかえばや物語」も、もちろん唐十郎ならではの、よくわかったようでわからない魑魅魍魎のような世界のなかで、ある種の郷愁と原型のようなものがきらめいてくるような作品になっている。

 唐十郎の作品を読んだのはほんとうにひさしぶりのことだったのだけれど、それは、河合隼雄の次のような推薦文が帯にあったのもあった。 

男と女、自と他、心と体など自明とされる区別が、ひとつの「とりかえ」を契機に一挙にくつがえされる。区別を嫌う空や海の「青」を名にもつ主人公、青也は持って生まれたアウラ(それもあるのかないのか?)に助けられ無秩序世界での大活劇を通して「大人」になろうとむがく。現代を生きようと模索する人々にすすめたい傑作。

 河合隼雄にも「とりかえばや物語」について書かれた「とりかえばや男と女」という著書があるのだけれど、これは唐十郎版のきわめて現代的で猥雑だけれど、その猥雑さゆえに、無意識のそこから立ち上がってくるエネルギーを感じさせるような「とりかえばや物語」なのだといえる。

 人は、「男と女、自と他、心と体など自明とされる区別」をほとんど疑ってもみないのことが多いのだけれど、その固定観念ゆえに、魂の柔軟さを失い、そのことで心の病に知らず知らずの内に陥っていることが多いのではないのだろうか。その意味で、ほとんど頭のなかをかき回してくれるこうした唐十郎ならではの物語は、(唐十郎節に慣れていない方は、ナンジャコレになるだろうけど)自分の魂の再生のためのひとつのきっかけのひとつにもなるのではないかと思える。ぼくとしては、少なくとも、とっても楽しみながら、ぞくそくしながら、一気に読みすすめることのできた物語だった。興味のある方は、ぜひお読み下さい。(ナンジャコレと思われても、責任はとりかねますが^^;)

 

 

 

五木寛之

「よみがえるロシア/ロシア・ルネッサンスは可能か?」

(文春文庫/1998.2.10発行)


(1998.2.15)

 

 このところ、ぼくにとっては懐かしい作家たちのものを読む機会を持っている。五木寛之の作品は、そういえば安部公房や大江健三郎などを読んでいた頃、「デラシネ」という言葉へのあこがれとともに、よく読んでいたように思う。最近では、「蓮如」関連のものや、松岡正剛との対談や道教関連でのものはいくつかふれる機会はあったのだけれど、ぼくとしてはそう深く関心を持てたということではなかった。しかし、五木寛之には、「風に吹かれて」というエッセイや「風の王国」といった小説もあるけれど、ひょっとしたら、非定住民的なあり方を陰の歴史、歴史にならない歴史として熱く語っている五木寛之の姿勢をあらわす「風」という言葉のなかに響いているもののために、ぼくはパソコン通信でこうして使っている「KAZE」というネームを選んだのかもしれないとも思う。実体的ではないが、常に変化していくもののなかに、その戯れのなかにその生命をもっている「風」の物語をぼくは探しているのかもしれない・・・、とまあ、五木寛之節を読むとどうしてもこうしたロマン風な表現をしてしまいがちになる^^;。

 それはともかく、本書を手にとったのは、五木寛之節への郷愁ではなく、自分にとって比較的不案内な「ロシア」について、できるだけそれが自分のなかの物語への欲求をかきたてるものとしてのひとつのひっかけをさがしていたのだともいえる。つまり、最初からハードなロシアものを読もうとしたら、そのとっかかりのところで挫折しかねないからだ。それには、ぼくがロシア語に興味を持ちながら、極めて不案内な言語であるということも一因しているのかもしれない。

