風のDiary
2012.7.25.Wed.
片山杜秀:線量計と機関銃

「片山杜秀のパンドラの箱」というCSラジオの番組の内容が本になった。
そのラジオ番組は「MUSIC BIRD」という音楽専門衛星デジタルラジオで放送されている。
どちらもまったく知らなかったのだけれど。

http://musicbird.jp/
http://musicbird.jp/programs/pandora/

片山杜秀を『音盤考現学』(アルテスパブリッシング)で知ったときは、
とても驚いたし、ここまで音楽を聴き込んでいる人が、
日本の右翼やファシズムなどを研究しているというのも不思議だった。
ちなみに、今回の著書『線量計と機関銃』は、
アルテスパブリッシングからでている「片山杜秀の本」のシリーズ5作目。
題名から類推できるように、原発をめぐっての話に、
それぞれの話のテーマに関連した歴史的な音楽が紹介されている。
そのなかには、映画『ゴジラ対ヘドラ』(1971)の主題歌、
「かえせ!太陽を」などもあって、
まずは実際には聴けないだろうなと思って探してみると、
YouTubeのおかげでそのいくつかを聴けたりもするので便利な時代だ。

http://www.youtube.com/watch?v=sdzWv-6wLsQ

本には12の番組の話が収録されていて、
第1回目が2011年3月25日「敗戦と原発」、
最後の12回目が「吉田秀和とノストラダムス」。
片山杜秀らしく、それぞれのタイトルは、
まったく関係なさそうな2つのキーワードが「と」で結ばれていて、面白い。
第4回目は「3・11と12・8」で、
「12・8」は、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった日。
「3・11」はその「12・8」に匹敵するという話。
「1941年12月8日以降に日本人が置かれた状況と、現在の状況はそっくり」という。

   情報が統制されていて都合のいい情報を伝えようとすると、悪い情報は抑えられる。
  それから情報が多すぎて処理できなくなり、そこに間違った情報やニセ情報がまぎれ
  こむ。さらに非常事態で次から次へと新しいことが起きていくことによって、専門家
  でもわからないようなむずかしい情報が増える。もはや政治家にも軍人にも、すべて
  をバランスよく知ることができる人は、当時の日本の社会構造からいってほとんどい
  なかった。軍隊には軍隊の秘密が、政府には政府の秘密が、国民には情報統制があり
  ました。だから総理大臣でも天皇でも軍のトップでも、じつは知らなくてはいけない
  のに知ることができなかった情報がたくさんあった。誰かは知っているのですが、う
  まく管理して国民に伝えることができない。それでも、俺は全部知っているんだとい
  う人がいてくれると話は簡単なのですが、そんな人はひとりもいなかったのです。だ
  から、誰もが足りない情報、間違った情報、一面的な情報だけで判断して、さらに自
  分のセクションで知っていることをまたよそに隠したりするものだから、そんな情報
  のめちゃくちゃなカオス、エントロピーの増大みたいな状態が日本に起きていました。
  これが1941年12月8日から45年8月15日まで、一般の日本人が置かれてい
  た状況だったのです。

この本では一貫して、日本はわけがわからなくなっている・・・という話になっていて、
たしかによくこんなで国が保っているなというのが実感なのだけれど、
別の側面でいえば、これだけカオスの要素に満ちていながら、
この片山杜秀もそうだけれど、ちゃんと考えている人が少なくはないということも、
現代のネット社会のおかげで、知ることができるのは、
過去のカオス的状況とは、可能性として少し異なっているところなのだろうとは思う。

さて、この本の最後に、先頃亡くなった吉田秀和さんの話がある。
1974年に雑誌に発表された「「薄気味の悪い話」というエッセイのこと。
何が薄気味が悪いかというと、ユネスコの機関から、
「おまえの書いたこういう文章を登録した」という連絡が定期的に来るということ。
以下、引用は、本書からの孫引き(吉田秀和の文章)。

   自分の生きんがために書き散らしている仕事を、どこかこちらの知らないところで
  見張っている目があって、そこの裁量によって、番号がつけられ、資料として扱われ
  るようになるというのは、思ってみれば薄気味悪いことである。

この薄気味悪さというのは、こういうこと。
「資料がたくさん揃って検索可能になって、必要なものはいつも出てきて、
それを参照すればなんでもわかるようになる。現代の文明というものは、
そういう幻想にとらわれている文明で、それはもうそういう種類の文明なのだから、
いたしかたない面があると、それが近現代という時代の特徴なのだと、
吉田さんはこの文章で書いています。その特徴が気持ち悪いと言っているわけですね。」

