風のDiary
2011.3.7.Mon.
酔いがさめたら、うちに帰ろう・・・なんて

一年に一度、この時期、高知まで高速道路を飛ばす。
「高知バッハカンタータフェライン」の演奏会である。
今年で第14回目。

第1回目の1998年には、ぼくはまだ30歳台。
それ以降、ずいぶんバッハの受難曲やカンタータを聴くようになった。
バッハ・コレギウム・ジャパンのCDシリーズもずっと続いていて、
現時点で47枚目。
あと数枚で完結というところまで来ている。

月並みな言い方になるが、
長かったような、つい先日のことのような・・・。
残念ながら生まれる前のことは覚えていないけれど、
少なくとも生まれてからいままでというのも、
長かったようでもあり、またあっという間でもある。

もし記憶というものが持てなかったらどうだろう。
記憶があるからこそ過去ができる。
そしてその過去に基づいて未来がやってくる。

小川洋子の『博士の愛した数式』には
記憶が80分間しか持続しない元数学者がでてくる。
しかしそこには数学を愛しているという初期設定は残っている。

もしぼくがそういう状態になったとして、
そのときの初期設定はどうだろうと考えてみるが、
それが生まれてからどの時点での初期設定なのか、
はたまた生まれる前の初期設定なのかと考え、迷路に入ってしまう。

それはともかく、たかだか数十年の記憶である。
すべて覚えていたとしてもたいしたこともない。
だからすべて忘れてしまったも似たようなものだろう。
どちらにせよ、酔っているようなものだ。

ちょうど、DVD発売の情報が目に入った。
『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』という
東陽一監督、浅野忠信、永作博美出演の映画である。
内容はとくに知らないけれど、題名を見てふと思った。

ぼくの、この「酔い」が覚めたら、
いったいどんな「うち」に帰ることができるのだろう。
とも思うが、
しかし、「帰る」というのはどうなんだろう。
どうもぼくには、「帰る」というのはいまひとつピンとこない。
生まれてからあとの故郷的なものも、
生まれるまえにいたであろう故郷的なものも、
どこか違うような感じがする。

「帰る」というと、どうしても過去を向いてしまう。
そこでは未来もまた投影された過去になる。
そうではなくて、おそらく「うち」は今以外にないのだろう。
だから、いま「うち」にいない人は、
いつまでも過去と未来にそれを投影して探すしかない。
おそらく「酔っている」というのは、
そういう投影のことをいっているのではないか。

とはいえ、こうしてまだまだ酔っているぼくは、
なにがしかの「故郷」のようなものを夢見ているところも
少なからずあるのかもしれない。

まあ、酔っているからこそ、こうして生きているわけなので、
それはそれで、楽しんでみるのも一興だということにしよう。
少なくとも自分が酔っていることを思い出しながら。