風の本棚10

(97/11.21-98/1.5)


■ヨースタイン・ゴルデル「鏡の中、神秘の国へ」

■アーサー・ザイエンス「光と視覚の科学」

■加藤尚武「20世紀の思想/マルクスからデリダへ」

■坂口ふみ「<個>の誕生/キリスト教理をつくった人びと」

■黒鉄ヒロシ「坂本龍馬」

■小林俊明「西田幾多郎・他性の文体」

■オルガ・カリティディ「ベロボディアの輪」

■門脇佳吉「日本の宗教とキリストの道」

■ルドルフ・シュタイナー「ヨハネ福音書講義」

■田中優子「江戸の音」


 

ヨースタイン・ゴルデル「鏡の中、神秘の国へ」

(NHK出版/1997.11.21)


(1997/11/21)

 

ぼくたちは、すべてを鏡に映して見る。いまあなたは、鏡の向こう側をちょっとだけのぞくことを許された。でも、鏡の裏にぬってあるものをすっかりはがして、すきとおるガラスにしてしまうわけにいかない。もしそうすれば、あなたには、むこう側が見えるようになるけど、あなた自身の姿は見えなくなる(P181)

 「ソフィーの世界」を書いたノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデルの新刊「鏡の中、神秘の国へ」がでました。病気で死を迎えようとしている少女セリシエと天使アリエルとの会話を中心とした話で、人間と天使という異なった存在の違いを描き出しながら、人の生と死の問題について深く思索を深めることのできる内容になっています。

 「ベルリン天使の詩」という映画がありました。恋をしてしまった天使が堕天使になって人間になる話でした。天使の世界はモノクロームで描かれ、人間の世界はカラーで描かれていました。その違いがこの「鏡の中、神秘の国へ」でもとても興味深く描かれています。「ソフィーの世界」でもそうでしたが、ヨースタイン・ゴルデルは哲学のテーマを物語のかたちにして描くのを得意としているようですね。

 さて、その他の内容は実際に読んでいただくこととして、上記の引用部分について、少し考えてみたいと思います。

 目は自分自身を見ることはできません。鏡の向こうを見ようとすえば、鏡は鏡でなくなってしまいます。半分だけ透き通って半分だけ自分を映しているような状態がありますが、そういう状態が鏡の向こうをみるぎりぎりのところなのかもしれません。

宇宙は、立ち上がって、『わたしはわたしだ』なんて言うことはできない。宇宙がそうするには、人間の助けがいる。(P140)

 人間は、『わたしはわたしだ』という自我を持っています。しかし、自我を持たない存在は『わたしはわたしだ』ということができません。鏡は自分自身を『わたしはわたしだ』ということはできず、鏡は人間が自分自身を映して『わたしが映っている』と言います。しかしたとえば巫女やシャーマンのような存在は、ある意味で、自分自身を半透明の鏡のような存在にしているといえます。鏡の向こう側にある存在をかいま見えるようにすると同時に、こちらの世界をもそこに映しているのです。こちらの世界を映すということは、この世界で現象するということです。しかし、その場所は、夢と現のあわいにしかないものです。

すべての創造物は、一枚の鏡なんだよ、セリシエ。世界はこぞってなにかをぼんやりと映しているんだ。(P142)

 世界を見ることを、『わたしが見る』ということだけではなく、『わたしを使って見ている』というふうに発想することもできます。『わたしはわたし』なのだけれど、その『わたし』はもっと大きな『わたし』の使者でもあるというわけです。

あなたたちは、天使がまるごと体ですることを、なにもかも思考の中でするんだ。(P140)

 これは、「自由の哲学」とも通じてくるテーマではないかと思います。もちろん、その「思考」は脳に結びついた思考ではなく、直観的思考のことなのですけど。

 そして、人間は天使とは異なり、人間がその「思考」を持ちうるがゆえに、「自由」の可能性をももっているのだといえます。さらに、人間は、この肉体をもっていて、それは地球の一部でもあるがゆえに、肉体をもたない天使にはない可能性も持っているのだといえます。

 そういうことをいろいろと考えながら読むことのできる、ヨースタイン・ゴルデルの新刊「鏡の中、神秘の国へ」をご紹介しました。

 

 

 

アーサー・ザイエンス

光と視覚の科学/神話・哲学・芸術と現代科学の融合

 (林大訳/白揚社/1997.9.25)


(1997/11/22)

 

 アインシュタインは光について次のように言っています。

50年にわたって意識的に考え続けてきたが、「光とは何か」という問いへの答えに少しも近づいていない。もちろん今日、恥知らずな連中はみな答えを知っているつもりでいるが、それは自分を欺いているのだ。

 まさにその通りで、光についてわかっていること、わかっていると思いこんでいることは、科学的なその現象面、実用面でのことにすぎないのですが、それですべてわかった気になっているというのはどうでしょうか。

 色彩論にしても、やっと近年になってゲーテのそれが少しは評価されるようになっているわけですが、それにもかかわらずまだ基本的にはニュートンの光の波動説による色と波長の関連が当然視されているといってもいいようです。

 この本でももちろん、ゲーテの営為を「私たちを力学的電気的な光のイメージから引き離し、再生した精神的な光の概念に向かわせるものである」としています。

 もちろん、ここには、ゲーテの自然科学論文を最初に総合的に検討したルドルフ・シュタイナーについても紹介されています。

 ゲーテとシュタイナーによって、大きな概念上のテーマが私たちの光の伝記に導入された。これまで話の筋は、古代の神話から現代の科学的な光のイメージにスムースに流れてきた。ところが、この二人は神話的なものの再生を告げる。二人とも近代の人間であり、二人とも科学を理解していたが、それでもこの二人は、光の霊的諸次元を含み込むよう科学を変革しようと努めた。

