風の本棚1

(92/03.29−92/07.31)


桑田二郎●マンガ釈迦の真言

神秘学入門に最適☆渡辺久義●意識の再編

マーベル・コリンズ゙●道を照らす光

非線型の思考へ/木村敏●生命のかたち

エンデ●ハーメルンの死の舞踏

 

桑田二郎●マンガ釈迦の真言


(92/03/29)

 あの「エイトマン」「まぼろし探偵」「月光仮面」でも有名な桑田二郎さんの「マンガ 釈迦の真言」(講談社コミックス)がでました。

 この桑田二郎さんという方はとっても興味深い方で、「私の人生の前半は、まるで死神とのにらめっこのような毎日でした。17才の夏、最初の自殺に失敗しました。その後も馬鹿げた失敗を何度かくりかえしながら、未来を考えない自堕落な生活が延々と続きました・・・」という生活から一転、「死」について考えることから、「瞑想」の世界を知るようになり、般若心経と出会うことになります。そして今や「精神世界コミックの第一人者」とまでいわれるようになりました。

 確かに、僕の知るところ、この桑田二郎さんほど深いレベルで精神世界マンガを描いている人はいないように思えます。しかも、内容が高度なわりには、おなじみのキャラクター「へのかっぱ」「イチャモン」「NOタリン」「コテカントロプス」「ドクゼツ」「ホットケ」「ダソク」「ケチロン」「アイシテーン博士」「ウ呑み」「のたまい」「ダンゲンコツ」「ゴキヒネクレス」「栗かえす」「メイソー」などなどだれもがもっている人間の側面を独特のキャラクターにみたてて表現することで内容が無理なく伝わってくるのが特徴です。

 今回の新刊は、「伝説に秘められた釈迦の真意を、絶対不変の宇宙法則=「いのち」の真理に基づきながら説く、著者渾身の書」とあるように、釈迦の誕生から幼年時代、出家への道、天界の神々、仏陀としての覚醒という風に釈迦の足跡をたどりながら、「四門出遊」「四諦」「一二因縁」をはじめ「天界とこの世における次元の違い」「我意識と内なる魂=純粋意識」「霊的進化の七段階」絶対不変の宇宙の法則「」進化の法則と八正道」「カルマの法則と幸福」「我意識と魂の意識の内なる戦い」「理知に支えられた真我の精神」など、非常にベーシックな考え方が、深く描かれています。

 この桑田二郎さんの精神世界に関するコミックをはじめとする著作はどれも非常に興味深いものですので、いくつか紹介しておくことにします。

●マンガで読む般若心経/今を生きる本当の知恵 1〜2(廣済堂文庫)

●マンガで読む観音経/生命の真理が見える 1〜4(廣済堂文庫)

●マンガ・チベット死者の書(講談社コミックス)

●古事記の大霊言/神話に秘められた現代人への警告(主婦と生活社)

●般若心経の霊妙力(主婦と生活社)

●般若心経瞑想法入門(主婦と生活社)

 般若心経や観音経のマンガシリーズは、ぜひぜひおすすめしたいシリーズですが、非常に刺激的なのが古事記もので、日本神話に描かれた世界を解いていくのはなかなかの圧巻です。この古事記ものにはマンガバージョンもありますが誰かに貸してしまったのか見あたりませんので書名が紹介できませんが、こちらもなかなか興味深い内容だったことを記憶しています。この古事記の世界についてはまた改めて取り上げることになると思いますが、ちょうど古代神話学で有名な吉田敦彦さんの「日本の神話」(青土社)という本も買ってきたところですので、神道が見直されている昨今、鎌田東二さんの著作関係も見直しながら、ここらへんのことを少しずつみていきたいと思っています。

 話を元に戻して「釈迦の真言」ですが、これを読んでいてあらためて「解脱病」と称されていることを考えてみたいと思いました。霊的進化を希求することそのものは非常に素晴らしいことなのに、なぜ「解脱病」となると???という見解がでてきるのか、ということです。