 ロシアと日本の関係について目をひらかされたのは、司馬遼太郎の「ロシアについて」であり、シュタイナーの神秘学を知るようになってから特に興味をもったのはソロヴィヨフだった。最近では、特に音楽関連での触発もあり、ロシアについてできるだけ理解できるようななにかを探していて、つい最近も亀山郁夫「ロシア・アヴァンギャルド」(岩波新書)というのを見つけ少しずつ興味深く読んでいたところだったのだけれど、ちょうど折良く五木寛之の今回の新刊(文庫による再刊/単行本は1992年刊)を見つけて、まるで面白い小説を読むような仕方で、五木寛之ワールド的な視点で「ロシア」へと比較的最近の状況を踏まえるかたちで近づくことができたように思う。

 さらにいえば、テーマは「ロシア」を越えて、特にこの世紀末に激化している「民族主義」的な方向性への視点へも向かう。それは、「日本」をどうとらえるかという問題とも密接にリンクしてくる問題だといえる。しかし、その「民族」ということをあまりに単純にとらえてしまうと、容易に独善的な「民族主義」へと陥ってしまう。「民族」理解と同時にその時代における地球全体との連関、いわば「時代精神」との連関をしっかりと見据えようと試みることを忘れないようにしたい。

 この本にはロシアにおける「ジプシー」などさまざまなという興味深いテーマが語られているが、それはそれとして、最後に、先日から語られている「モダン」や「自己と世界の喪失」というテーマに関連した箇所をペレストロイカ以降のロシアを精力的に取材しているという吉岡忍との対談「記録への復讐がはじまる」のなかから、その吉岡忍の言葉を引いておきたい。

 いまの日本の中で、情熱であるとか、あるいはその情熱をかたちにした物語であるとか、エンターテインメントであるとか、様々な分野で生きている人の物語はそれなりにあるのでしょうが、ごく普通のビジネスマンとか、主婦とか、学生とか、そういうひとりひとりのいわば心の中にそれをどうつくり出していけるのか、自己の中にあるものを物語として語れるようなものをどうしたら生み出せるのか、という問題に我々は直面していると思います。そのことが逆にいうと、世界に向かって自分を対置し、つかみとっていく力になるのだろうと思います。(P189)

 

 

 

百姓 高橋丈夫「生命農法/動・植・人と地球の共生」

(三五館/1997.5.8発行)


(1998.2.21)

 

 シュタイナーのバイオダイナミック農法の考え方に、農業実践のなかでたどりついたプロセスが、本書のなかに感動的に綴られてます。意味深いのは、まさにそれが実践の結果としてでてきたこと。そのことに深い意味があるのだと思います。ですから、本書には、それこそ「全国を駆けまわって」、あらゆる角度からアプローチした農業の可能性のさまざまが示唆されていて、それらを教条的にではなく実践のなかでとらえようとしていますから、たとえばEMや「波動」などといった容易に教条化されてしまいがちなものへの危惧なども表明されていたりします。

 どんなことでもそうですが、何かを固定的にとらえ教条化して後生大事に馬鹿の一つ覚えだけに終始すると危険なことになります。なにかが素晴らしいのは、それが意味する本来の意味をしっかりとらえながらそれが実践されていくなかで真に獲得されていくということではないかと思うのです。

 ぼくが本書を読んでなにより感動したのは、著者が農業実践のなかでたどり着いた「中」という考え方でした。それは、ぼくがシュタイナーの神秘学を学ぶことを通じて現在もっとも重要だと考えているとらえ方と一致していたのです。それについては、ホームページの「中道論」に少しだけまとめてあります。 

 全国を駆けまわって多くの人たちに出会い、これまでの常識では考えられなかったような高いレベルで農業に取り組むことができました。その中で、野菜たちの品質をまざましい勢いで向上させることができたのはほんとうに幸運でした。そして野菜づくりの現場でつぎつぎに展開された奇跡のような出来事に接していると、小さな畑だけでなく、地球規模での環境浄化も夢ではない、と思うようになってきました。そして学んできた農法をもう一度構築しなおし、新しい時代のための農法へと進化させていくことを考えたのです。これまで炭と木酢液を中心に取り組んできたわたしは、将来に向けての農法もまた、炭という目を通して自分なりの解釈で進めることにしたのです。すべてのすぐれた農法を学んでいたとき、わたしが一番強く感じていたことが、中庸、中性、真ん中ということでした。