 光を見るためには、私たちはその内に光を持っていなければなりません。その内なる光についてもアプローチが必要であることは当然だといえるのですが通常、光に関するものといえば、いわゆる自然科学的なアプローチだけからのものがあまりに多いようです。

 しかし、本書は、「神話・哲学・芸術と現代科学の融合」ということでもわかるように光をまさに総合的に見ていこうとする試みであるといえますし、こうした試みがなされたことはこれまでにはほとんどなかったのではないでしょうか。こうした試みが、光にかぎらずもっと行なわれる必要があるのではないでしょうか。この本は、ぼくにとっては、今年読んだ本のなかでもこれからも長く愛読書になっていくであろう抜群に素晴らしいものの一冊です。

 最後に、本書のしめくくりの部分を。

 何千年にもわたって、さまざまな文化が無数の光のイメージを受け入れては捨ててきた。同じように私たちは一生の間に、次々と現われる光の理解を受け入れては捨ててきた。研究、芸術実践、静かな瞑想を通じてつかみにくい光の本質は私たちの心の眼の中で絶えず自らを創り直し、どの世代にも新たなエピファニーを提示する。千個の眼で見れば、光はついには私たちが作った安息所で私たちとともに休息するだろう。光を見るというのは、見えないものを見えるものの中に見るというメタファー、私たちの惑星とあらゆる存在を一つにまとめあげている脆い衣を看破するということのメタファーである。ひとたび私たちが光を見ることを学べば、他のことは自ずとついてくるにちがいない。(P399)

 

 

 加藤尚武「20世紀の思想/マルクスからデリダへ」

 (PHP新書/1997.12.5)


(1997/12/3)

 

 タイトルに「20世紀の思想」とある通り、この本は20世紀の思想をかいつまんで概観するのにとても役立つコンパクトな、しかもすぐれた本になっていると思います。

 ここで「20世紀の(及びその源流になっている)思想」としてとりあげられているのは、J.S.ミル、マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール、サルトル、レヴィナス、デリダ、レヴィ=ストロース、フーコー、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クーン、ロールズ、ハバーマス、西田幾多郎、丸山眞男、クワイン、ガダマーですけど、ぼくにとっては、このなかで、レヴィナス、ロールズ、丸山眞男以外はかなり懐かしいというか、もう20年近く前にわかるわからないはともかく、思考訓練をさせていただいた思想です。

 ぼくが哲学で最初にふれたのは、サルトルですけど、それはあまりどうでもよくて、どきっとさせられたのはやはりニーチェで、その後、ちょうど大修館から全集がではじめたウィトゲンシュタインの「語り得ぬものは沈黙せねばならない」や「言語ゲーム」に影響を受けながらその当時一番旬でカッコ良かったデリダなどをちょこちょことかじったりもしていました。

 ちょうどその当時は、クーンのパラダイムという概念が話題を呼んでましたし、ポパーやアルバートなどの批判的合理主義とハーバーマスなどの批判理論の対決なども興味をもって調べてたりしました。そういえば、その頃、ベンヤミンの選集もかなりでるようになってました。また、日本では最近やっとその名が知られ始めた解釈学のガーダマーも、ヤウスやイーザーなどの文学的テクストの受容や作用といったテーマと関連して少しばかりかじりながら、その流れの中で、その後「薔薇の名前」で有名になったウンベルト・エーコなども少しながら読んでました。

 ・・・・なんだか、名前ばかり羅列してしまいましたが^^;、こうした思想については、もうかなりの間ふれることが少なくなっていました。しかし、「ソフィーの世界」などの影響か、哲学がまた読まれはじめ、こうした思想が以前よりは身近に紹介されるようになってきていますし、まさに本書のタイトルの「20世紀の思想」にもみられるように、21世紀を身近に控えた時代において、現代の思想の潮流を理解することで、その思想を超えていかなければならない時代に来ていると思います。

 二十世紀の思想は、それまでの時代と違っている。思想と呼ばれるものが哲学にとどまらず、自然科学や社会学、さらに文化人類学にまで及んでいる。自然科学のアインシュタイン、社会科学のマックス・ウェーバー、文化人類学のレヴィ=ストロースのことを考えれば、哲学が思想を独占する時代が終わっていることがわかるだろう。いま哲学を研究する人は、自然科学の概略ぐらいは掴んでおく必要があり、自然科学を学んでいる研究者も、人文科学は多少は覗いておかなければならない。しかし、これは専門化が進んでいる現状では、実際問題としてなかなか難しい。人間の知識を全体として見通しの利くものにするのが哲学の役割であるが、とてもこの役割は果たしにくくなっている。さらに、東洋の思想と西洋の思想はどのような関係にあって、もっと高い観点から見れば何が言えるかという問題がある。しかし、この点については、二十世紀の思想は十分な準備をしているとは言えない。二十世紀の思想は圧倒的に欧米が中心になって動いている。グローバルな視点から世界中の思想を見直すという作業は、二十一世紀を待たなければならない。

 最近、こうしたかつてふれた思想をあらためて読みなおしてみると、あらためて、シュタイナーの思想が、いかにそれらすべてを包括しながら、はるか未来を準備するために切実なものであるかを感じています。「20世紀の思想」は、概観すればするほど混沌としている印象があります。その難解さや多様性に反比例するように、その内実はかなり貧しいようにも思います。しかし、その貧しさというのは、とても切実なものでもありますし、必要なものであるともいえるのではないかと思います。唯物論がある意味で、自由を準備したように。その貧しさからしか、未来は展開しえないのかもしれません。そして、そうした貧しさの中でこそ、シュタイナーの思想が近い未来において輝きを放ちはじめるのではないでしょうか。