 例えば、「四諦の真理」について考えてみると、この「四諦」というのは、

●苦諦/この世の生存は苦であるという真理

●集諦/苦悩の原因は、もろもろの執着による煩悩にあるという真理

●滅諦/執着からはなれ、煩悩の根源をほろぼす真理

●道諦/苦悩から脱するための八つの正しい道を説いた真理(八正道)

 ということですが、僕の感じでは解脱病の問題のひとつのポイントはまずこの「滅諦」に関する考え方のところにあるような気がします。この「釈迦の真言」の本文からこの滅諦」についての説明を引用しますと、

 「自分本意のエゴの感情は、他を思いやる慈悲の心に昇華し、あさましいむさぼりの欲望は、進化をめざす意志の力に変身し、さらに、肉体生命の感覚は、霊的次元の感応力となり、そこから霊的進化を実現させる天の法則なるものを知る理智が生じてくる。このように精神の意識が『いのち』の逆進化から完全にふっきれた時もはや、物質次元にはとらわれなくなるつまり肉体生命の持つ宿命的な苦のすべてから解放されるのだ」

 というのですが、ここらへんの「滅する」ということを「滅ぼす」と考えてしまうと、誤解が生じてくるのではないかと思うのです。あくまでも、「滅諦」というのは、「感情」「欲望」「感覚」などの昇華、変容であって、それらを断つとか滅ぼしてしまうという風にとると「感情」は「慈悲の心」へと変容してくれないし、「欲望」は「意志の力」に変容してくれないし、「感覚」は「理智」に変容してくれません。だから、それらのエネルギーをスポイルすることにしかならないと思うのです。もし、スポイルされることなく、理想的に変容したときには、「仁」「義」「礼」「智」「信」といったキーワードで表現されるようないってみれば、「徳」として、その人格を高次のものにしてくれているはずです。そのときには、他への理解力や感応力、決然とした判断力などにおいて断然すぐれてくるのは必然的な結果です。

 また、「解脱病」ということで気になるのは、プロセスと結果の混同ということで、「解脱」という結果ということにとらわれてしまっていて、本当は「八正道」の実践というプロセスが大切なのに、それがどっかで本末転倒してしまっているような印象を深くうけます。「滅諦」にしても、そのプロセスとしての変容にともなう思いやりなどが問題で、「私は生老病死を超えた」とかいうことを宣言するのが目的ではないと思います。もちろん、本当にそれを超えているとするならばそれは素晴らしいことでもありますがそのときに現れる「変容」というのは、他への理解力が飛躍的に高まり、自と他を切り放して考えることなどできなくなり、単純にいうとするならば、「限りなく愛多き人」となるということだと僕は思います。もちろん、このときには、「我」は「低我」から「高我」へと「変容」しているはずです。

 さらにいうとすれば、シュタイナー的な考えに立つと、現代というのは「意識魂」の時代であって、「悟性魂」を超えていく時代であり、その「意識魂」を通して、霊的認識を獲得する必要があるというのです。

 この意志魂というのは、「悟性魂よりはさらに進化した魂のあり方で、それは内的に自分自身の存在の根拠を自覚できるような魂」です。つまり、「自覚というのは、自己を意識することですから、自分自身の存在の根拠を一人ひとりが自分で意識化することのできる魂の働きのことだともいえます。」(以上、引用は高橋巌「現代の神秘学」より)

 アトランティス的な修行というのは神秘主義的な変容した意識でのイニシエーションということを重視していた旨のことをシュタイナーは述べていましたが、現代において「変性意識」をベースとした修行形態をとると、ある種の先祖帰りになってしまって、「宇宙進化」ということからいえば、それに逆行してしまうことになってしまいます。つまり宇宙進化論的にいうと、進化から取り残された存在、悪くすれば動物化する可能性も否定できないわけです。

 こうした変性意識というのは、「意識魂」を通じた気の遠くなるような修行を経たその結果として花開くものであって、決してそれを直接求めるようなものではないのです。だから、そうした変性意識というのがまったくなくても、それはそれでその方にとってはマイナスではないわけです。別に「変性意識」というのが「結果」でなくてもいいわけですから。

