風のDiary
2012.5.18.Fri.
幽霊映画二つと死について

幽霊のでてくる映画を二つ観る。
三谷幸喜監督の『ステキな金縛り』と
ガス・ヴァン・サント監督の『永遠の僕たち』。
別に幽霊を見たいと思って観たわけではなく、
たまたま同時期に新作でレンタルされていた。

幽霊がでてくる映画といっても、
前者はコメディ、後者はいわば青春映画。
同じ幽霊というのも乱暴すぎるが、どちらも
死者が、ほとんど生者と同じように表現されているのが面白い。
とはいえ、死と生は近く、そして遠い、というのが、
もちろん、映画のなかでもそれなりに表現されている。

さて、一人称の死と二人称の死、そして三人称の死とは
同じ死といってもずいぶん異なっている。

もっとも悲しみを伴うのは二人称の死だろう。
愛する人が死ぬ。
なぜあなたが死ななければならなかったのか。
その答えのでないであろう問いが繰り返し繰り返し問われ続ける。
物理的な死の原因は、出血多量とか病気とかいう答えを可能にするが、
「なぜ」はそうした理由を求めているわけではない。

三人称の死は、悲しみを伴わないとはかぎらないが、
多くの場合、その死はある種の客観を伴った死であることが多い。
そして、その死は、自分と深く関わることのできない死だといえるのかもしれない。

そして、一人称の死。
通常の視点では、「私の死」は語り得ないものである。
私が死ぬ。
私が死んだら・・・と思う私がいなくなる。
そこでの矛盾は、悲しみというのとは異なって、
やり場のない不安と恐れを喚起するにもかかわらず、
それがどこに向かっているのかさえわからない宙ぶらりんの状態に人を導く。

おそらくは人は死んでも、状態はずいぶん異なったとしても、
そんなに変わりはしないのだろうと思っている。
そう思うと、一人称の死は、一人称の死ではなく、
二人称の死でも三人称の死でもある部分がでてくるのかもしれない。
ある意味、死は私を今生きている比較的?低次の私の意識の閉塞感から
自由にしてくれるものとしてとらえることができるのかもしれない。
死んだ後、人に与えたものが逆に与えられたりするくらいだし、
すでに物理的対象のない欲望が働かなくなるまで
煩悶しなかればならなかったりするわけで、
しばらくのあいだは、そんなに静かに過ごせたりもしないわけで、
死といってもずいぶんと忙しい。
ある意味コメディでもあるけれど、ノスタルジックでもあるのだろう。

どちらにしても、生と死は遠くて近く、
生者は死者となり、死者はまた生者となる。
もっとも、否応なくその繰り返しを生きざるをえないのか、
あえて、その繰り返しを選ぶのかの違いはあって、
どうせなら、自由に基づいたスパイラルのなかにいたいと願っている。