 シュタイナーの思想がいかに重要なものかを真に知るために、こうした20世紀の思想との対決は不可避のように思いますし、最近は、邦訳でもそうしたことがかなり概観できるようになっていますから、とりあえずは、こうした新書版でそれをざっと眺めてみるのも有益だと思います。

 また、ついでにいうと、少し前から講談社からシリーズでだされている「現代思想の冒険者たち」も興味をひかれたものをいくつか読んでみられるのもかなり参考になるのではないでしょうか。そのシリーズに名を連ねている人の幾人かはこれまで一般にはあまりなじみのなかった哲学者でもありますし、これだけ「現代思想」を概観できるシリーズも珍しいのではないかと思います。

 ちなみに、このシリーズはまだ刊行途中ですが、次の30冊で構成されています。 

00 現代思想の源流 マルクス/ニーチェ/フロイト/フッサール

01 ジンメル 02 ホワイトヘッド 03 ユング 04 カフカ

05 バシュラール 06 ルカーチ 07 ウィトゲンシュタイン

08 ハイデガー 09 ベンヤミン 10 バフチン 11 バタイユ

12 ガダマー 13 ラカン 14 ポパー 15 アドルノ

16 レヴィナス 17 アレント 18 メルロ=ポンティ

19 クワイン 20 レヴィ=ストロース 21 バルト

22 アルチュセール 23 ロールズ 24 クーン 25 ドゥルーズ

26 フーコー 27 ハーバーマス 28 デリダ 29 エーコ

30 クリステヴァ

 

 

 

坂口ふみ

<個>の誕生/キリスト教理をつくった人びと

 (岩波書店/1996.3.8)


(1997/12/7)

 

 日本に「個」という概念が導入というか輸入されたのは、明治以降のことだともいわれたりしますし、未だに、日本人には「個」が希薄だともいわれています。西欧にしても、人間の「個としての個」の自覚は近代以降のものだと考えられてもいるのですが、ふつうは個の自覚がないといわれるギリシアの哲学や思想にもあきらかに「個としての個」の洞察があるのだけれども、それは「普遍」への方向付けによってのものであり、それゆえにヨーロッパ合理主義、学問が可能になったと著者は言います。

 それに対する「個としての個」へのもっぱらな眼ざしが、思想の表舞台で、普遍をめざす意識的な対抗として先鋭に自らを形づくっていったのは、けっして近代ではなかった。そのはるか以前、西暦紀元のはじめから六世紀ぐらいまでの哲学的努力は、ひたすらそれをめざしていた。それを導いたのは、キリスト教という当時の革新的な宗教であった。

 しかし、「個」とは「個としての個」、またその自覚とはいったいどういうことなのだろうか。そのことは、ずっとぼくの主要な関心事でもあり続けています。

 「個としての個」は、ほんとうは「個」とは言えないだろう。ラテン語で「インディヴィドゥウム」と呼ばれ、日本語で「個」と翻訳されることばは、直訳すれば「不可分なもの」という意味だが、これはじつは単に「普遍」でないというネガティブな規定でしかない。つまり、ソクラテスならソクラテスそのものを語ることばがあったとして、そのことばは、他の同類なものにわかち持たれないというだけの意味である。(それに対し「人間」は他の人間たちにわかち持たれうる。)だから、それは個が個であることのポジティブな規定ではない。もちろん、ことばというものは共通なものを語るのが本領だから、もともと、個としての個などというものはことばでは語れるはずもないものである。この時代の人びとはそれをかりにヒュポタシスとか、ペルソナとか名づけたのだった。私はその物語を書いてみたいと思った。これはジャンルの入りまじった書物になる。しいて分類すれば、エッセイのようなものだと思う。

 本書は、まさに「その物語」を興味深く描き出してくれています。しかも、学問的というよりは、「ジャンルの入りまじった」「エッセイ」のようなかたちで記されたもので、ぼくにとっては、だからこそとても印象深いものになっています。

 ぼくはキリスト教徒ではないし、まして仏教も神道も信仰してはいません。それは、死後墓などをつくる意志などないことにも表われているのですが、そうしたきわめて表面的な信仰といったものとはまったく関係ないところで、イエス・キリストについて深い関心を寄せているといえます。それは、宗派的な意味でのキリスト教ではなく、シュタイナーのキリスト論の描き出しているイエス・キリスト像に大きく影響を受けているのだともいえるようにも思います。シュタイナーのキリスト論を含んで描き出される神秘学は、必然的に、いまぼくのいる日本についてもとらえかえすことを求めるものだとぼくは考えていて、そのひとつのキーとなる概念が「個」ということにほかなりません。そして、その「個」についての洞察は、キリスト教を理解することなくしては不可能なのではないかということも、以前から少しずつ考えるようになっていました。

 ですから、かなり前に本書がでたときからずっと気になってはいたのですが、なにせ定価7,500円ということで手が出ませんでした。しかし先日図書館で思いがけず本書を見つけたものですから、さっそく借りて読んでみたところ、その内容がぼくの探していた内容にかなり近いものだったので、ここにご紹介してみたいと思いました。

