風の本棚11

(98/1.5-98/1.29)


■ルドルフ・クッツリ「フォルメンを描く」

■ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」

■入沢康夫「唄−遠い冬の」

■関裕二「消された王権 物部氏の謎」

■水樹和佳「イティハーサ13」

■中西進「日本人とは何か」

■岩田明「日本超古代王朝とシュメールの謎」

■鑪幹八郎「恥と意地/日本人の心理構造」

■電縁交響主義・ネットワークコミュニティの出現

■藤沢令夫「プラトンの哲学」


 

 

ルドルフ・クッツリ

「フォルメンを描く/シュタイナーの線描芸術I」

 (晩成書房/石川恒夫訳/1997.11.15)


 (1998.1.5)

 

 本書は、シュタイナーの「フォルメン線描」についての総合的な「練習本」で、「I」とあるように、「II」も近々刊行されることになっているようです。この本の刊行時には、晩成書房からご案内をいただいたりもしたのですが、書店で本書を見つけたのは、12月も下旬になった頃のことで、「フォルメン線描」については、まだまだ不案内なこともあって、早速これからこの本をガイドにしながら、「練習」していこうと思っているところです。

 この「練習本」を使うに先立って、以前買ってきていて、ざっと拾い読み程度になっていた次の本を読んでみました。 

■エルンスト=ミヒャエル・クラーニヒ、マルグリット・ユーネマン、

 ヒルデガルト・ベルトルンド=アンドレ、エルンスト・ビューラー、

 エルンスト・シューベルト

 「フォルメン線描/シュタイナー学校での実践と背景」

 (森 章吾訳/筑摩書房/1994.10.25発行)

  「シュタイナー学校での実践と背景」とあるように、この本は、いわばフォルメン線描」の基礎的な理解のためにはとても役立つものだと思っていましたが、今回刊行された「フォルメンを描く」はとても基礎的なところからその深さに至るまで「練習」を通じてそれを広範に体験できるとてもすぐれたものになっています。

 本書の章(IIも含めて)で、その概略を紹介させていただきます。

 

第1章 基本要素の練習1「直線と曲線、レムニスカート」 動きからフォルムへ

第2章 基本要素の練習2「ループ、螺旋、結び」 フォルムの調和

第3章 組紐紋様を織りなす 点の秩序

第4章 組紐紋様のリズム化 法則と自由

第5章 結びの神秘 フォルムを感ずること

第6章 カリクトゥスの結び 自我のフォルムとしての 

II

第7章 線の質と表現技法 自由な創造へ向けて

第8章 フォルメンの教育的、治療的課題 フォルメンから幾何学へ

第9章 「土星封印」を描く シュタイナーの線描芸術I

第10章「神秘劇の封印」を描く シュタイナーの線描芸術II

第11章 第一ゲーテアヌムの「柱脚封印」を描く カール・ケンパーに捧ぐ

第12章 「惑星封印」を描く シュタイナーの線描芸術III

補章 対極と高昇 メタモルフォーゼの秘密

 さて、本書の第1章の最初に書かれてある次の言葉を引用して、あらためてフォルメン線描の意義を確認しておくことにします。

この本には、十分に熟考を重ねたすえの一つの学びの道が示されています。知性や才能の有無とは関係なく、内的成長を探し求める人なら誰でもが、その道を歩むことができるのです。この学びの道は、それぞれの人の内にまどろんでいる創造の翼を広げてゆくような、一つの活性化のプロセスを辿ります。フォルメン線描は、形成するものと解体するもの、活発にするものと静めるもの、宇宙的なものと地上的なものとを調和に導いていく、内なる「リズム人間」に語りかけます。それによって、思考が硬化し、魂がすさみ、意志の実行力に欠けるという傾向に絶えずおびやかされている現代にあって、中心の力、「自我」の力を強めていくことができるのです。事をなそうとする私の「自我」からの力が萎えてしまいがちな現代において、また反リズム的なものが私たちを病に陥れ、魂を枯渇させようとする、まさにこの現代において、この学びの道は、健やかな魂を育みつつ、活性化していく諸力の一つの源泉となるでしょう。(P7)

 この「「自我」の力を強めていく」ことは日本では容易に誤解されてしまうのですが、その真の意味を深く体験的に認識可能にしていくためにも、本書の試みは特筆に値するものではないでしょうか。本書はかなり高価で4800円もするのですが、いろんなセミナーなどに参加することを思えば、ある意味では安価だともいえるのではないでしょうか。特に「「自我」の力を強めていく」ためには、自分の中心の力を日々自分の可能な場で形成するためには、ひとりで実践可能なこうした本はとても重要だと思われます。

 さて、本書の訳者のプロフィールを見ると、シュタイナーの建築関係を紹介されている上松佑二に師事されている方で、建築を専門にされているということですが、こうしたフォルメン線描を見ていく場合には、シュタイナーの建築についての講義などにふられらるのも重要なことなのではないかと思われますので、邦訳書と解説書を併せてご紹介しておくことにします。

■シュタイナー「新しい建築様式への道」

 (上松佑二訳/相模書房/昭和52年8月10日発行)

■上松佑二「世界観としての建築/ルドルフ・シュタイナー論」

 (相模書房/昭和49年8月30日発行)

 上記の本は刊行されたのはかなり前なのですが、今も比較的簡単に手に入れることができますし、とてもすぐれた論考であり、示唆的な講義になっています。

 

 

 

ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」

 (高橋巌訳/筑摩書房(ちくま学芸文庫)/1998.1.9)


(1998.1.13)

 高橋巌訳の「神秘学概論」が、文庫本で登場!