 陰と陽、プラスとマイナス、酸性とアルカリ性、それらの一方を理解するのではなく、常に真ん中に立ってその両方を理解することから、はじめて正解といえるものへの道筋ができる、と思ったのです。酸性の強い木酢液、アルカリではあるけれど中性に近い炭、そして炭を焼いた後に残る強いアルカリの灰、それぞれが異なった働きをするのですが、基はひとつなのです。それは生きている植物たちでした。(P149)

 また、たとえば本書では、その考え方とも関連して、「害虫」といったとらえ方などに対しても、次のように述べられています。これは、「悪」に対するとらえ方と共通するものがあります。 

 害虫などというものはほんとうはいないのではないか、むしろ害虫と呼ばれている虫たちは実は益虫ではなかったかと思うようになってきたのです。畑の作物にアブラムシやヨウトムシ等、いろいろな害虫が発生することは、作物自身あるいは人間にとってわるい部分を残させないようにしているのではないか。彼らは掃除屋であり、いわば地球の進化を守るための益虫ではないか、と気づいたのです。

 わるいDNAを持った植物をその後も地球の生態系に残しておくことは、食物連鎖の中で、すべての生物のDNAに悪影響を及ぼすことになるという地球生命体からのメッセンジャー、それが害虫たちであり、地球の秩序の担い手であったのかもしれないと考えるにいたったのです。それなのに、です。地球の本当の生理も知らず、農薬をかけて殺してしまう。つまり現行農業はわるい遺伝子を、人間のことも考えず、利益のためだけに生産しているのです。これは地球上の食物連鎖と生命環境にとって重大な秩序の混乱を生み出す原因になっています。(P110-111)

 このとらえ方は、農業に限らず、もちろん医学などにもあてはまりますし、教育などをはじめとしたあらゆることにあてはめて考えることができるでしょう。

 本書をシュタイナーの「農業講座」や「精神科学と医学」などとあわせて読まれることで、それらの根幹となっている神秘学という大樹を実践的に理解するきっかけになるのではないかとも思います。

 シュタイナーの神秘学は、やはりその大樹の部分を理解することなくして、個別分野だけを見ていくことだけでは、理解できないでしょうし、そもそも個別分野さえ理解することはできないのではないでしょうか。

 本書の著者も、農業実践という道を真摯に歩んでいくことで、どんどん関連分野について見ていくことになっていったようで、「はじめに」にもつぎのようなことが述べられています。

 できるだけ平易な言葉を使って、農業とは無縁の方々にも無理なく読んでいただけるように書いたつもりですが、農業というものは生物学のみならず、化学、物理学、電子工学の類ともかかわりあっているため、耳慣れない文字が登場することもあるかもしれません。また、農業は生命と向かい合うものですから、医学や心理学とも深くかかわってきます。わたしとてその精神的な世界をまだまだ究めつくしたわけではありませんが、できるだけわかりやすく、みなさんにその全容をお知らせするように努力したつもりです。(P2)

 どんな分野も、シュタイナーでいえば、神秘学という大きな樹の幹や根のひとつひとつの枝や葉なのではないかと思います。枝を理解するためには、その幹や根から理解しなければ、それらを理解することはできないのではないでしょうか。

 

 

 

ダン・ミルマン「聖なる旅」

(徳間書店/1998.2.28)


(1998.2.26)

 

 ダン・ミルマンという名前はどこかで聞いたことがある。そう思いながら見てみると、それは10年以上前に「やすらぎの戦士」という本が、筑摩書房から出ていたことを思い出した。なんだか、カスタネダものをカジュアルにした感じだなとか思いながら、けっこう面白く読んだことを思い出した。