 関係性を存在の根底に置く考えは、仏教の思想の中心にもある。すべての存在は縁起の法の結節点であって、実体はなく、我もなく、他もないというのがその思想の基本であろう。しかし、キリスト教は、けっして我や他者を消しつくることはなく、さらにそこで愛という語を使い続け、いかに遠いとはいっても、友愛や親子の愛や、恋愛とのアナロジーを否定しなかった。そしてイエスという、「範型的に愛する人」の具体的なおもかげを教えの中心から消し去ることをも、決して許さなかった。おそらくそれが、キリスト教に対する人々の評価を分けるところだろう。私は個人的には、この思想を、その多くの欠点や危険にもかかわらず、好んでいる。人は結局、人をもっとも近く感じ、もっとも関心を持ち、もっとも愛するものであり、人との関わりを他のものとの関わりに先行するものと捉えることは正しいことのように思えるからだ。冷徹なスコラ哲学の鉄のような体系の中心に、そして恐るべき階級組織を持つ教会の中心に、ひいては近代のさまざまな抽象化する学の根底にも、このすべてを相対化する生身の具体的な「愛する人」が座っていることは、逆説でもあり、救いのようでもあり、悲劇のようでもある。しかし、ヨーロッパ・キリスト教世界の人々は、中世・近代・現代を問わずどこかでそのことを意識している場合が多い。そしてそのようなあらゆる文明・文化の産物を相対化する意識は、人間にとって好ましいものであると思われる。その相対化する意識の中心をなすのは、イエスであり、彼の説く隣人への愛であり、隣人としての人である。そしてそれがもう一段抽象化されたものが、「個としての存在」の概念であると思われる。((P26-27)

 ここでなされている仏教との比較はとても興味深いものです。仏教の三宝印と呼ばれているのは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」で、あらゆる固定化を避けながらその彼岸に「涅槃」を設定しています。そこでは「無我」を基本にしているがゆえに、「愛」をも執着として否定し去らなければならなくなっています。それは、「タンハー」(渇愛)とでも呼ばれるものです。キリスト教では、「愛」がその中核にあります。もちろん、その愛は「隣人への愛、神への愛」ですから、仏教のいう「愛」と同一視することはできませんが、その「愛」があるゆえに、矛盾するあり方であるとはいえ「個としての存在」の概念がでてきているのだといえます。それは、現実に生じているさまざまな否定的な事件などはあるとしても、血縁や民族を超えた「文明・文化の産物を相対化」をも可能にするものです。

 大本教を創設しながら、宗教をほろぶべきものだと言っていた出口王仁三郎は、宗教の最後に残るものはキリスト教だとも言っていましたが、おそらくそれは、歴史に見えるさまざまな否定的要素にも関わらず、そこにはあらゆる可能性の種が植えられていることを意味しているのだと思います。

 こうした興味深い「<個>の誕生」についての観点を本書は生きたことばで、とても興味深く描き出してくれています。なお、このなかからいくつかのテーマを「トポスノート」でもとりあげてみたいと思っているところです。

  

 

黒鉄ヒロシ「坂本龍馬」


(PHP/1997.12.22)

(1997/12/13)

 ヒトを観察する際に用いる物差しの種類は多いが、目盛りが「価値観」だと判り易い。権力型か、経済型か、芸術型か、理論型か、宗教型か、社会型か。何れにせよひとつの型に一元論的に大きく傾いでいる御仁は端迷惑の場合が多い。

さて、主人公の龍馬さんにも価値観の物差しを当ててみる。

権力型か。皆無とは言えないだろうが、新政府の名簿から自分を外したくらいだから、パス。

経済型か。世界の海援隊として貿易をするつもりだったようだが、専らの目的は金銭そのものではなかったであろう。一応はチェック。

芸術型か。発想の変化と飛躍ぶりから、これは○。

理論型か。小龍や海舟の先進的な意見を聞いて、「これは」と思えば屈託なくその理論の上に座ってしまう。○。

宗教型か。反迷信的、反宗教的である。×。

社会型か。ボランティアに汗するタイプとも思えないが、俯瞰的には天下万民の為を考えるところもあるので、チェック。

以上の結果から、龍馬さんの価値観はバランスが取れていることが判る。龍馬さんの行動範囲が広かった理由は、宗教型を除いては、相手のキャラクターが何れの価値観の上に立っていても対応できたからであろう。閉塞の時代に余裕を持って対処できるのは、多元的なタイプであることを、龍馬さんは教えてくれる。(P6-7)

 明治維新関係でぼくがとても気に入っている人物はなんといっても勝海舟と坂本龍馬なのですが、偶然見つけたのがこの本で、ひさびさ坂本龍馬の魅力にふれることができました。先日、図書館でとくに明治維新後にもフォーカスした勝海舟についての本を見つけたところなのですが、どうもこういう時期というのはあるものですね。それに、先日、西郷隆盛の故郷の鹿児島にでかけたところなのでなおさら、そうした人物の行動や視点からなにかを学べということかもしれないと思っているところです。ちなみに、ぼくは高知県生まれなので、坂本龍馬と同じで、水瓶座なので、勝海舟と同じです(^^)。

 この引用箇所は、とてもなるほどとうなずける視点だと思って引用してみました。もちろん、この本の著者は黒鉄ヒロシで、当然この本は全編マンガですので、念のため。

 現代はまさに「閉塞の時代」。日本ももちろんのことですが、地球全体がそういう時代を迎えています。ですから、あらためて、坂本龍馬のそうした「多元的」な在り方をときおりは見直してみるのも有効なのではないかと思います。

 現代は、いろんな意味で専門化がすすみすぎていていますから、「価値観」もあまりに偏ってしまうと、視野を狭くしてしまいますし、全体を見る視点がなければ、閉塞状況をますます進めてしまうことになります。

あの時代で坂本龍馬と勝海舟が光っているのは、あの人間的な魅力と同時にセクト主義や狭量による破壊的な在り方などからかぎりなく自由だったことです。そしてその自由はもちろん、その時代の在り方、制約の上で発揮された自由な発想であり行動です。現代においても、その制約がさまざまにあったとしても、いやそういう制約があるからこそ、そこに自由が可能になるのだといえます。

 「多元的」な在り方といえば、シュタイナーほど多元的な方もまず見あたらないのではないかと思います。バラバラ事件を起こしてしまっている現代であるからこそ、その総合的な認識と実践の可能性から多くを学ぶことが必要だと思うのです。