 シュタイナーの「神秘学概論」の邦訳は、最初が人智学出版社から、続いてイザラ書房から西川隆範訳で刊行されていたのですが、今回、高橋巌訳の文庫本という、少し意表をつくかたちで刊行されました。

 同じ本でも、訳者が異なれば、またその訳者なりの思い入れなどもあって、少しずつその本のイメージも異なるものになることが多く、違った訳で読むことで、また新たな発見もあるのですが、「神秘学概論」のようなシュタイナーの主著だとまた感慨深いものがあり今回は高橋巌さんが十数年をかけた訳業だということもあって、じっくりと味わって何度も読みかえすことになると思います。また、今回は文庫本というサイズであるのもあって、手軽に持ち運びできますから、なおのことふれやすくなるものと思います。

 シュタイナーの著書ないし講義録で文庫本はこれがはじめてだと思いますが、シュタイナーの全集とはいわないまでも、主なものが、文庫本でたくさん刊行されるようになったらいいのに、と思います。この「ちくま文庫」には、ニーチェなどの哲学者の著作や宮沢賢治、夏目漱石などの文学者の著作などがいろいろでていますが、シュタイナーがそうした親しみやすさで読まれるようになる時代は来るのだろうか、とか思ったりもします。

 さて、今回の高橋巌訳「神秘学概論」は、高橋巌訳ならではということで、最後に、笠井叡さんの「解説/新しい宇宙の創造へ」が収められていて、これもなかなか贅沢な楽しみ方のできる要素となっています。

 ここでは、神秘学概論のなかからの紹介はまたの機会として、この笠井叡さんの解説から少し引用紹介しておきたいと思います。

アントロポ=ソフィアは単にシュタイナーが生み出した思想ではない。シュタイナー自身の例を用いるならば、コロンブスはアメリカ大陸を発見したのであって、コロンブスがアメリカ大陸を生み出したのではない。それはもともと在ったものだ。アントロポ=ソフィアは、在るものであり、それをシュタイナーは「人智学」として叙述したのだ。私は「人智学」の叙述の仕方は無数にあると思っている。だから、キリストという名前が重要なのではない。問題はあの月紀に叡智が物質に流れ込んだように、この地球紀に愛が物質の中に流れ込み、それが第二の土星紀=地球紀として「愛の礎石」となるか否かである。(P460)

 「シュタイナーの思想」という表現があります。しかし、その「思想」という表現は適切ではないのだといえます。それは、いわば「観察」の「事実」を述べていることだからです。もちろん、シュタイナーの観察方法と異なった観察方法もあり、それに基づけば異なった描写がなされるわけですが、それらは「思想」ではなくて、「科学(学問)」にほかなりません。もちろん、大宇宙から小宇宙までを射程においた「科学(学問)」です。

 それに関する部分を本文(最初の「神秘学の性格」の章)から。

感覚とその感覚に仕える悟性とが明示しうるものだけを「学」と見なす人にとって、本書の意味での「神秘学」は当然、科学たりえないであろうが、よく考えてみれば、その立場は根拠あるものではなく、個人的な感情に発する独断に従っているにすぎないことが分かる。科学がどのようにして生じ、それが人生にとってどのような意味をもつのか、考えてみよう。科学の成立は、本質的には、科学の研究対象に即してではなく、科学の研究方法に即して、認識されねばならない。科学を研究する魂がどのような在り方を示しているのか、に眼を向けなければならない。(略)

人間の思考は、この宇宙内容に関しても、自然科学が対象とするときと同じ態度で、研究活動を行うことができる。神秘学は自然科学の研究方式や研究態度を、感覚的事実の関連や経過から切り離して、しかもその思考の特質を確保し続け、自然科学が感覚的なものについて語ろうとするときと同じ仕方で、非感覚的なものについて語ろうとする。(略)

(P39-40)

 これまでに「神秘学概論」を読まれたことのある方もそうでない方も、シュタイナーが描き出す広大な「神秘学」の世界が、この掌にも載るような小さな文庫から拡がる不思議を体験してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

入沢康夫「唄−遠い冬の」

(書肆 山田/1997.7.10)


(1998.1.20)

 入沢康夫の詩につき合いはじめてもう20年になるだろうか。吉岡実とこの入沢康夫の詩は、ぼくにとって特別の意味を持っている。

20年まえ頃、一時期「現代詩」なるのものに浸っていた時期がある。今はさほどそうしたジャンルにふれることも少なくなったが、やはり入沢康夫の名前を見ると心の奥が少しばかり熱くなるところがある。

 その入沢康夫の「<詩>集成」(青土社)から一年ほどまえ上下巻で出た。上巻のものはいろんな形で読んだものが多いし、1冊1万円ほどするので、その頃、下巻のみを買い求めて一気に読んでみた。その少し前に、出てなにか賞もらっていた「漂ふ舟」という詩集は買い求めていたのだが、それもそこには収録されていて、あらためてなかば意識化できないのだけれど、ぼくにとってはどこかで情念が漂い始める詩集だ。

 もう新しい詩集はしばらくでないだろうと思っていたら、少し前に、この「唄−遠い冬の」が夏に出ていたのを知った。先の「<詩>集成」とこの「唄−遠い冬の」といった業績で毎日出版文化賞だとかなんとかいうのを受賞していたのを正月の新聞で見つけたのだ。こういう類の詩集は地方では見つからないので、先日上京したときに書店で見つけた。

 入沢康夫の魅力をどう表現したらいいのだろう。唄のように心に残るフレーズが妙に気にかかるところがあり、かぎりなく実験的な詩が構築的に、しかもその内から崩壊するように、しかしその奥底の穴凹からかぎりない物語やら闇の声やらが響いてくるようなそんなところがあるだけれど、そういってしまえばまた嘘になるだろうか。

 思い出深く、そして氏のこれからの活躍を祈って、かつて覚え込むほどに繰り返し読んだ、「季節についての詩論」「われらの旅」「帰還」の冒頭など思い出深く書き写してみることにしよう。 

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容で

あり 青い猪や白い龍に殺された数しれぬ青年が 先細

りの塔の向うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて

ひそかに ずんぐりした油壷や泥人形 またとりどりの

花を並べ 陽に干していると虚しく信ずることも それ

なればこそ 今や全く自由であろう ・・・

 

 イーヴよ きみのしたあの奇妙な旅のこと

ならば ぼくにもぼくなりに判つているとい

う気がする イーヴよ きみの旅路を だか

らこそ ぼくは自分の流儀で辿り直してみる

こともできるのだ むろんここでは 人称法

は必然的にその無力を露呈してしまうのだが

 