 今回のものは、その続編とでもいうべきものらしい。しかし、「やすらぎの戦士」が基本的に実話なのに対して、今回のものは基本的に著者の体験をもとにしたお話であるということだ。「やすらぎの戦士」はあまり日本ではあまり受けなかったらしくて、すぐに絶版になったようだけれど、それもこの「聖なる旅」に続いて徳間書店からあらためて刊行されるらしい。

 さて、この「聖なる旅」は、著者のダン・ミルマンがニューエイジという言葉も実体も好きではないらしく、「僕はもう50歳なので、僕の本はニューエイジの棚でなく、ミドルエイジの棚に置いて欲しいと本屋さんに頼んでいるんだ」というジョークを言っているように、その読みやすさと精神世界的なテーマにかかわらず、そこに盛られている内容には、それなりのものがあるように思いながら、とてもスリリングに、しかもとても楽しみながら、そしてそれがまるで自分にでも起こり得ることのように読むことができた。

 「光を見るためには、まず暗やみを何とかしなければならないのですよ」その言葉が、「ミドルエイジの棚に置いて欲しい」ということを象徴しているように思う。それはたとえばこういうことだ。 

「人は過去生で行なった仕事を通して、才能を発揮することもあります。でも多くの場合は、その人々が、下の方にあるすべてのガラクタを掃除していない限り、彼らは一時的に高い段階に達して、そこのエネルギーに触れ、そこの窓から外をのぞいているだけなのです」(略)

「・・・偉大なマスターたちは、より高い段階に達することができ、確かに大きな愛、エネルギー、明晰さ、知恵、カリスマ、慈悲、思いやり、力などを体現します。ところが、もし、下方の段階に十分熟達していないと、お金を持って逐電したり、弟子と寝たりすることになってしまいます」(略)

「・・・善意で探究している人、孤独な人、人生に退屈している人、絶望している人など、いろいろな人々が、様々な方法を使って、霊的な神秘体験をしようとします。でもそれが何なのですか?彼らは何を得るというのでしょうか?みんな前よりも、もっと落ち込んで、元の普通の状態に戻ってくるのです。

 霊や魂はいつも、今ここに、私たちのまわりや、私たちのなかにあります。しかし、これがわかるための近道はありません。神秘的な修行は、高揚した意識は作り出しますが、その体験がこの次元の責任ある生活に根づいたものでなければ、何の役にもたちません」(P214-215)

 もちろん、シュタイナーの著作や講義集も、「ミドルエイジの棚に置いて欲しい」といえるものであるように、ここに述べられていることは、シュタイナーの神秘学の姿勢と通ずるものがあるように思う。

 たとえば、オウム真理教の事件にしても、ここに述べられている観点からその誤りの部分について見れば、とてもよくわかるのではないだろうか。オウム真理教への共感を表明していた方などの錯誤もここにあり、事件以後のよくわからない批判の迷路もここから見直すことができる。それを総合的に見ようと思えば、シュタイナーの「自由の哲学」と「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」が適切だろう。そこに述べられている観点をしっかり把握しておくならば、カルト的な方向に向かうことの錯誤がどこにあるかが明確になる。逆にいえば、そこが把握されないかぎり、明確なカルト批判はできないのではないかと思う。

 「光を見るためには、まず暗やみを何とかしなければならないのですよ」

 ぼくはこの意味を深くとらえていきたいと思う。純粋さや正義感の陥る錯誤もこの意味がわからないことからくるように思う。民族主義の暴走もおそらくはまさにそこにある。

 「聖なる旅」は、自分の闇と徹底的に向き合うという旅でもある。「聖なる」という言葉からはすぐに「光」のほうに向かうように錯覚しがちだがそうではなく、むしろまずは自分の闇から目を背けないようにしなければならない。

 本書は、そうしたことを深く考えさせてくれ、しかもとても楽しい時間の過ごせる好著だと思う。

 そうそう、この本の表紙は村上春樹の小説の表紙などにも使われている「佐々木マキ」の絵が使われている。そういえば、内容もある意味で相通ずるところがあるような気もする。