 さて、これは余談ですが、坂本龍馬は子どもの頃、他の子どもたちにくらべ、泣き虫で弱虫で知的にもかなり遅れていたようです。それが剣の道によって行動力を身につけ、そして生きた知識を少しずつ身につけ視野をひろげながら、船中八策のようなその後の日本の進路の基礎をつくるまでに至ります。

 坂本龍馬がなぜ子どもの頃そうだったのかということは、人間の成長に関する重要な観点を提供してくれているように思います。それを一般化することはできないでしょうが、たとえば福沢諭吉なども子どもは小さい頃は、文字など読ませずに、犬猫のように育てよというようなことを言っていたように、そこには早期知的教育への危険性などへの示唆もふくまれているのではないかと思います。

 シュタイナーは、歴史を学ぶには、人物をたどるのがいいということを言っていますが、まさにそうですね。受験勉強でただただ年号や項目を暗記するだけのようなことが、いかにつまらないことかということもわかります。なにかきっかけがあれば、歴史上の人物のストーリーにつきあってみるのもいろいろなことを感じ、考えることができて有効だと思います。少し前にも、ジンギスカンを通してモンゴルの歴史を見ていたところなのですがそうした方法で生きた歴史、生きた思考が自分のなかにひろがるのがわかって、とても充実した時間をすごすことができました。

 

 

 

小林俊明「西田幾多郎・他性の文体」


(太田出版/1997.12.18発行)

(1997/12/21)

 

 西田幾多郎の哲学には以前からずっと興味をひかれていていて、「西田幾多郎」の名前を見つけたら、一応チェックすることにしています。今回も、書店で一応その内容の概略を見ていたところ、これまでのアプローチの仕方とは少しばかり角度が違っていて、かなり刺激的なテーマももりこまれているようなので早速読んでみることにしたのですが、思ったとおり、こうした書物にはめずらしく一気読みさせられてしまいました。

 この本には、「批評空間」という雑誌に、1996年から1997年にかけて連載された「西田幾多郎」についての論文に、1995年に同じ雑誌に掲載された「キルケゴール」についての論文を加えたものが収められています。この雑誌は、浅田彰、柄谷行人編集によるもので、書店でちらりとながめる以外読んだことがないのだけれど、こうした論文も収められているのだとしたら、今後は要チェックにしたいと思います。

 さて、本書は、西田幾多郎にまったく興味を持たれないかたには、少し読みにくいところもあるとは思うのですが、最初に西田幾多郎の哲学論文の文体についての話から始まります。その文体は、極めて「奇怪」だということは確かで、なぜそうした文体にならざるをえないのかが、説得力のある仕方で坦々と論じられていく仕方は、とても納得のいくものでした。

 たとえば、シュタイナーの著書や講義集を読むときにも、その文体や語り口には、その内容にふさわしい様式を感じ取ることができるのですが、西田幾多郎の場合、とくに、それが他のどんな文体にも似ていないような、小林秀雄にいわせれば「日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれていないような奇怪なシステム」ということになるような文体で書かれていて、そういわれればだれでもが、なるほどと思ってしまうようなそんな文体になっています。

 もちろん、そうした文体についての論述は、言語学や文体論、修辞論へと向かうのではなく、第五章のタイトルが示すように「時間と他者」というテーマにまで至るような刺激的な導入部になっています。そして、それをシュタイナーの「自由の哲学」をはじめとした哲学的著作を念頭に置きながら読むと、とても興味深い内容でもあります。

 表現のあり方や姿勢、それがはらむ政治的言動の問題性、そして時間論、他者という問題など、どれをとっても、切実なテーマばかりです。

 しかし、その内容についてここでわかりやすくご紹介することは、かなり難しいと思われますので、そのいくつかのテーマに関しては、「トポス・ノート」で少し書いて見たいと思っています。

 

 

オルガ・カリティディ「ベロボディアの輪」

(角川書店/1997/5/30)


(1997/12/22)

 

 この本は、かなり前、たぶん6月頃に読んだものなのですが、今年どんな本を読んだかを思い出していたところ、紹介済みだと思っていたのに、まだ紹介していないことに気づいたのと、なんらかのかたちで「精神科学と医学」とも関連してくるところもひょっとしたらあるのではないかと考え、一応簡単にご紹介しておこうと思いました。

 本書は、ロシアの精神科医である著者が、シベリアのアルタイ山に導かれ、そこで古代のシャーマニズムの伝統を継承している老シャーマン(ウマイ)と出会い、神秘的な体験をしたことについて書かれた実話で、とても読みやすいものなので、機会があれば読んでみて損はないと思います。

 自分自身やまわりにいる人間を見るがいい。みんなが四六時中やっている唯一のことはおのれの自己を作りだそうとすることじゃ。すべての人が絶えず変化成長する自分というこの存在に話しかけ、それを形に嵌めこもうとしているのじゃ。

 人が自己を形作る方法には三つの主要なやり方がある。頭の中で過去に問いかけ、おのれが生みだそうとしている自分の像に合わないものを変えたり、削ったりし、それを助長するものを拡大することによって過去を作り直すことが一つ。他方で、人々は未来についても考え、何をするか、自分がどのように見えるか、自分の持物は何か、他人にどのように受け入れられるか、といったことを絶えず思い浮かべる。