 種を蒔いて、それを最適の環境に置き、芽のでるのを待ち、多すぎず少なすぎないように水や肥料や光を与え、その「種」にとっての内的必然性によって成長していくのをどこまでも「待つ」というのが現代的な「行」であって、それを無理に早く成長させようとすれば最初はそれなりに成長する可能性もありますが、結果としてはいまの農薬づけの野菜のようになるか、悪くすれば「花」や「実」を産めないようなとりかえしのつかない事態になってしまう可能性をもっています。

 その「花」や「実」というのは、別に霊視能力などの超能力ではなく、結局は多くの人に「愛」を与えられるような能力のことで、それこそ、キング牧師やガンジーや明治維新の志士達のような存在にほかならないように思えます。要するに、プロセス重視のやり方でないと、結果さえもが伴わないということでしょうか。

 本の紹介にもどりますと、お釈迦さんが最後に残した言葉、「おのれと真理を灯火としおのれと真理を頼りとしなさい」というのは、ある意味ではきわめてシュタイナー的だなあと思います。

 引用です。

 「そのようなささやかな精神の進歩がやがて 仏の説かれる理智に支えられた慈悲の精神へと育ってゆくのだそれが 人間としての霊的進化への第一歩だ!」

 みんな悩んで大きくなった・・・だからやっぱり自分をしっかりと見つめながら、一生懸命生きていこうと思います。

 

 

神秘学入門に最適☆渡辺久義●意識の再編


(92/06/15)

 

 先日、手にいれた新刊が神秘学の入門書として考えても格好のもののように思えますので、紹介させていただきます。

 神秘学について直接云々した本ではありませんが、ダーウィニズム、マルキシズム、フロイディズムに毒された現代思想を根底から問題視し、それらを排撃するのではなく、それらの限定された対象領域を明確にし、神秘学が明らかにしようとする世界観のベースを解説してくれている非常に的を得た本だと、ここに大推薦させていただきます。神秘学ってどういう考え方なのかを細かいことは別として全体像として把握するためにも、最適ではないでしょうか。

 ここに提示されているのは、「宗教・科学・芸術の統一理論」ということですが、「神秘学」という名称は使われてないものの、ここに解説されているものは「神秘学」の考え方そのものでもあると思います。ちなみに、この本の最後のあたりでは、シュタイナーの「神智学」の中の「認識の小道」という感動的なエッセイが引用紹介されていることからもそのことは明らかです。

 この書は、ダーウィニズム、マルキシズム、フロイディズムによってこの地上に落とされ、幽閉され、奴隷根性を強要されている人類への霊性回復のためのネオ・奴隷解放宣言としても有効であると思います。

渡辺久義●意識の再編/宗教・科学・芸術の統一理論を求めて(勁草書房)

 帯紹介より/人間中心主義、近代の科学主義がもたらした弊害、限界を指摘し、新しい宇宙観、生命観の下、倫理/価値/美など、人間存在をトータルに捉える意識の体系を提示する。

☆目次紹介☆

●序章/心のつくる世界

●第一章/人間中心主義という近代の暗愚

 1)自己中心性、それに気づくこと、乗り越えること

 2)謙虚ということ、自分の姿の見えぬ科学

 3)科学の傲慢、盲目性、報い

 4)罪と罰、方向喪失、われわれの悲劇

 5)無自覚の唯物論者、アリストテレスの4つの原因、「パラダイムの突然変異」

 6)いのちか物質か

 7)想像を絶するわれわれの不幸

 8)われわれの不幸の最たるもの、ダーウィニズム

 9)生物進化説としてのダーウィニズムは真理か

 10)われわれは「・・・にすぎない」存在か

 11)飛躍ということ、創造の合目的性・全体性

 12)人間に生命は創れないということ

●第二章/実在の在り方についての仮説

 1)実在の全体性とその階層性、「自然の梯子」

 2)存在のヒエラルキー・モデル

 3)生命体としての人間の階層構造、第三の公理

 4)芸術作品の階層構造、創造の原理

 5)相互貫入的二元論

 6)階層秩序の中での人間、人間中心主義の誤り

 7)心は脳を超える

●第三章/超越的秩序と価値の回復

 1)価値相対主義の愚、善悪についての誤解

 2)善の階層秩序

 3)自由な心の選択としての絶対

 4)「殺すな」という命令について

 5)霊性と肉体性

 6)奴隷根性ということについて

 7)自分とのたたかいと他人との戦い

 8)創造と批評、精神の豊かさと貧しさ

 9)言葉を私すべからざること

 10)迷信の克服と超越的秩序への回復------結語

☆本文よりいくつかの抜粋紹介☆

●第三章・5)霊性と肉体性 より(P163〜164)

