《冒険》
2014.4.8


私は私
そのイコールで結ばれた右と左のあいだで
見えなくなってしまうものを探して
私は冒険の旅に出る

私を呪縛する
私は私という呪文から逃れ去るために
見知らぬ私の大地へ沼へ海へ空へと向かい
そこで出会うものたちの敵意さえ必要とする
それさえも愛だということを知るために

愛するために
私は私でないものを求める
愛するために
私は私でない険しい道を歩み
イコールの呪文で閉じられた
影の王国から逃れるための扉を探す

ときに私は破壊され
ばらばらになって投げ捨てられたりもするのだが
皮肉なことにイコールの呪文に救われ
私はまた私となってしまう
けれど愛を知る私として

季節のめぐりがただのくり返しではないように
私は私というくり返しの呪文から逃れ去り
またその呪文に救われながら
河の流れのように
私を流れ続ける
光と影を絶え間なく交錯させながら

 

☆風遊戯《冒険》ノート

◎自分という世界に閉じ込められてしまうような閉塞感を感じるとき、「私は私である」ことを逃れて、それまで自分ではなかったような世界のほうへ逃れたいという衝動を覚える。それをここでは「冒険」としています。

◎ぼくは、自分にとって苦手なことや未知のことに、定期的に「自分エポック授業」のようなことで、集中的に取り組んでみようとすることがよくあります。でも、もちろんそれはとてもキツイことで、自分が自分ではなくなってしまったような気持ちになりかねないときもありますが、自分を成長させるというか、自分のなかの欠損を統合させるためにはぼくにとってはとても大切な作業になります。

◎自分の得意なことを伸ばすということはもちろん重要ですけど、そればかりだとやはり世界は閉じてしまう。もちろん得意なことの底の底のほうに向かっていくことで、いわば内在的超越を行うことも可能でしょうけど、それはかなりむずかしい。だから、ときに自分の殻を壊すことで、実はそれは取り組み方次第では、壊れてしまうことではなく、自分の世界を広げることに他ならないことがわかります。そのための「冒険。

◎ドゥルースに『差異と反復』という著作がありますが、反復するものを同一的捉えてしまうことから「差異」が見えなくなってしまいます。

◎似ているということは違うということだというのもそれに似ています。似ている面白さというのは、違いがあるからで、ものまねの面白さというのは、そこにあるわけですが、ときに「似ている」ということを「同一性」のほうに持っていって「差異」が見えなくさせられてしまうとき、さまざまな認識のファシズムが現れます。

◎難しいのは、同じものは存在しないにもかかわらず、すべては「一」であるということなんだと思います。そして、その一なるものは多を内包している。一即多、多即一ということ。