 

 

 

田島正樹「哲学史のよみ方」

(ちくま新書143/1998.2.20)


(1998.3.1)

 

 正直言ってそう期待しないで、面白くなかったら途中でやめようと思いながら読み始めたのだけど、とっても面白くて一気読みしてしまった。扉の紹介に「哲学史の冒険」とあるように、とてもユニークな切り口でありながら、哲学の入門書としても、またいわゆる「世界観」についての再認識のためにも格好の一冊なのではないかと思う。しかも、ある意味では、この1冊は、シュタイナーの「自由の哲学」を読むための準備としても有効なのではないかとさえ思う。

 また、文章もとても練れていて無駄なく品格のある、柔軟なものなので、読んでいて疲れてくるようなことのないところがなかなかいい。実際のところ、ポストモダン風の横文字用語の羅列や放縦さが鼻についたりポップさで読者を獲得しようとしたりするものや、逆にあまりに堅苦しくて論文のための論文のようになっている哲学ものが多いので、そういうなかでコンパクトながらなかなか好感が持てる。

 「哲学史のよみ方」と題されてはいるけれど、通常の哲学史のようにギリシア哲学から初めて現代までというような編年体のものではなく、また哲学思想に優劣をつけようとするものでもなく、著者自身が「あとがきに書かれているように読者が新たに「観点と展望」を持てるように者者なりの切り口を提示した「一種の光学器械」のようなものといえばいいだろうか。

 本文におつきあいいただいた読者なら、ここで取り上げられた哲学諸説の中にも互いに対立や考え方の違いがあまたあることに気づかれたことであろうが、もはや「そのうちのどの立場が正しいか」などとな問われないと思う。これらの諸説は、いずれもある種の観点と展望をわれわれに与えてくれるが、そのどれか一つだけが排他的に「正しい」といったものではないだろう。その点でこれらの諸説は、われわれに新たな光景を展開してくれる一種の光学器械のようなものである。プルーストは、作家の仕事をこのような光学器械にたとえつつ次のように記している。 

……作家の著書は一種の光学器械にすぎない、作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきりと見分けさせるのである。(『見出された時』

 高校生のとき、なぜ読書が必要なのかということについての議論で、ぼくなりの意見として次のように述べたことのあることを思い出した。それは、「人間ひとりだけが直接的にできる経験はわずかなものだけれど、読書という二次的な経験によって経験そのものを限りなく豊富にすることだできるのではないか」というものだったのだけれど、そう自分が言ったことに自分で深く考えさせられたのを覚えている。

 もちろん、本の虫になって「現実」に深く関わることのないのは論外だけれど、確かに、哲学を含め読書経験という経験は、「ある種の観点と展望をわれわれに与えてくれる」ものだ。そのためにも、「ある種の観点と展望をわれわれに与えてくれる」本を見つけだす作業というのはとても重要になってくる。シュタイナーの本を見つけたというのも、ぼくにとってはかけがえのない「経験」を得るための好機だった。

 さて、本書だが、特に最後の章の「他者としてのキリスト教」にある次の箇所は「愛」と「自由」について深く考えさせる重要な「観点と展望」ではないかと思うので、ご紹介しておきたい。

 世界を創造することで、あまつさえ人間という不完全な自由意志を持ち、罪(神からの離反)をあえて犯しうるような存在を創り出すことで、神はむしろ多くの問題を、無限に多くのやっかいを創り出してしまったのではないか。それにもかかわらず神が、皆無よりはこの世界の存在を欲したのはいったいなぜか。それは神の無償の愛によるとしか言えない。神は己れの存在の完全無欠な充実した自閉よりは、不完全で無限に厄介な問題の源泉である他者の存在をあえて求め、それを肯定したのである。