手を振ることが ここで一番自然な行為であるとしても

それ自体なんの役にたたぬことを知らねばならない 突

然襲いかかった死でこれがあるというなら、死はつねに

突然の嵐に類している

ビルの屋上 束のはずれにわたしは立ち 群つている雲

に向かつてやさしいやさしい挨拶をおくる

 

 

 

関 裕二

消された王権 物部氏の謎/オニの系譜から解く古代史

(PHP/1998.1.26)


(1998.1.22)

 シュタイナーの神秘学では、「ヨハネ福音書講義」に述べられているような古代ユダヤ、ヤハウェ、キリストといったことを理解することを通じて、人類の歴史を西欧のなかで見ていくことができるが、この日本で現在生きているということは、この日本の歴史を学校で教えられるような死んだ仕方ではなく、その背後に流れているものにアプローチすることで、一人一人が自分のなかに生きている歴史としてとらえていく必要があると思う。

 日本の歴史は、とてもスリリングだ。学校の教科書に書かれてあるような歴史ではなく、真の歴史のことだ。幸い、ここ数年で、日本の古代史について見ていくための材料が、かなりそろってきたように思う。その発端になったのが、原田常治「古代日本正史」(同志社)であることはすでにかなりこの方面ではポピュラーになりつつあるようだ。

 日本とは何か。この問いは、この神秘学遊戯団にとっては、大きなテーマのひとつでもある。シュタイナーの神秘学という大きな柱を軸にして、その問いにアプローチしていこうと思っている。インターネットをはじめてから、その方面への言及が少なくなっていたのだけれどそろそろその方面に関してもあらためてアプローチを開始していこうと思う。

 日本とは何か、にアプローチするためには、宗教的な方面では、仏教、神道、儒教、道教などについて見ていくことは欠かせない。さらに、日本の隠された歴史とそうした宗教的霊的な側面について見ていくことで、次第に浮き彫りにされてくるものがあるように思う。

 さて、前置きが少し長くなったけれど、この本は、コンパクトなかたちで、日本の隠された古代史の実体をわかりやすく概説してくれているものとして一読に値すると思う。もっとも、この本が画期的だというのではなく、こうした方面でのいくつかの観点が要領よくまとめられているということだ。また、これは、ある種のこうした本に見られるバイアスからも比較的自由な表現がされているものとして好感が持てる。

 この本に述べられている内容を、霊学的な視点から読み解いていくと、かなりスリリングな内容になるのだけれど、本書はそういう類の本ではない。その方面について見ていくには、明治維新前後に相次いで現れた古神道の復権とでもいえる天理教、黒住教、大本教、そして日月神示などについて見ていかなければならないのだれど、それについては別の機会を見つけたい。

 本書は、標題に「オニの系譜から解く古代史」とあるように「オニ」が主要テーマとなっている。古代における権力闘争の歴史において、歴史の暗部に埋もれてきた存在だともいえるのだけれど、それは天皇制そのものの在り方にもさまざまに影を投げかけているし、日本という磁場の基礎にある宗教性の部分に関しても、今やその「オニ」について認識をしなければならない時期に来ているように思う。

 日本には二つの歴史があり、ひとつは通常の歴史であり、もうひとつがこの「オニ」によってつくられた歴史である。その「オニ」の歴史は、半ば封印されたとでもいえる状態で、近代に至っているのだけれど、現代においてその封印が解かれ、その力が顕現されることを求めているのだともいえる。

 本書の内容から少しそれてしまった言い方になるので、本書の内容に戻る。 

『古代日本正史』(同志社)には、物部氏の祖・ニギハヤヒが大和の三輪山の大物主神と同一であり、スサノオの第五子であったことが、いくつもの神社伝承によって証明され、そればかりか、日本の本来の太陽神は、皇祖神・天照大神ではなく、この大物主であったという。私は大筋で原田説を支持し、物部氏の祖・ニギハヤヒと出雲神・大物主神を同一とみなすが、出雲と物部がたんに重なるだけではなく、彼らが“鬼”であったことを思うとき、ここに天皇家と鬼との闘争がすでに大和朝廷成立時からはじまっていたこと、この事実を、『日本書紀』を記した八世紀の朝廷が抹殺したと考えられる。(P87-88)

 スサノオ−ニギハヤヒ−物部氏、そして鬼というのを追っていくならば、これまでとはまったく様相を変えた日本史が見えてくるはずだ。

 実は、かつてNIFTYSERVEにあったこの「神秘学遊戯団」という会議室もこのテーマと無縁ではなかった。かつては、なぜ以前のフォーラムにシュタイナーをテーマとする会議室があるのか自分でも不可解なところがあったのだけれど、それがひとつの必然でもあったということが今ではわかるような気がしている。それは、シュタイナーの神秘学を機軸に、日本という謎にアプローチしなければならないということだ。

 そうしたテーマに興味のあるかたは、ぜひまずこの本をお読みになればと思う。あくまでも本書の内容はその端緒にすぎないけれど、今この日本に生きている意味のひとつがひょっとしたら見えてくるかもしれないからだ。

 

 

 

水樹和佳

「イティハーサ13/第四部 目に見えぬ神々」

(集英社/1998.1.25)


(1998.1.22)

時は昔、平和だった国に亞神、威神に分かれて戦う目に見える神々が渡り、目に見えぬ神々を信奉する心やさしい部族が戦乱に巻き込まれていく。

 日本の古代における神々の争いを思わせるような物語の13巻目。今年の夏頃にはいよいよ次巻で完結するようだけれど、この作品は、ぼくの知る限りでは近年のいわゆる少女漫画のなかでは、孤高ともいうべき格別の位置づけができるのではないかと思う。

 内田善美の世界も独特の孤高に位置するが、最近作品が出てないので、やはり、現在では、この水樹和佳のイティハーサほどの作品は見当たらない。吉田秋生や萩尾望都などの世界もいいのだが、かつての魅力はもはやない。むしろ、坂田靖子のほうが、バケモノの世界などが坦々と楽しめるので個人的には最近では定番になっている。

