風のDiary
2011.6.21.Tue.
佐野眞一『津波と原発』

佐野眞一『津波と原発』(講談社/2011.6.18.発行)を読む。
いつもながら、この人の言葉は耳を傾けるだけの価値がある。
空疎な言葉で危機感を煽るような言葉は使わず、
「事実をして語らしめる」ことを徹底させる。
沈黙の重みもしっかりとそのなかにある。

   今回の三陸大津波と福島の原発事故は、日本の近代化がたどった
  歴史と、戦後経済成長の足跡を、二つ重ねてあぶりだした。
   いま私たちに問われているのあ、これまで日本人がたどってきた
  道とはまったく別の歴史を、私たち自身の手でつくれるかどうかで
  ある。そして、それしか日本復活につながる道はない。
  (「あとがきにかえて」より)

誰が見ても、政治家や東電など、
「お上」は愚を露呈しているようにしかみえない。
この期に及んでなにを馬鹿な・・・とも思うのだけれど、
一度加速度をつけられたものは、もう止まることができずに、
初期の「慣性」に従って「陥穽」に落ち込んでいくしかないのかもしれない。
それにくらべて、「自然エネルギー財団」の設立を提言したりしている
ソフトバンクの孫正義社長などの言動には、問題の本質を見据える力を感じる。

読売新聞を巨大新聞にし、原発の父ともなり、テレビ放送を推進し、
また、巨人軍の主でもあった正力松太郎とともにあった高度経済成長的な発想に
実質的にピリオドを打ったのが、
今回の三陸大津波と福島の原発事故だったといえるのかもしれない。

では、どうすればいいのかと問いかけたところで、
返ってくるような答えは、政治家にせよ評論家にせよ、空疎な言葉でしかないだろう。
そこにこそ「自由」の可能性が見つけられねばならない。
ある意味では、ようやく私たちは、
慣性の法則から自由になる可能性を得たということなのかもしれない。
だれかの指示を待たなければ動くことのできない車のままでいなくてもいい、という。
生老病死などの避けられない苦しみは、
避けられないがゆえに、その真実を超えた真実を求めさせる。
そうでないかぎり、苦しみはただただ深まるばかりなのだから。

高村光太郎ではないが
「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」
ということなのだろう。