 ここには、たとえライプニッツでももはやその<十分な理由>を問いえない愛の不条理(無償性)があるのではなかろうか。愛は愛すべき理由に従って愛するものではないからである。愛が、愛した結果として、その対象の中に愛すべき理由をいろいろ見出すことはあるにせよ(“あばたもえくぼ”)、愛そのものはその理由に先んじ、またすべての理由を超越するからである。かくて、愛よりは存在を選ぶ神は、問題としての他者を他者であるままに肯定し、愛する神であることになる。ここにギリシア的哲学の伝統にとってはどうにも呑み込みにくい、他者としての存在という観念がもたらされる。

(略)

 われわれがしばしば他者としての存在を否認し、自閉しようとするのはなぜか。それは、過度の己れの存在を気づかい、不安に駆られながら今の己れの存在を確かなものとして確保しようとするからであろう。それはとりわけ、死への不安の中に揺曳している自己の存在を自覚することに由来する。しかしこのような自己の存在への気遣い(Sorge)は、キリスト教的伝統に照らせば、けっして真の自己認識にも、真の存在認識にもつながらない。キリスト教的伝統によれば、真の自己認識は、つねに他者の存在を経由したものであるほかはなく、存在の意味は他者ととして与えられるものだからである。神との関係、隣人との関係における愛と信頼の中に見出されないような自己は、真の自己ではないのである。この意味で「己れを得ようとする者は己れを失い、己れを失うものは己れを得る」のである。

 ここで、著者は有名な話である、マタイ福音書の25章を紹介しているが、長くなるのでその部分は割愛するので、各自参照されたい。 

 ここで1タラントンを後生大事にしまっていた僕が、祝福されるどころか罪を宣せられるのは、キリスト教的伝統の中での存在についての考え方をはっきり示している。危険を承知であえて未来へ向かって、他者へ向かって冒険しないような生は、生きていると言うに値しないのである。この僕に信仰・希望・愛が欠如していることは、彼が恐怖を告白しているところに如実に示されている。このような存在についての直観的理解は、哲学的理性にとってはまことに捉えにくいものであり、またきわめて興味深いものではあるが、未だわれわれの哲学の共有された遺産となるには至っていない。したがって、キリスト教的哲学の系譜について語るのは、今なお(あるいは永遠に)時期尚早なのかもしれない。(P202-211)

 著者はここまで踏み込んで「哲学史のよみ方」を書いている。しかし、これは決して「時期尚早」なのではないと思う。むしろ、今まさに必要な「観点と展望」なのではないかと思う。そしてそれこそが「自由の哲学」にもつながるものではないだろうか。もちろんこの引用で「己れを得ようとする者は己れを失い、己れを失うものは己れを得る」と言っているのは、自己犠牲をせよというような道徳的義務や命令のことではない。それは、神と較べれば不完全ながらも、選択の自由というのではなく、神と同じ「創造の自由」を決してあきらめてはならないということなのだ。

 われわれは認識したうえで愛するのではなく、認識しえない他者を愛さねばならず、理解しえぬ未来を信じなければならず、無限なる他者へと心を開かねばならないのである。

 このような不条理な飛躍をなしえず、確かな自己の所有物の中で頑なに自閉しようとするとき、未来の不確実性の前にたじろぎ、他者の異質性に対して心を閉ざし、創造的自由を諦めて出来合いのものに甘んじて、新しいものとの出会いを拒否するとき、このような実存の形式をキリスト教の伝統は<罪>と呼ぶのである、すなわち罪とは、信仰・希望・愛の欠如のことであり、無限なる他者の否認のことにほかならない。(P207)

 

 

 

飛鳥昭雄+山上智

「未来記と未然記・聖徳太子の「秘文」開封」

(徳間書店/1998.1.31)


(1998.3.6)

 

 日本書紀に「未然を知ろしめす」と記された聖徳太子の「未然記」そして、「太平記」のなかで楠木正行が閲覧したという「未来記」が原文のまま「国立国会図書館」からでてきた!というのが、本書のオープニングを飾るファンファーレなのだけれど、たしかに、こういう文書が続々と紹介されながら、この日本という磁場が持っている謎が次々と明かされていく時代がきているのだなあと思う。