 さて、この「イティハーサ」には、「悪」というテーマが悲しみを湛えながら描き出されているように思う。

 なぜ、「目に見えぬ神々を信奉する心やさしい部族」が「亞神、威神に分かれて戦う目に見える神々」が渡って来ることで、「戦乱に巻き込まれ」なければならないのか。それは、神がなぜこの宇宙を創り出したのか。なぜ人間を創り出したのか。悪をもなす自由を与えたのか。かぎりなく稚拙なまでの自由さえ与えたのか。そうした問いとつながるものだ。そして、目に見えぬ太陽神キリストが人間として受肉したというシュタイナーが描くキリスト観とも密接に関わる問いだ。

 人は、みずからの内にある悪を見据えて生きなければならない。最初から悪を犯す可能性のない人間だけをあつめれば、それは幸せに満ちた世界が現出するのかもしれないが、その世界の意味とはいったい何なのだろうか。

 人は内なる悪を否定することで、自らをも否定してしまうのだ。悪を犯せというのではない、悪を見据えそれを抱えながら生きることが人間が人間である存在理由でもあるからだ。それは耐え難く悲しいことでもあるのだけれど、その悲しみこそが魂を成長させてくれるのだ。

 人は天使ではない。子どもを天使のように形容する人もいるが、それはこれから堕天使になる存在を賛美しているようなものだ。もっとも、堕天使になることを賛美することには深い意味があるだろうが。

 ぼくはシュタイナーが描き出しているようなキリストの前を灯火を掲げて歩むルシファーに限りない魅力を感じている。十字架上で死に、死の国にまで降っていき復活したキリストに感動を覚える。

 人が悪をさまざまなかたちで描き出そうとするのは、その根底で、悪がなければ人間であることはできないことを知っているからだろう。もちろん、どこまでも堕落を重ねていく可能性があるからこそ、その可能性のなかでの一条の光が例えようもなく輝いて見えるのだ。

 ちなみに、イティハーサを描いている水城和樹のホームページがあるらしい。まだぼくは見てないのだけれど、アドレスは以下の通り。http://www.fbook.com/waka_mizuki/

 最近、この類のホームページが増えている。先頃、青池保子の「エロイカより愛を込めて」のホームページをのぞいてみたのだけれど、これがつまんなくて笑えた、笑えた・・・(ただ、笑えただけなのだけど^^;)。

  

 

 

中西進「日本人とは何か」

(講談社/1997.10.9)


(1998.1.23)

 中西進といえば「万葉集」などの研究を中心として、神話などをはじめとして古代日本の文化を紹介している方なのですが、本書には、著者なりに「日本人とは何かを考え、その上で日本人らしく生きる」ということがわかりやすくエッセイ風に書かれてあります。

 基本的には、近代西欧の価値観から日本、日本人を見るのはやめにして、古代日本にあったその生き方を再認識し、むしろ日本、日本人の持つ素晴らしさを誇るべきではないか、それを忘れかけている方があまりにも多いのではないか、そうした主張になっていると思います。そしてそうした論点はかなり重要な部分であるとも思いますし、個々に揚げられている例なども当を得たものがたくさんあります。

 けれど、極端に言ってしまえば、過去が素晴らしかったから過去に帰れ的な発想は自然は素晴らしいから自然を賛美せよ的な短絡発想にもなってしまいます。こうした考え方には、大きな所で欠落したものがあるのです。その欠落した部分を埋めてくれるのがシュタイナーの神秘学的な観点なのではないかぼくとしてはそう考えています。

 戦後の民主主主義的な考え方、感じ方の影響を少なからずぼくも受けていて、日本をもちあげるようなことについては、「右翼的」というレッテルを貼ってしまいがちなのですが、だからといって、いわゆる「賛成の反対」式の「左翼的」な発想は、これもまたあまりに稚拙な部分が多くて、それで、いわば「シラケ」という状態がでてこざるをえなかったわけですが、そうした現代的空洞化とでもいえる状態を打破するためにはどうすればよいかというとやはり、日本に生まれ育った以上、日本、日本人について理解を深めることはどうしても必要だと思いますし、ではなぜ「左翼的な」観点があるのかということにもまた目を向けていく必要があり、その両者にある間隙というか、認識の欠落部分がいったい何なのかということに意識的になる必要があると思います。

 実際、その両者は逆のようにみえて、どちらも同じ欠落部分を持っているわけです。もちろん、いわゆる「右翼的」な方々のほうが、内容的にはずっと濃く、参考になる叡智的な部分を多く示唆されていることが多いのですが、どちらにしても、信仰者がもっとも信仰の信仰たる所以に無自覚であり、唯物論者がもっとも物質の物質たる所以に無自覚であることは否めません。

 今回は、中西進著「日本人とは何か」の紹介ですから、それに沿って話をすると、この、内容的には興味深いことがたくさん盛り込まれてある本は、シュタイナーの神秘学観点からとらえなおし、そこに欠落している認識部分がいったいどこらへんにあるのか、ということを見ていくための格好のテキストとして位置づけることができます。

 実際、こうした「古代日本賛美論」的なコンセプトをもった本は、その豊かな叡智部分が過去指向を持っていること、そしてその叡智部分をあらたに変容・展開させていかなければならないことを見ていくために格好のテキストだといえますから、ぼくとしても、たまにはこうした本を手に取るようにしているわけです。

 ここでは、ひとつだけ例を挙げてこの本の紹介に代えたいと思います。 

古代日本人は、祖先を、知恵と生産の神であると信じていたのである。現代は、世代間が断絶し、親と子は、一つ屋根の下にいながら他人のようである。若い人たちがいとも簡単に自分の命を捨てるのはそのためだ。

自分の命は自分だけの専用物だと思っている。私たちは、古代日本人にならって、祖先によって生かされていることを思い、もっとも近い祖先である老人を畏敬しなければならない。弱い老人をいたわる、ということではなく、その顔に深く刻まれているシワを、畏敬しなければならない。老人こそ、智者なのである。(P188) 

 本書でも繰り返し紹介されているが、古代日本では子どもが生まれると先祖の生まれ変わりだという考え方があったといいます。梅原猛さんなども、縄文的な考え方としてそういうのがあったということをかなり強調していたように思います。