 人々がする第三のことは、自分たちを現在に結びつけることじゃ。自分が何者で何をしているかということについての他人の知覚を、いつも無意識のうちに自覚し、絶え間なくそれに反応しておるのじゃ。こうした反応のいくつかはおのれが抱いている自己の像を支持するが、それを打ち砕く反応もある。人々はある人間が自分に引きつけられ、他の人間がそうではないことに気づく。たいていの場合、自己の像を支えてくれない人々が身近にいると、それらの人々を嫌いになるということが起こる。逆にまわりの人々からの支えを体験すると、かれらを好きになるという感情を生み出す。人々はこのようにして自分自身を作り出すために過去、現在、未来を組み合わせるのじゃ。注意して見ておれば、どんな人間の中でもあらゆる状況でそれが起こっているのが分かるじゃろう。見回して見るがいい。多くの興味深い例に気づくはずじゃ。

 だが、人が自分をつくりあげる方法をあますところなく理解すれば、おぬしはすべてを自覚しながらそれから独立していられるもう一つの自己が存在していることに気づくようになるだろう。それがおぬしの慈愛の自己で、真の自由と魔術が始まる地点なのじゃ。それは偉大なる選択術の源だ。(P180-181)

 人は自分で自分をつくっている魔術師です。どんなに今の自分の気に入らない自分であったとしても、それは自分がそのかぎりない創造力でつくりだしたものだといえます。しかし、その魔術師は多くの場合、意識的な魔術ではなく、まったくの無意識の魔術を使うわけです。

 無意識だというのは、自己を直視することをしないで、その像をあまりにねじ曲げてかってにつくっているものだから、それに反するものを見せてくれる人や環境を認めようとはしないということです。ですから、そうした共感−反感図式のなかで、無意識のうちに、ともすれば自分を自分の課題とは反対の方向に創造するということを繰り返してしまうことになります。

 自由になるということは、自分の創造力に気づくことでもあります。自分がいま自分をどうやってつくりだしているのかをしっかり見ている自分に気づいて、その視点から、自分をまるで他の人を観察するかのように見ることができるということです。

 そのためには、まず今ここにいる自分ということを自覚することからはじめて自分の過去からもってきているさまざまなことや、自分がこれから未来へ持っていこうとしているさまざまなことをあらためて見通す作業からはじめなければなりません。運命を宿命としてそれに流されるものだとするのではなく、立命、つまり、自分の運命を形成している視点から自分をとらえることです。

 病気に対する視点も、そこに刻印されてる自分の隠された「創造力」を見いだすという視点からはじめる必要があるように思います。もちろん、それはたやすいことではありませんが、それをしないで、対症療法的な治療を繰り返しても、病気を生かすという視点はでてこないのではないかと思うのです。人生には無意味なことはないという視点からすれば、病気は自分になにかを気づかせてくれる重要なきっかけだともいえます。それで死ぬこともあるのでしょうが、それはそれで大切なプロセスだといえます。

 少し前に読んだ本なので、細部について思い出すことができないので、印象深く思った上記の引用の部分から思ったことを書いてみました。

 

 

 

門脇佳吉「日本の宗教とキリストの道」

(岩波書店/1997.12.5)


(1997/12/23)

 

 近代思想の根底にある心身二元論の影響を受け、キリスト教神学は「知」に偏ってしまった。近代のゆきづまりが明らかになったいま、本来のキリストの「行=道」へ戻るための助けとして、日本の古神道、日蓮、親鸞、道元などの「行」を学ぶ。『聖書』を読み直し、21世紀へむけて、新しいキリスト教を模索する意欲的な試み。

 というふうに扉で紹介されているように、著者は、「キリスト者」として西洋的キリスト教を日本の諸宗教を通じてより深めながら、日本人にふさわしい「キリストの道」を探究することを示唆しています。

 ここに書かれていることは、通常のキリスト教徒や仏教を含めて、信仰をもたれている方には、かなり思いきった試みでもあるのかもしれませんが、ここに盛られている内容は、「宗教」としてとりうる最善の道をきわめて正当なかたちで示唆しているもののように感じました。

 ですから、とくに、斬新な試みであるとは思えなかったものの、こうした試みによって、宗教それぞれの排他的セクト的なあり方から、それぞれの深みにある宗教性へのアプローチへという方向性が可能になってくるのではないかと、著者の試みには深く共鳴することができました。

 しかし、ぼくは、どうもいまだに「宗教くささ」というのが苦手で、この著書を読みながらも、その内容への共感と同時に、その宗教的な表現に対する違和感を感じ続けざるをえませんでした。その違和感ゆえに、こうしたことを理解しないでいることは自分の好き嫌いだけで、自分の認識を限界づけることになってしまいますので、あえて、最近は、こういう著作を含め、宗教的な著作にふれる機会をできるだけ多く持つようにしているのですが、やはり、特にキリスト教的な表現のトーンには、未だに違和感を消すことができないでいます。禅などからは、そういう違和感はまず感じないんですけど・・・。

 とはいっても、シュタイナーのキリスト観には、そういう違和感がまるでありません。やはり、そこには、宗教としての信仰によるキリスト教と神秘学的な認識に補完されたキリストの意味への洞察のあるあり方との違いがあるのだという気がします。

 キリスト認識は、表面上の宗派云々やさらに宗教という形式さえもはるかに超えたものであるわけで、「宗教」にこだわる必要はもはやないのではないかという感覚のほうが強いものですから、どうしても自分を「キリスト者」であるとか「○○教徒」であるということで規定してしまうことに違和感を感じているのだろうと自分では思っています。

 とはいうものの、本書は、宗教の相違ではなく、著者自身もキリストの道を、参禅などを通じても模索しているように宗教性の深みからキリストの道を歩むことを示唆しているものとして、非常に重要なものだということは確かです。そして、それをさらに深めるものとして、シュタイナーのキリスト観が非常に重要になってくるように思うのですが、いわゆる「信仰」からのアプローチとしては、困難なのかもしれません。