 もちろん、こうしたネタをアカデミズムが大々的に紹介するようなことはまだまだ当分の間はないのだろうけれども、そんなことは無視して、謎が解明されていく現代という時代に生きていることを実感するのは、なかなかにスリリングなことではないかと思う。

 どうも、この日本という国はよくわからない国だとはずっと思っていたのだけれど、その「よくわからない」というのがいったい「何」がよくわからないのかを、ここ10年ほどの間、ひとつには日本人の自我・自我のあり方という側面から、もうひとつには、古代史を解き明かすことで見えてくるような側面からいろいろ見てみる機会をおりにふれて持つことができたのではないかと思う。それは、シュタイナーの神秘学というすぐれた「鏡」があったことや古代史について新たに解明された、もしくは謎を示唆する視点が毎年続々と紹介されるようになったことが大きいのではないかと思う。

 ぼくにとっては、かつて、歴史というのは過去の遺物でしかなくて、なんで終わってしまったものをいちいちほじくり返すのか・・・というような稚拙な考えしかもっていなかったりしたのだけれど、いまでは、その歴史はまさに現在そのものの鏡であり、いや現在そのものの謎をライブにとらえていく生きた物語なのだということを深く感じるようになってきていて、やっと歴史が面白くなってきている。

 とくに、この日本という格好の生きたテキストがあるわけなのだから、とりわけ興味深い古代日本の謎、つまりは現代日本の謎をいろいろな角度から探ってみたいという衝動が強くある。

 この「聖徳太子の「秘文」開封」そのものに書かれていることは、そうしたもののほんの一端でしかないのだけれど、これを読むだけでも、こうしたことにこれまでほとんどふれていない方は、けっこう驚かれるのではないだろうか。しかし、この手のものは、内容はけっこう面白いのだけれど、どうも雑誌の「ムー」風の書き方になってしまっているところがあって、(たぶん、そういう読者が多いからそれに合わせざるをえないのだろうけど)そこで「また〜、そんないいかげんなこと言っちゃって!」とか思われがちなのが損しているような感じもしたりする。

 しかし、聖徳太子などをめぐる日本古代史の謎は面白すぎる。ユダヤやキリスト教などとの関連もすごく面白いし、それは一般の常識からはかけ離れたものなのだろうけど、そもそもその一般の常識そのものがあまりにつまらないだけだし、その常識はあまりにも何も説明できないものであるだけに、アカデミズムという硬直化したセクトなんか今のところ無視して、やはり「事実」はどうなのかということ、そしてその「事実」は、今のわれわれにどう影響せざるをえないのかを神秘学的に!見ていきたいものだと思う。

 本書そのものの紹介にはあまりならなかったけれど、こういう本を一度読んでみられると、そういう入口から、いろんな観点が続々とでてきてとっても面白いと思う。

 

 

 

友常貴仁

「もう朝だぞ!/聖徳太子の末裔が解く“朝の不思議”」

(三五館/1998.3.2)


(1998.3.7)

 

 友常貴仁は、大和古流廿一世当主であり、大和古流とは、聖徳太子の末裔として日本文化の神髄を秘伝として継承している家系であり、その最初の著書「大和的」以来、「千年の四季」「大和古流の躾と為来」「千年夢一夜」(すべて三五館)とその家系に伝わる「秘伝」を「掟破り」として公開している。現代は、「秘伝」を「秘伝」のままで守り通す時代ではもはやなく、シュタイナーが、「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」などによってそれまで秘されていた秘儀の公開に踏み切ったように、秘儀を公開しながらその新たなステージを踏み出す時代なのだといえる。