 シュタイナーは、かつてはそういうあり方が傾向としてあったこと、民族が集合魂的に同一の自我を有していたから、先祖と自分がひとつに結ばれていた時代があったこと。そして、歳をとるということは、知恵を蓄え成長することを意味していた、ということを述べていたと思いますが、上記の引用で典型的にみられる発想というのは、基本的に「古代はそうだったから、現代もそれを見直すべきだ」そういう考え方ではないかと思います。

 老人があまりにも等閑にされている、余計者扱いされているということは事実で、その問題に対してもっと深く考えなければならないということは確かなのですが、だからといって、必ずしも「老人こそ、智者なのである」とは必ずしもいえないということを認識する必要があります。「老人には智者である可能性がある」といわなければならないように思うのです。それは、歳をとることそのものではなく、そこで自らが成長していって初めてその歳をとるということによる可能性が開かれるという観点が必要です。かつて、長老といえば、叡智の象徴でもあり、たしかにそれが事実だったのだと思います。

 また、祖先そのものは肉体先祖であるとしても、霊魂の先祖であるとは必ずしもいえないし、そこで、安易に、先祖と自分を同一視することはできません。もちろん、そうした方もいらっしゃるのでしょうが、シュタイナーが教育に関する講義でも述べているように、7歳から以降になって子どもが親に似ているとかいうことは、むしろ子どもが自分で自分を展開できなかったことだという観点もそこでは重要になってくるのではないかと思うのです。

 そうした観点をも検討しながら、はじめて、そこで、「生かされている」ことを認識する必要があるように思います。ただ親であったり、歳をとったりすることだけで、尊敬に値することだと思いこみたいとしたら、それは愚だといえます。

 「その顔に深く刻まれているシワを、畏敬しなければならない。」というのは、その「シワ」に価値があってはじめて畏敬に値するのだということをやはり認識することが重要なのではないでしょうか。

 ・・・というような批判的意識を持って読み進めると本書は、それだけでかなり重要な新しい日本論が可能になるようなそんな本として一読に値すると思います。

 

 

 

岩田 明

「日本超古代王朝とシュメールの謎」

(日本文芸社/1998.1.25発行)


(1998.1.25)

 先日、関裕二「消された王権 物部氏の謎/オニの系譜から解く古代史」というのをご紹介しましたが、それと併せて読むことで、もっと拡がりのある古代日本の成立についての理解を深められるのが本書だと思います。

 この方は、日本のルーツをシュメールだと考え、それを実証するためにさまざまなアプローチをし、とうとうシュメールの古文献から古代船を復元し日本までの航海を実証した方でもあり、それに関しては「消えたシュメール人の謎」(徳間書店)でその冒険譚とでもいうルポもだされています。

 今回の著書は、単にシュメールから日本への航海という視点だけではなく、日本列島にいた先住民、シュメールから海を渡ってきたルート、そして大陸を経由して日本に至ったルートというふうに主に3つのルーツが融合してできた日本という視点で、日本のルーツにアプローチしている好著だといえます。

 日本民族は三部族の統合・混血により成立した。その第一は旧石器から新石器時代を経て縄文人に至る原日本人、記紀や古文書には「毛人」として出てくる<毛族>、いわゆる縄文人である。第二はシュメールに端を発し、インド、東南アジアを経て日本に渡来した海のシュメール人、一般に弥生人と称される<海人(あま)族>。そして第三が同じくシュメールを祖とするが、アーリア人(アイラ族)と混血して陸路東へ移動し、中国、挑戦を経て日本に渡来した<銅鐸部族>である。これら三部族は、時に手を結び、時に争いながら同化していった。(P198)

 本書はシュメールに端を発してさまざまなルートを辿りながら日本に至る過程を著者なりに実証しようとして提示している仮説なのですがここに書かれていることはかなり納得のいく内容になっています。

 もっとも、ここには神秘学的な観点はでてきませんが、これにそうした視点を補完することで、日本についての理解をさらに深めることができるのではないかと思います。

 もちろん、そういうことをまったく考えなくても、暇つぶしに読む本としてもけっこう楽しいものではないかと思いますので、暇なときにでも手を取って読んでみるのも一興ではないでしょうか。

 

 

 

鑪幹八郎「恥と意地/日本人の心理構造」

(講談社現代新書1387/1998.1.20発行)


(1998.1.25)

 「日本人の心理構造」とでもいえるものについて初めて読んだのは高校生の頃、古典的な名著になっているルース・ベネディクトの「菊と刀」だったと思う。それで興味をひかれて、土居健郎の「『甘え』の構造」や中根千枝の「タテ社会の人間関係」などを読んだことを覚えている。そして、自分は、そこに描かれている「日本人」なる存在の説明にかなり納得すると同時に、その「日本人」がどうも自分とはかなり異なっているのだということに気づいた。

 この「恥と意地」にもとりあげられている題材に「忠臣蔵」などもあるがその「忠臣蔵」なるものには小さい頃からずっと違和感を感じていて、自分の理解している「日本人」像は、それが好きなのだということは理解できるのだけれど、どうにもそれに共感がわきにくいのだ。殿様が殿中で刃傷沙汰になってそれをとがめられて藩がおとりつぶしになった。それはそれとして、なぜ47人もの大人がそれが原因で、それについての怨みをいっしょになって晴らさねばならないのか。という素朴な疑問を消すことはできないのだ。そして、それがなぜかくも美しく描かれねばならないのか。忠臣蔵に描かれているような、そしてそれを好んでいる人の好きな「純粋さ」というものがいかに恐ろしいものか。そういうことを感じながら、「日本人の心理構造」というものに、興味を持ち始めたように思う。

 それは、自分が否応なくいわゆる社会に出て体験するさまざまの事柄にどうしてもなじめないにもかかわらず、どうしても適応せざるをえないようなそんな「日本人の心理構造」にどうやってつぶされないでしかも単にそれらに反抗するような稚拙なマネをしないでやっていくかという切実な問題でもあったように思う。