吉田秀和がこの「薄気味悪さ」を感じたと記しているのはもう40年近くまえ。
現代ではまさに、なんでも「検索」すればでてくるように思い込んでいる時代。
そんな時代の薄気味悪さをその時点で言葉にしていることに驚くとともに、
その文章のあとに、1973年の石油ショックのことが書かれてある。
「実際に石油の輸出削減が声明されてみると、いろいろと異常なことが起こった」。
それは、安保騒動や赤軍派などの事件よりも大事件だというのです。
以下、本文(片山杜秀)より。

  売り惜しみ、出し惜しみ、モノがないからといって値段を上げる。どこにあるか
  わかりませんといってモノを隠匿する。社会不安を煽れば煽るほど儲かるわけで
  すから、そうやって価格を釣り上げる。そういうことを石油危機、オイルショッ
  クのときに吉田秀和さんは、自分の日々の暮らしの中で目の当たりにしたのです。

何かが起こったときに、企業が一般の人がどういう態度をとるか。
それを見て感じたほうが、今の世の中の状態をヴィヴィッドに感じ取ることができるのだろう。

ある意味、3・11後の日本は、さまざまなことの実験場になっているようにも思う。
3・11後、1年以上が過ぎて、ようやくそのことを少しずつ具体的に考えることが
できるようになってきたのかとも思う。
カオスそのものも見えるし、
危機感とともに模索しようとしている人たちのことも見えるように、
少しずつなってきているように思う。

ちょうど、松岡正剛の千夜千冊の番外編「3・11を読む」(平凡社)も出ている。
これは、3・11後、それに関連してネットに書かれたものをまとめたものだ。
その視点を最後に少し。

   ひょっとして、いまさら「3・11を読む」でもないだろうと思われる読者が
  いるとしたら、反論したい。ぼくはどんな事件もどんな歴史的な出来事も、それ
  が古代ローマ帝国の滅亡であろうと(…)、これらすべてが歴史的現在にあり続
  けるのだと反論したい。
  (・・・)
   第一には、いろいろの本を読んでみたが、残念ながら日本の言論界には、ギュン
  ター・アンダースやポール・ヴィリリオやジャン=ピエール・デュピュイのように
  「ひろしま」や「事故」や「ツナミ」を思索の渦中にとらえて、そこから正体不明
  の新哲学を絞りだそうとする試みは少なかったということである。一言でいえば石
  牟礼道子や森崎和江が、廣瀬隆や佐藤優が足りないままなのである。
   それゆえ第二には、3・11とそれ以降の社会についての思想的な成果はこれか
  らアタマを擡げてくるのだろう、それをこそ期待したいということだ。しかしその
  前に、かつてポストモダンの旗手リオタールが「知識人の役割」をものしたことに
  比していえば、「ポスト3・11」とは何を示しているのかということが、この四
  半世紀の日本と世界の禍根を背景に意表されなければならないのだろうと思う。た
  だしリオタールとはまったく逆か、別の方向から。
   第三に、そうした言論界や思想界とはべつに、写真やデジタル映像や派フォーミ
  ング・アートや音楽やウェブ発信の場面では、またテレビのドキュメンタリーでは、
  これまで隠してきたかもしれない「祖国「や「母国」についての、ときに哀惜的な、
  ときに激越な、またときにはきわめてパンクでラディカルな、さまざまなリプリゼ
  ンテーションが連打されていて、この一連の中からは、かつてのヨーロッパやメキ
  シコから発生した表現力に代わるものが、あるいは70年代以降の中国や韓国が憤
  然とした事件ののちに映像や都会の片隅に出現したものに代わるものが、ひょっと
  してあらわれるのかもしれないと思えたことである。
   そのほか、3・11をまたいで軟弱なイデオロギーやクリーン主義が装いを新た
  に出回っていること、為政者と自治体指導者に本格派が登場していないこと、企業
  のボランティア活動が次に何と結びつくのか見えにくくなってきたこと、つまりは
  さらにオーバーコンプライアンスの中にすべてが取り込まれていってしまうのでは
  ないかということ、いま十代の子供たちがぼくなどが予想もしない発想を組み立て
  てくれるのではないかということ、そんなことがとても気になっている。