 さて、最後に、本書からとても重要だと思った部分を少し引用させていただくことにします。

 多くの人は、宗教体験を主観的な体験、つまり、主観の内で起こる心理現象と解釈していしまいます。そうではありません。そのような解釈をしている多くの宗教学者は、真の神体験をしたことがないと思われます。エリアーデは神が顕われてくると言っています。つまり、私たちの世界観の中に神が顕われてくるのではないのです。神は、そのようなものと全然関係ないところからバサッと直接的に顕われるのです。主観を超えた「真の実在」、神が私たちに顕現されるのです。これは神道とて同じです。一切に先行して「神との対面」が現存するのだと上田氏(引用者注/上田賢治氏)は言います。(略)

神は人間よりも、また天地万物よりも、先に存在します。そのような方が顕現することは、何よりも先行する第一次的な出来事なのです。人間の心理を遥かに超えた「広大無辺な方」が現われるのです。それは「いのちのふれあい」であると、上田氏は言います。私たちが自然の中に神を感じ取るのではないのです。そこを間違わないようにしなければなりません。ところがほとんどの人はそう考えてしまいます。(P21-22)

 キリスト教から日本人が学ぶ重要性は、まずはこの引用にある部分なのではないかと深く思いました。日本人は、自然そのものが神であると思いこみがちなのですが、「神」は、「人間よりも、また天地万物よりも、先に存在」する存在です。「存在です」というのも、変な表現なのですけど・・^^;。しかし、これだけではあまりにも通常のキリスト教的なバイアスがかかってしまうので、注意が必要です。それでは、神→人間、自然というような、一方通行の関係がイメージされてしまうからです。超越しながらも内在している、内在していながらも超越している、そうした観点などもなくてはならないのではないかと思うのですが、ここらへんは「顕教」的なアプローチとしては困難な部分ではないかと思います。

 中途半端な紹介ではありましたが、本書はおそらく日本のキリスト教徒の方にとっては必読書なのではないかと思いますし、そうでない方にとっても、理解の必要な部分なのではないかと思います。

 

 

 

ルドルフ・シュタイナー

「シュタイナー ヨハネ福音書講義」

(高橋巌訳/春秋社/1997.12.20)


(1997/12/28)

 

 シュタイナーのキリスト観についての主な講義には、福音書についての講義である本書の「ヨハネ福音書」のほかに、「ルカ福音書」「マタイ福音書」「マルコ福音書」「第五福音書」そして「イエスからキリストへ」「エーテル界へのキリストの出現」などがあるのですが、そのなかでもこの「ヨハネ福音書」は、もっとも基礎的かつ重要な講義だといえます。それがこれまで訳されていなかったということがおかしいくらいです。

 福音書の講義については、これまでにも「ルカ福音書」「マルコ福音書」と「第五福音書」(これは全部ではありません)が訳されていましたので、残るは「マタイ福音書」になります。また「イエスからキリストへ」と「エーテル界へのキリストの出現」についてはその部分的にほんの少しだけしか訳されていません。

 今回の「ヨハネ福音書」が訳されたおかげで、シュタイナーのキリスト観についての理解が少しは深まる可能性もあるのですがまだまだこれでは足りないなあというのが実感です。もっとも重要なものがあまりにも訳されていないのですから。

 さて、この講義がなされた基本的な姿勢は次のようなものです。

 霊界についてのなんらかの真理をこの古文献から得ようとするのではなく、現在の私たちが数学を、人類史の中で初めて、数学の特定分野を教示した古文献から離れても学ぶことができるように、私たちはどんな古文献からも離れて、霊界へ参入する可能性が存在していると言いたいのです。たとえば学校で初等幾何を学び始める子供たちは、ユークリッド幾何学のような、人類に最初に初等幾何を伝えた文献のことを、何も知らなくていいのです。けれども、幾何を学習したあとで、そのような古文献に接するときは、ますますその内容に驚嘆することができるでしょう。この例は、私たちが霊的生活に関わる真実を、霊的生活そのものから獲得できることを示しています。そのような真実を発見したあとで、ふたたびそれを歴史文献の中に見出すとき、私たちはその文献を本当に評価できるようになるのです。(P186)

 シュタイナーの講義を読み進み、ともに思索していくならば、「ヨハネ福音書」の言葉を通じて、「キリスト」の意味についてだれにとってもなおざりにすることのできない真実を感じ取ることができるのではないかと思います。シュタイナーも講義の最後に「この講義は(略)知的な理解力という廻り道を通って、感情に働きかけるために行われました」とあります。実際、この講義集はシュタイナーのほかの著作に多くふれている方にとってはそんなに難解で読みがたいものではありません。けれど、それだけに、それだからこそキリスト教という狭い枠にとらわれないでキリストの真実について深く魂に刻みつけることができる講義になっています。

 この講義での最重要のテーマは、「私である」と訳されている「Das Ich-Bin」です。「私である」とだけ日本語で読んでしまうとぴんとこないところがあるのですがそれは「私があるということ」あるいは「私であるということ」という意味で、まさに本来の「自我」そのものがキリストなのだということが繰り返し強調されています。

 一般に日本では、どうも「自我」というと否定的にとる傾向があるのですが、それは「キリスト」の真の意味と関連した「自我」についての無理解から来ているもののように思われます。

 その「自我」の意味は、東洋思想でいうところの梵我一如、つまりブラフマンはアートマンであるということに近いのではないかと思うのです。そしてそれはいきなり悟り云々の世界についていわれるのではなく、もっと人間の「個」にも関連した自我の意味との関連で説明されるわけです。