 そのテーマが行き着くのは、結局のところ「自我」というテーマにほかならない。シュタイナーの神秘学のテーマもその「自我」ということが大きなテーマになっていると思うのだけれど、シュタイナーがそれについて述べたのは、今世紀初頭のヨーロッパで、それをなんの翻訳装置もつけないで日本で受容しようとするとそこで躓いてしまう方もいるのではないかという気がしている。シュタイナー教育が論じられる際もっとも重要になってくるそのテーマも日本で受容されるとき、どうも変な具合になってくるのもその「自我」というテーマがきちんと考えられないからのようにも思う。

 日本では、たとえば電車などのなかで子どもが騒いでいてそれがとがめられると「おじさんが怒るからやめなさい」というふうな注意をする母親が多いというような類の事例からもわかるように、対人関係の場への依存が強くそのなかで自我が形成されていくものだから、いわゆる西欧的な自我の形成とはことなったありかたになっていく傾向が強いように思う。さきの忠臣蔵を例にとればわかるのだけれど、家臣というのは、殿様というか「お家」と自我がセットになって形成されているというかそういう在り方が理想とされているのだ。

 だから、赤穂藩の財政を処理していた現実的な大野九郎兵衛のようなあり方に「腹黒い」とかいうようなわけのわからない評価を加えてしまう。いわば、「わが部族の掟を破った不純で破廉恥なやつだ」とでもいいたいのだろう。

 シュタイナーのキリスト観でもよくとりあげられるような、古代のユダヤには集合的な形で「血」の共同体としての集合自我が注ぎ込まれたというようなあり方が、特定の共同体による自我の共有という形で求められているようなところがあるように思う。それはそれで、日本の個性であり、それによって非常に安定した平和な共同体のあり方であるのは確かなのだけれど、そういう蟻塚のような自我形成のあり方が大きな摩擦をひきおこしているということもあり、そうした自我形成をもっと柔軟なものに、というか現在のそうした「日本人の心理構造」をいかしながら、もっと「個」ということをも生かされたあり方にしていくことが求められているのではないだろうか。

 では、本書のなかから「日本人の心理構造」についての説明の部分を少しご紹介しておくことにしたい。 

私たちの存在の基盤として揺るがないと考えられる基本的な思想や信条が、わが国の場合、ある程度、曖昧模糊の状態で存在している場合が多い。強固な信念とか価値、信条などが固定せず流動的である。ブランコのように右や左に揺れたり、次々と変容したりする。また個人の生涯の中で、何度も新しいものと置き換えられたりするなどの特徴がある。その曖昧性・模糊性を主な特徴として取り上げて、これをアモルファス自我構造Amorphous Ego Structureと呼んでいるのである。(略)わが国においては(略)自分から自発的に行動していくというより、外からの働きかけや刺激に応じるように反応的reactiveに行動することが多く、いろいろな形で代理自我となる人物像に対して依存的になることが際だって認められる。

このとき外側に見える行動としては、受け身的になっていることが多い。また、人がどう動くかといったときの状況や、雰囲気はどうかといったことに敏感であり、場の状況や雰囲気に合わせるのがすぐれている。人がするからする。人が求めるから行動する。自分のためというより、人のためにするというかたちが多い。行動や物事の決定も他の皆と同じである。

これは一見「集団主義」と見間違えられ、誤解されてきたように思われる。しかし、そこには集団のまとまり、凝集性や統合性といったものはない。集団としてはバラバラであるにもかかわらず、他人の思惑で行動することによってまとまっているように見えるだけである。個人の「思想や信条の無構造性」はまた、「集団の無構造性」として示されていると言えるのではないだろうか。(P133-135)

 個人の「思想や信条の無構造性」や「集団の無構造性」ゆえに、その中心にいる女王蟻のような存在(実はそれが形だけの場合が多いのだけれど)が右に行けば、その構成員は右に動き、左に行けば左に動く・・・というようになり、それに反するものは村八分的な制裁が加えられるしかもそれが構成員全体の「総意」とでもいうようなかたちで行われるということが多く起こることになる。

 しかし、その場合でも、個々の構成員の思想や信条からそうなるというわけではなく、「そういうものだ」からそうなり、いわばその集団の共有の「自我」が決定しているのだとでもいえるような状態になる。「主君の恥は家臣の恥」という感じで。そしてそこに破壊的な「意地」が起こる。

 もちろん、現代の日本で、そうした蟻塚的な部分をなくしてしまったら共同体としてはかなり破壊的な様相を呈することになるのではないかと思う。それまで機嫌よく歩いていたムカデが自分の足を意識するようなもので、おそらく歩くことができなくなる方がほとんどなのではないだろうか。ある部分、そうしたことは避けられないのではないかとも思うが、そこになんらかうまいやり方はないものかともいろいろ考えたりもする。

 意識的にものごとを考えることのできるような魂の力を育てること。シュタイナー教育は本来そうしたことに大きな力をもっているように思う。しかし、日本で受容されようとしているそれは、逆の要素さえ強くもっている。それは「日本人の心理構造」ゆえに、仕方のない部分もあるのだけれどそうしたことにも、もっと意識的な取り組みがされるのが望ましいのではないか。

 

 

 

NIFTYネットワークコミュニティ研究会

「電縁交響主義・ネットワークコミュニティの出現」

(NTT出版/1997.11.25)


(1998.1.27)

 NTT出版からは、特に「情報」をテーマとしたさまざまなアプローチなどについての出版物がいろいろでていて、それに関してはぼくの発想法の源泉のひとつでもある松岡正剛が関わっているものが多いのですが、この「電縁交響主義」もそのひとつです。タイトルなどからわかるように、これはNIFTYSERVEやインターネットなどの現状とその可能性について、研究会やシンポジウム、インタビュー、アンケートなどが盛りだくさんに編集された報告書のような感じの本です。

 ぼくがNIFTYSERVEでパソ通を始めたのが、1991年の夏頃で、「神秘学遊戯団」の前身である「シュタイナー研究室」を開いたのがその年の秋。以後、昨年の春にNIFTYSERVEでの活動を止めて、すぐに現在のようにインターネットでの活動をはじめましたから、足掛け7年ほど、かなり密接にこうした電脳空間に関わっていることになります。