霊性とはわれわれの内部にありながらわれわれを超えたもののことである。そして霊性と肉体を結ぶ垂直線の、上下への延長上にあるものを、明瞭に名指すことができる。上方には、完全な自由としての無償の愛、ほとばしる愛、無限の慈悲があり、下方には、完全な奴隷状態としての盲目の自己中心性がある。上方には包容・和合・教化の原理、(愛と指導性からくる)峻厳の原理があり、下方には排除・敵対・反抗の原理、暗愚と狡知と恐怖の原理がある。

●第三章・6)奴隷根性ということについて より(P164〜171)

奴隷には自由を与えねばならない、しかし奴隷根性には自由を与えてはならない。(中略)自分の持つすぐれた部分(霊性)がより劣った部分(肉体性)を管理・指導しなければならないこと、これを言わなければならない。権利はあくまで霊性と霊性によって指導された肉体性の要求するものでなければならず、肉体性の要求する権利はこれを許してはならないのである。つまり、支配者・被支配者の秩序はまず自分の内部にあり、それが社会に反映されなければならないのであり、したがってその支配構造は包み込む愛情であって、抑圧や搾取ではない。(中略)「権利をおかすものがあれば、断固としてこれを排除し、じぶんの権利を守る」ことが必要になることも勿論あるだろう。けれどもそれをいう前に、権利を要求するものが何であるかを、まず吟味しなければならないだろう。もし、それが、霊性によって導かれぬ肉体性の要求する権利であるなら、権利を求める権利などはじめからないのである。われわれは、霊性の要求する権利を侵すものに対してのみ、「断固として」たたかわなければならない。だから、このたたかいは、原理的に自分自身の内部でのたたかいなのである。(中略)歴史は階級闘争によってではなく、善の悪に対する闘争によって進展する。そして「その戦場は」と、ゾシマ長老は言っている「私たちの心なのである。」----われわれは奴隷は解放しなければならない。しかし奴隷といっしょに奴隷性を解放してはならない。

●第三章・7)自分とのたたかいと他人とのたたかい より(P175〜176)

目に見えない心の中の秩序が、目に見える世界の秩序でなければならない。このことはプラトンも古代中国の哲人たちも主張した永遠の真理である。中国の古典の一つ『大学』にある有名なことば「修身、斉家、治国、平天下」はその表現である。これは順序が大切なのであって、わが身を修める原理がまず確立され、それが家庭、国家、世界(天下)へと順次適用されていかなければならない、ということである。(中略)「修身、斉家、治国、平天下」は実はその前に「格物、致知、誠意、正心」がくる。格物致知とはおそらく、宇宙の道理・法則をきわめ正しい知識を身につけるということである。それは物理学の法則ではない、心の世界の客観的法則である。だから最初の実践はまず、心の動き、心の働きを正しくコントロールすることにある。これが誠意正心ではないだろうか。そしてその宇宙の道理に従ってよくコントロールされた心に「身」(肉体とその振舞い)を従わせる、これが修身ではなかろうか。そしておのれの正しい心身関係のルールでもって、まず家庭を斉え次に国を治める。それができたときに初めて、同じルールで世界平和(平天下)を実現する方途が見えてくる、ということであろう。

 

 

マーベル・コリンズ゙●道を照らす光


(92/06/16)

 

●マーベル・コリンズ「道を照らす光

           /学ぼうとするすべての人のための人生の規則と東洋の知恵」

                            (浅田豊訳、村松書館)