 今回の「もう朝だぞ!」はその最新巻。その最後には、1997年の11月、エジプト国の要請で、「地球守護の矢」を放つ儀式をスフィンクスの前で行じたことが書かれてあったりするのだけれど、そのように、ある意味では、友常貴仁は日本の叡智を継承するひとつの象徴的な存在であるのだといえる。日本には、こうした古代から連綿と継承されてきた叡智が残されており、そうしたある意味では秘儀の集大成のような叡智によってこの日本という国がひとつの命をもって存在できているのだともいえる。

 しかし、かねてより友常貴仁の著書を読みながら思っていたことなのだけれど、ここに公開されている秘伝の数々は、確かに古来よりの叡智ではあり、またそれを現代という時代の要請から、あえて「掟破り」までして、公開しているということの意味は深長である。けれど、おそらくは、こうした継承されてきた叡智は、こうして公開されることにより、そうした叡智をさらに変容させる契機を持つ必要があるのではないかとも(ぼくの勝手な見解ではあるが)思ったりもしている。

 それは、この著書のなかでも随所に述べられていることをシュタイナーの神秘学の視点と比較することで見えてくる観点でもあって、ひとつには、「ミオヤの神」というような血縁によって継承される叡智でありもうひとつは、「穢れを祓う」などに見られるような、「悪」を変容させるのではなく排除していくような視点である。明治維新前後に始まった神道の新しい流れの後に現われた「日月神示」などに見られるように、血縁による叡智を越えた新たなあり方の必要性や「悪」を排除するのではなく、それされも役割としてとらえながら、それそのものをも変容させていく視点の必要性なのではないかと思う。

 さて、この著書は「もう朝だぞ!」というタイトルからもわかるように、いわば早起きのすすめがテーマで、ぼくにとって耳に痛い内容ばかり^^;。この著書に込められたその「もう朝だぞ!」を自分なりにかみしめて、生活のあり方を見直してみることにしたいと思う。たしかに、朝ぎりぎりまで寝ていて、朝食さえ食べないで、会社にとびだしていく生活というのは問題なのだ^^;。著者のいうように朝四時起床は無理だとしても、せめて出勤の二時間前くらいまでには起床して、朝日を浴び、有意義な時間を持ちながら、しっかり朝食を食べて一日の始まりとしていかなければならないのではないかと思う。

 さて、最後に、著書から、少し象徴的な箇所を引いておきたい。 

 何か新しい世界が誕生する時、それは夜明けです。新しくなる前の時代が闇の世界、しかし新しいものが誕生するからこそ、今までのものが闇の世界となるのです。闇の世界へ隠されていくのです。そして、その闇の世界へ隠されていく今までのものを内在した力をしっかりと見極めていくためにも、夜明け前を知っていなくてはなりません。だれでもが明るいとわかる、その前の明るくなる前の世界をよくこの身に修めておかなくては、真の明るさを我が物とはできないのです。夜明け前にしておくことがあるのです。いや、やっておかなくてはならないのです。(P168)

 おそらく著者の友常貴仁氏には、継承された叡智を基礎としたそれなりの役割があるのであって、それを通常の我々と同一のものとしてとらえることはできないのだけれども、人にはそれぞれの役割としての「分」があり、その「分」をしっかりと果たすことが現代の日本に生きている意味なのだと思う。 

 まさに、今はあらゆる価値が行き詰まりつつある「闇の時代」だともいえる。その闇の時代だからこそ「やっておかなくてはならない」ことがあるはず。夜が明ければだれでもが当然のように目にするようになるのだろうけれど、その夜明けを迎えるためには、それなりの準備が必要で、その準備がなければ、ひょっとしたら夜明けにならないかもしれない。それは一人一人の「やっておかなくてはならない」の総合として迎えることのできる「夜明け」なのだろう。

 「夜明け」のための視点のひとつとして、友常貴仁のような方がこうした著書を書き、またシュタイナーがあの壮大な神秘学を提示している。それらを生かすも殺すもわれわれひとりひとりの問題だということをまさに世紀末を迎えているわれわれはしっかりと受けとめなくてはならないのだと思う。


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