 この本のかなりの部分を占めているのは、NIFTYなどのパソコン通信がどのようなかたちで成立しているのか、またその現状のあり方はどうなのか、といった類の話を機軸にして、そこから考えられるさまざまな論点などについてのほんとうにたくさんの方々の「声」なのですけど、結局そこでなにが最もキーになるのかといえば、やはりそこに参加する人の「質」の問題ではないかとぼくは考えています。

 これまでの共同体のあり方とは「場」は確かに異なっていますし、「場」が異なる以上、そこでのコミュニケーションのあり方は必然的にその「場」に応じたものになってくるわけなのですが、そこでは、容易に「フレーミング」などが起こるように、参加する人の「質」そのものが増幅されたかたちで顕現することになります。「顔」が見えないことを利用して言いたい放題を言う人がいたり、ふだんはものが言えないような人でも、発言の機会が持てたり、これまでは狭い範囲でしか公開されたなった類の情報が非常に簡単に公開できる機会を持てたりもするように、基本的にはその人の「質」の部分が新たなコミュニケーション手段によってどう表現されるようになるかということが重要なのだと思います。

 ですから、インターネットという道具があっても、受信しようとする情報への態度や発信する情報の「質」を有する人が問題ですからそれがないとすれば、何の意味ももたないのですから、これからはますます個々人の真の意味での「質」が問われてくるのだということができるのではないかと思うのです。「電脳」ということのあれこれよりも、それに関わる「人」の問題だということです。

 さて、本書で面白いなと思った論が2つありますが、やはり、中村雄二郎と松岡正剛でした。そのなかから興味深い観点を少しご紹介します。

 まずは、中村雄二郎の「新しいストア主義の招来」という観点です。

インターネットに象徴されるデジタル・コミュニケーションの急速な拡大のなかで、少し前から気になっているのは、「これからの時代はどうなるのか」ということである。これは軽々に断じえない問題だが、私のうちでしだいに見えてきたのは次のような展望である。すなわち、これからは「新しいストア主義」が招来するのではないだろうか。

<ストア主義>とは、歴史的には古代世界が崩壊してから中世になる前のヘレニズム時代にあらわれた思想である。この時代、人間はポリス(都市国家)の支配から逃れて<広大な世界のなかに投げ出された個人>になった。人びとは、たしかに一面では世界市民として国境や共同体から解放されたものの、同時に他面では自己をささえてくれる基盤を失い、ばらばらな個人になってしまった。

この時代に台頭したストア主義は、実際に非常に個人主義的な思想であった。<ストイッ>クという言葉のとおり、それは倫理的には克己や禁欲によって感情にとらわれず運命を感受する立場である。これは、ポリスの崩壊によって世界に投げ出された人びとが、わが身を守るために選んだ生き方であった。おのれを守るために、よけいなもののなるべく避けて、自分の思考や行動をかぎっていくという態度もそこから出てくる。しかしこのような消極的な思考はストア主義の一方の面にすぎない。もう一方でストア主義者たちは、自然界や宇宙にある自然の諸現象のあいだの相互的なつながりに強い関心を持つのである。共同体やポリスから解放されたとき、最後に人びとのよりどころとなったのが「宇宙的共感」というスケールの大きな思想であった。ストア主義者たちは、新しく拓けた広大な世界のなかで、自然や宇宙に共感をもちながら、個人としての生き方をさぐっていった。そしてもっぱら、自然とどのように共生すればよいかを考え、その過程で美を発見していくのである。ここでいう美とは、真であると同時に生命である。その考え方は、最後には理性や神につながっていくものであった。

(P344-345/中村雄二郎「デジタルコミュニケーションからの発見」)

 これは、ぼくがイメージしていた観点を非常にうまく表現してくれているなあと感心させられました。この観点からわかるのは、意外にこうしたあり方というのはシュタイナーの神秘学の観点と密接にリンクする可能性をもつのではないかということです。つまり、「自我」の問題です。これについては、またあらためて考え直してみようと思っています。

 さて続いては、松岡正剛のまさに「編集」的な観点です。 

私の仕事は編集し続けることである。生命に学び、歴史を展き、文化に遊びつつ、そこかしこに潜伏し、また顕在する「意味の関係」に注目し、これらをつなぐことをおもしろがってきた。これが編集をとおしてやってきたことだった。そして、その当初から次のような確信をもってきた。「引用」と「思考」と「発見」は分割不可能な行為であるということだ。引用と思考と発見が分割不可能であるということは、認識のスタートが切られた瞬間から表現が一応のピリオドを打つまで、また、そのように表現された内容に新たに摂してから次の認識や表現や行動をとるまで、そこに流れていた情報や知識を、「ここからここまでが認識」「ここから先が表現」というふうに分けることはできないということである。

もうひとつ確信してきたことがある。それは世界に漂流し、あるいは貯蔵されている情報や知識はどこかでかならずつながっていて、人びとはときにはそのメタプログラムの流れに入り、ときには枝葉のバラエティに入りながら、その交信状態にいちいち注目し、その交信記録を再表現するゲームを中断しなかったということである。(中略)

私は信じられないのだが、私がかかわった多くの知識人たちは、いま自分が読んでいる本を白状することはおろか、自分の読書歴すらあかそうとはしないものである。かつて「本棚拝見」のたぐいの企画をたてたとき、じつに七割近い知識人がこれを拒否してきたことにも驚いた。私はといえば、『遊』という雑誌を創刊した当初から、自分のスタッフにはもちろんのこと、仕事のかかわりのあるすべての人々に私の書斎を開放するようにした。もっともこの特典を最大に活用したのは荒俣宏だけで、彼だけが私の書斎のリストをつくるという目的で、その書棚のネットワークを解析してみせたのである。それはともかくとして、ここに「知識」というものの閉鎖性が立ちはだかることは確実である。だれもが<完成品>で勝負したいのだ。その途中を明らかにするなんて、マイケル・ジョイスのようなハイパーテクスト作家やインターネットに短編を発表するのが好きなスティーヴン・キングならいざしらず、できれば御免こうむりたいものなのである。