 高橋巌さんもこの書について、本書は「今日にいたるまで、神秘学を学ぶものにとってのかけがえのない指導書として読み継がれている。倫理的な観点の高さからいっても、本書は喜びにつけ悲しみにつけ、読者の魂を浄化し、その時、その時の時点で、更によりよき人間関係を作り出していこうという意欲を呼び起こしてくれる。しかし本書が神秘学徒にとって特別重要な意味をもつのは、喜び、悲しみという感情的(アストラル的)な次元にとらわれることなく、ひたすら『観る』行為、換言すれば認識の行為に徹しようとする行を教えているからである。」というような評をしていますが、自己認識の重要性をこれほど簡潔にまたトータルにまとめてあるものもなかなか見つかりません。ということで、余分な解説は抜きにして、本書の「核」の部分をここにご紹介させていただくことにします。

★第一部★より

1)名誉心を捨てよ。

2)生への欲を捨てよ。

3)快適さへの欲を捨てよ。

4)自分を特殊の存在だと思うことをやめよ。

5)肉体の刺激を求めることをやめよ。

6)成長しようと思うことをやめよ。

7)お前の中にあるものだけを求めよ。

8)お前より上にあるものだけを求めよ。

9)得ることのできないものだけを求めよ。

10)勉めて克己の力を求めよ。

11)心より平和を求めよ。

12)何にもまして宝を求めよ。

13)道を求めよ。

14)心の内に沈潜して道を求めよ。

15)心の外に見開いて道を求めよ。

★第二部★より

1)来たるべき戦いを避けよ。もし戦うとしても自らは戦士であるな。

2)戦士を見いだし、彼をお前の中で戦わせよ。

3)彼の戦いへの命令を待ち、それに従え。

4)生の歌に耳を傾けよ。

5)お前の聞きとった調べを記憶せよ。

6)そこから調和の教えを学べ

7)お前をとりまく生を深く観察せよ。

8)他人の心を見、理解することを学べ。

9)お前自身の心を最も真剣に調べよ。

10)地と風と水とに、それらがお前のために隠している秘密をたずねよ。

11)地上の聖なる人たちに、彼らがお前のために隠している秘密をたずねよ.

  外面的感覚の望みを克服したのだから、お前にはそうする権利がある。

12)最も内面にある一つのものに、それがあらゆる時代を通じてお前のために隠して

  きた最後の秘密をたずねよ。

13)形も体もないものに堅く頼れ。

14)音でない声にのみ耳を傾けよ。

15)内面の感覚によっても外的感覚によっても見えないものをのみ見よ。

 こうしたテーゼ集だけでは理解しがたいかもしれませんが、こうした言葉を繰り返し自分の中に沈潜させていくことで感じとるものがあるとしたら、幸いです。

 

 

非線型の思考へ/木村敏●生命のかたち


(92/07/15)

 

 「生きているものを研究するには、生命と関わりあわねばならぬ」。ヴァイツゼッカーはこの有名な言葉に象徴されるように、主体を中心に据えた生物学としての人間学を構想した「医学的人間学」の創始者であった。

・・・こういう内容から始まる精神科医の木村敏さんの新著「生命のかたち」(青土者)がでました。

 「生命に対するわたしの関心をはじめて開いてくれたのはヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーである。(中略)ヴァイツゼッカーの態度は、生きた患者がこの人間世界の中で生き続けていくいとなみを援助する私たち精神科医にとっても、この上なく重要な教訓を与えてくれた。臨床の現場から離れないことをモットーとしているわたしには、ヴァイツゼッカーをはじめとして、ビンスワンガー、ケープザッテル、シュトラウス、テレンバッハと続くドイツの人間学的精神病理学が合理主義的・還元主義的な----「線型」と言ってもいい----思考形態を脱して、非合理的な生命的現実を直視しようとする姿勢は、なにものにも代えがたい貴重なものだった。」

 という木村氏の言葉からもわかるように、木村氏は、カオス理論が掲げているような、近代的な「線型」の思考形態を脱した「非線型の思考」と非常に近いスタンスをとっています。

