風のDiary
2011.4.5.Tue.
「お金」意識の変容

東日本大震災は、私たちにさまざまなことを示唆し続けているが、
そのなかでも「お金」のことは、とても大切なことであるように見える。
これほどまでに「お金」が「友愛」的に
活性化したことはなかったのではないか。

もちろん「空気」として「義援金」を出さざるをえない
という部分も否定はできないのだけれど、
それにしても、これほどにさまざまな人が、
有名、無名を問わず、「お金」を「友愛」的に出すというのは驚きである。

もともと「お金」は白でも黒でもなく、プレーンなものであるにもかかわわらず、
これまで「お金」には、どこか陰がつきまとっていたところがあった。
しかし、東日本大震災でさまざまな人が支援しようとしている「お金」の多くは、
これまでのそうした「お金」のイメージを変えてしまう力がある。

ひょっとしたら無意識に「お金」に対して持っていた
ネガティブな後ろめたさのようなものを
ポトラッチ的な行為で支援に向けたというところもあったのかもしれない。
それが、連鎖的な行動としてさまざまな人の意識=行動の変容をもたらした・・・。
「経済における友愛」の同時多発的な活性化である。

「経済における友愛」ということで
「ベーシックインカム」が論じられることがあったりもするが、
「お金」をそうした「制度」として語ることは
どこか違うのではないかと思っている。

今回に支援に関する「お金」の使用に関しては、
何らかの「制度」が関与することも多いだろうが、
それは「制度」に依存したものではなく、「友愛」の機能が中心にある。

「友愛」は「制度」ではない。
「制度」にしたとき「友愛」はその生命を失う。
たとえなんらかの「制度」が必要であることがあったとしても、
中心に「制度」がそびえているというのはやはり違う。

もちろん今後、そうした「お金」への意識がどうなっていくのかはわからないが、
おそらく全世界的な形での原発見直しの流れと同じくか、むしろそれ以上に、
人間が「お金」というものを見直すきっかけになる可能性を秘めているように思える。
人は外的な「制度」では変わらない。
世界の変容は、一人ひとりの内なる変容の連鎖が
重なっていくことでしか起こらない。

しかし、世界では、こうした動きの対極にあるような、
民族運動や紛争なども火の手をあげていたりする。
そうしたことも含めて、このところこれまで隠されていたさまざまなことが
次々と明るみに出たり、現象化したりし続けているように見える。

そうしたことが何を教えようとしているかに注意深くありたい。