しかし、かつては『平家物語』や『太平記』は多くの語り部や琵琶法師が参加してつくっていたのである。またあるいは、ジェイムス・ジョイスは既存の知識や物語の枠組みやテクストをロラン・バルトは自分と他者とのテクストをまぜこぜにすることを、とっくに提案し、また実践してみせたのである。しかし、おおかたの世間では、「作者と知識」はしっかりパッケージして固定されたものであってほしかったのだ。

(P363-364/松岡正剛「電縁社会におけるロラン・バルトの末裔はハイパーリンクが好きなラディカル・エディターになれるのか」)

 インターネットをはじめてとてもうれしかったのは、これまでにほとんど閉じたイメージもあったアカデミックな世界が次第に開かれざるをえない環境を提供するのではないかということと、著作権というとをめぐる現代的な問題がもっと高次のレベルでの展開によって自ずと解消されるのではないかということです。そこでは、<完成品>や著者の権威が問題になるのではなく、あくまでも内容そのものかぎりなき編集であり変容が創造的に展開していく面白さこそが問題になるように思います。

 そうした可能性を考えるとき、近代の近代ゆえに閉塞せざるをえなかったような非創造性が解放されていくのではないかという期待を抱かせます。「作者と知識」ではなく、テーマは「宇宙的交感と愛と叡智」ということになるのではないかという気も(ちょっと大げさですが^^;)したりします。

 

 

 

藤沢令夫「プラトンの哲学」

(岩波新書537/1998.1.20発行)


(1998.1.29)

 岩波書店からプラトン全集がこの4月から刊行されるようです。編者は、この本の著者と、プラトンといえば必ずでてくる田中美知太郎。この「プラトンの哲学」を読みながらあらためて思ったのが、自分はプラトンの「ソクラテスの弁明」や「パイドン」などを読んだことはあるが、むしろプラトンについて語られたもののほうを多く読んでいて、そのイメージでプラトンの哲学を理解しているということ。そして、周知のことではあるのだけれど、プラトンの著作では、ソクラテスを主役とする対話編となっていて、その「対話」ということこそが重要になっているこということです。

プラトンはやがて人間の思考の本質を、魂の内なる対話と規定するようになる。「魂の内において魂が自分を相手に声を出さずに行なう対話(ディアロゴス)−−まさにこれがわれわれによって思考(ディアノイア)と呼ばれるようになったのだ。」(ソピステス)

そもそも言葉を語るということは、声を出して語る場合も心の内なる独語(「内心の声」)の場合も、その言葉を自分で聞くことでもあり、その言葉に他人が反応するのと同じように自分も反応することである。語り手が同時に聞き手でもあるという意味において、言葉(ロゴス)は本来的に対話的(ディアロゴス)的な本性−−これを「ロゴスのディアロゴス性」と呼ぼう−−を持っている。(P64)

 この「ロゴスのディアロゴス性」ということについては、かつて言語学、特に発話行為理論やコミュニケーション理論を学び始めた頃から特に意識していたことで、こうしたインターネットの世界での発言にしても、こうして書いていることそのものが、たとえ実際に対話になっていなくても、濃厚に「ディアロゴス性」を有しているのだということは常に意識していることでもあります。むしろ、インターネットの世界だからこそ、その性格が単なる著作のなかでの発言よりも対話を内包したものであることが非常に重要になってくるように思います。

 さて、最初の「プラトン哲学」についての理解のあり方についてですが、この本を読みながら、自分がいかに「プラトン哲学」を○○○の解釈する「プラトン哲学」とすり替えていたかということを反省させられていました。

 また、だからこそ、「知を愛する」ものである哲学の原点でもあるこのプラトンの哲学をあらためて理解する必要性に駆られざるを得ませんでした。この本は、そうした「プラトン哲学」の基本中の基本を○○○のの解釈する「プラトン哲学」というあり方ではなく、「プラトン哲学」そのものから「プラトン哲学」の提示している重要な観点を認識させてくれるとても素晴らしい、しかもコンパクトな著作だと思いました。

 なお、本書の紹介に代えて、この「知を愛する」ものである哲学の「知」についての部分を。 

アリストテレスがやったように、「知」のあり方、働き方の諸相ないし諸局面を概念的・言葉的に区別するということも、それはそれとして意味のある仕事である。ただそのように諸相・諸局面(観想=理論知、行為知、製作知といった)に応じて区別されたかたちでの「知」が「知」の最終的な姿であると思いこむ習慣にとらわれると、大切なことが見落とされてしまうだろう。そういうレベルに安んじてとどまる怠惰を斥けて、「知」を「知」そのものとしてとらえる姿勢を堅持せよというのが、プラトンが理解したソクラテスの要請であった。

きびしい自然の中に放置された人間が、その自然のあり方や秩序(気候の推移、地形など)を懸命に「知る」(T知識Uとして)ことは、まったくそのまま、その自然に対してどのように対処し行動すべきかを「知る」(T行為知Uとして)ことにほかならないし、その対処・行動のなかには当然、T技術知Uによって道具や物を作ることも含まれる。ソクラテスの要請は、「知」をどんな言葉で表わすにしても、根元にあるこの「知」の原点をつねに踏まえてれ、ということである。(略)

もちろん、言われるような意味で例えば「正」をほんとうに「知った」完全無欠の正義の人は、この世は、この世に存在しないだろう。だからこそソクラテスは、「本当の知者は神だけ」と言い、まさにそのことを心底から知った自分の知を、「人間なみの知」と呼んだのである。しかし、彼が「人間なみ以上の知」と呼んだソフィストたちの知と対称的に、この「人間なみの知」はかえって、この世だけのT知Uの思いこみの停滞と妥協を振り返った「神的な知」への希求の道を、プラトンを通じて、切り拓いたといえる。(P48-49)

 現代の主知主義的な教育という場合の「知」は、ここでいう「知」とはまったく関係のない「知」です。むしろ、主知主義的な教育に「知」が欠如していることこそが問題なのとだということがいえます。

 答えの決まっている自動販売機のような知識だけを問題とする偏差値教育にはまさにプラトンのいうような「知」が欠如しているのです。しかも、その欠如していることに気づいていないことこそが問題なのです。

 こうしたテーマをはじめとして、「哲学」の原点に立ち返るために本書は格好の一冊ではないでしょうか。

 


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