 「線型の科学思考になじまない現象を、できうるかぎり現象それ自身に即して写生する、それがわたしの『現象学的』な姿勢なのである。」

 この「非線型」ということを「場所論」との関係で探求しているのが、かねてより引き合いにだしている中村雄二郎さんで、木村敏さんとはこの「場所」ということに関してかなり近いスタンスをもっているようです。

 この新著のなかにも、中村さんが「かたちのオデッセイ」でとりあげた「響き」としての生命、各個体の生命に固有な振動数の共振、共鳴という意味での生命体どうしの連帯ということが、「主体」ということでとらえなおされています。ちなみに、ここでは、「生命」ということは次の意味で使われています。

 「個体の内部には納まらないような、つまり強いて空間的に表現すれば個体と個体との『あいだ』にあるとしか言えないような、対象的認識の不可能な、そして因果法則から外れた動向をも示しうるような、そんな主体的な力を想定してそれを『生命』と呼ぼうと思う。」

 この主体的生命の響きあう「場」ということについては今後シュタイナーとも関連させながら繰り返し検討していきたいと考えています。

 

 

エンデ●ハーメルンの死の舞踏


(92/07/31)

 

 7月30日付の朝日新聞に、ミヒャエル・エンデの新作オペラ台本「ハーメルンの死の舞踏」について、シュタイナー教育ではおなじみの子安美智子さんの書かれた「お金の黒魔術を射る」という紹介記事が載っていました。

 この台本原稿は地元ドイツよりもはやくこの日本で「月刊Asahi」の8月号から3回に分けて連載されることになっているということですが、この作品は93年秋、ドルトムント・オペラ劇場のこけら落としに初演されることになっているようです。

 この作品には、「金ひり男」(Geldscheisser/ゲルトシャイサー)という化け物が登場するそうで、いわゆるソノ姿勢で「金(ゲルト)」をひり出し、その度ごとに地上の生物が死んでいくという。

 エンデは、あのアインシュタイン・ロマンやそれと関連したNHK出版の書籍や月刊プレーボーイなどの雑誌のでも、「お金の問題」について積極的に発言をしていましたので、おそらくはそのテーマをオペラ・ファンタジーとして展開させたのではないかと推測されます。

 子安美智子さんは、そのテーマについてのエンデの姿勢をこう述べています。

 「ドイツ統一とソ連崩壊を経た世界に今や必要なのは『お金の黒魔術を白魔術に転じる』発想だとし、そのために『東京クラブ』とでも名づけた頭脳集団を呼びかける用意のあるエンデなのだ。彼の新たな意欲作がこの日本で世界発公開されるのは、意味深いことだと思う。」

 精神と経済という現代にとってもっとも困難ではあるけれどもそれをなんらかの形で未来的にビジョン化することが不可欠だと思います。そうしなければ、どうにもならないところまで来ているからです。そして、その可能性というのは本当に小さなものかもしれませんが、それをあきらめてしまったとき、人類はある種の「結果」を選択してしまったことになるはずです。

 ということで、せっかくですので、この記事に紹介されているこのファンタジーのお話の展開(さわり)について引用させていただくことにします。

ねずみの大群を生みだす張本人は市民の目に隠された「大王ねずみ」--よくみると「金ひり」の格好をした化け物だった。拝金主義者たちの集う黒ミサの祭壇に、怪物が一枚ずつ金貨をひり出すと、そのたびに同じ尻から小さな影が放出されて、町に氾濫するねずみの姿になり変わる。ねずみの本体はじつは「死の影」である。

秘密の黒い儀式にあずかれない市民にはその仕組みが見えない。そして、「あの者どもが手にする金貨の一枚ごとに、/何かが死ぬ……一本の木が……一匹の動物が……/一つの河が……一人の子どもが……」と魔法を見破った予言者は処刑される。

そこへ異国からやってきた笛吹きは人間の言葉を話さず、その笛の音だけが意思表現の手段である。・・・

 「お金が商品になるのはおかしい。」というエンデの経済に対するビジョンがどういう道徳的ファンタジー(シュタイナー)として展開させていくのかに今後もずっと注目していきたいと思います。


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