一年に一度、この時期、高知まで高速道路を飛ばす。
「高知バッハカンタータフェライン」の演奏会である。
今年で第14回目。
第1回目の1998年には、ぼくはまだ30歳台。
それ以降、ずいぶんバッハの受難曲やカンタータを聴くようになった。
バッハ・コレギウム・ジャパンのCDシリーズもずっと続いていて、
現時点で47枚目。
あと数枚で完結というところまで来ている。
月並みな言い方になるが、
長かったような、つい先日のことのような・・・。
残念ながら生まれる前のことは覚えていないけれど、
少なくとも生まれてからいままでというのも、
長かったようでもあり、またあっという間でもある。
もし記憶というものが持てなかったらどうだろう。
記憶があるからこそ過去ができる。
そしてその過去に基づいて未来がやってくる。
小川洋子の『博士の愛した数式』には
記憶が80分間しか持続しない元数学者がでてくる。
しかしそこには数学を愛しているという初期設定は残っている。
もしぼくがそういう状態になったとして、
そのときの初期設定はどうだろうと考えてみるが、
それが生まれてからどの時点での初期設定なのか、
はたまた生まれる前の初期設定なのかと考え、迷路に入ってしまう。
それはともかく、たかだか数十年の記憶である。
すべて覚えていたとしてもたいしたこともない。
だからすべて忘れてしまったも似たようなものだろう。
どちらにせよ、酔っているようなものだ。
ちょうど、DVD発売の情報が目に入った。
『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』という
東陽一監督、浅野忠信、永作博美出演の映画である。
内容はとくに知らないけれど、題名を見てふと思った。
ぼくの、この「酔い」が覚めたら、
いったいどんな「うち」に帰ることができるのだろう。
とも思うが、
しかし、「帰る」というのはどうなんだろう。
どうもぼくには、「帰る」というのはいまひとつピンとこない。
生まれてからあとの故郷的なものも、
生まれるまえにいたであろう故郷的なものも、
どこか違うような感じがする。
「帰る」というと、どうしても過去を向いてしまう。
そこでは未来もまた投影された過去になる。
そうではなくて、おそらく「うち」は今以外にないのだろう。
だから、いま「うち」にいない人は、
いつまでも過去と未来にそれを投影して探すしかない。
おそらく「酔っている」というのは、
そういう投影のことをいっているのではないか。
とはいえ、こうしてまだまだ酔っているぼくは、
なにがしかの「故郷」のようなものを夢見ているところも
少なからずあるのかもしれない。
まあ、酔っているからこそ、こうして生きているわけなので、
それはそれで、楽しんでみるのも一興だということにしよう。
少なくとも自分が酔っていることを思い出しながら。 |