 地上に生じるべき地球の使命が、パレスチナの出来事と共に本当に始まっ

たのです。それ以前はすべてが準備でした。ナザレのイエスの肉体に宿ったキリストは、みずからをどのように呼べばよかったのでしょうか。キリストは自分のことを、自己意識的な自由な人間存在の賦与者であり、その偉大な賦活者である、と名乗らねばなりませんでした。この生きたキリストの教えを簡潔に言い表すとすれば、次のように言えるでしょう。−−地球は人間に完全な自己意識を、「私である」を与えるために存在している。それ以前のすべてはこの自己意識、この「私である」のための準備にすぎなかった。そしてキリストとはすべての人間が、それぞれ個的な存在として、「私である」を感じとることができるための衝動を与える者のことである。(P61-62)

 この「私である」というキリストについて理解しないままに、たとえば、自由への教育のためのシュタイナー教育を云々することはできないのだとさえいえますから、こうしたシュタイナーのキリスト観について深く感じ取ることは非常に意味深いものなのではないかと思われます。

 もちろん、この講義はそれ以外にも、たとえば「ソフィア」についての興味深いテーマも盛り込まれていますので、そうしたことについては、トポスノートまたはシュタイナーノート、余力があれば「ヨハネ福音書講義を読む」のシリーズでも書いてみたいと思っています。

 

 

田中優子「江戸の音」

(河出文庫/1997.9.4発行)


(1997/1/5)

 

 これは、10年近く前の1988年に刊行されたものの文庫版で、ずっと読もう読もうと思いながら読めずにいて、文庫版になったにもかかわらず読めないでいたのを年末年始の休暇を利用してやっと読むことのできたものです。この田中優子という学者は、「江戸の想像力」以来、注目している方で、松岡正剛などとの対談などでも言及されていた「連」などについてのとらえ方などに関しても、これを機会にあらためて見ていきたいと考えているところです。

 ところで、この「江戸の音」。今は亡き武満徹との対談も収められていて、日本の音楽ということを、日本の独自性と同時に、それに閉じない地球規模で考えていくうえでも、とても示唆的な内容になっています。日本文化を問題にしながら、それを狭めてとらえることをしないで、むしろ、日本だけに閉じたものはなく、その枠組みは常に動き続け、変化し続けているのだということを見ていくことで、危険なまでに日本を単純に特殊化してく傾向を排しながら、日本という場所での音楽に関するあり方をむしろ広げ、ネットワークさせ新たな可能性を探るとでもいえるでしょうか。

 武満徹の音楽や著作などにふれることは、そうしたことへのアプローチのためにもとても有効なのですが、それを「江戸の音」をキーにしていくつかの視点を提示し得ているという点で、日本の文化ということを考えるに際しても、また音楽ということを広義の意味でとらえかしていくという意味でも、この著作はとても重要な一里塚なのではないかとも思います。

 さて、この著作の紹介としてどこか引用しておこうと思ったのですが、どの部分もとても示唆的なのでしぼりきれませんので、「文庫版に寄せて」から次の部分で、ご紹介に代えさせていただくことにします。

 まずは、音楽の「場」について。

 三味線の音は「場」の中で聞かなければ、その意味や力がわからないのではないか、と私はこの本の中で問うている。しかしその問いは、それはそれとしてありながら、ではなぜ、バッハの「マタイ受難曲」のような十八世紀の音楽を今の時代の普通のホールで聴いても、アルヴォ・ペルトのような二十世紀ではありながら遠い東欧の音楽を、日本の小さな部屋の中で聴いても人は感動できるのだろうか。なぜ「京鹿子娘道成寺」のような、時代を超えた三味線の名曲が存在しているのだろうか。音と「場」がかかわり深い、と言いながら、次の瞬間、私の頭の中にはそのような次の問いが出てきてしまうのである。日本やアジア各地の音と音楽が持つ現場性(あるいはアウラ)が本当だとしても、それを普遍的な舞台に呼び出して、世界の名曲にしてしまった武満徹という作曲家が、現に存在したのである。

 現に世界の多くの人が、武満徹を通して、尺八の音に精神(たましい)がゆさぶられた。それが起こったとき、尺八も三味線もあらゆる音の「サワリ」も、採譜できない音や、音響測定器で捉えられない音も、特定の場から抜け出して「新しい音の現場」を作ったことになる。(P201-202)

 続いて、音楽の「時間」について。

 『江戸の音』の対談の中で武満徹さんは、「間」というものはスタティックなものではなくてダイナミズムに富んだものだ、というどきりとするような発言をなさった。しかも「間」というものが文化のなかに出現した理由として。「それはサワリというような雑音性を享受できる美意識があったから」と言っておられる。サワリが享受できる感性というのは、「複雑ま音響世界の中に世界が表現できる」ことだとも、言われた。これは私が思ってもみなかったことだった。「ダイナミズム」と「間」と「雑音性」が、すべてつながっている、というものの見方なのである。なるほど、「問い」はひとつずつ分けてはいけないのだ。武満徹という人は、感性の上でも思考の上でも、「分ける」ことより「連ねる」ことによって、ものごとの(人間の)複雑さの中にまっすぐ入って行った人なのだ、と私はその時感じたのである。(P203-204)

 この音楽の「場」と「間。そして「連ねる」ことについては、ぼくとしても、日々、さまざまに感じ、考え続けていることで、この場での試みもそのテーマと無縁なものではないと思います。特に、「「問い」はひとつずつ分けてはいけないのだ」というのはとても示唆的でここでぼくが「神秘学」として試みようとしていることも、まさに、一見ばらばらのように見えることであっても、それらを「連ね」ながら見ていくことで、それらの問題性の共通の場が必ず見えてくるのではないかということなのです。

 そして、それらの「雑音性」を排することなくそのまま受け入れていくことをここでは「遊戯」ということでコンセプト化しているつもりなのですが、それがどこまで可能になるかは、こうしたひとつひとつ「連ね」られていく言葉の自在さ次第だと思っています。

 今年の最初にこの文庫を読んでほんとうによかったなと思っているところです。


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