風のDiary
2011.3.5.Sat.
さあ、遊べ

平穏な日々を過ごしている。

とはいえ、物理的に言えばこの2ヶ月ほど
仕事では早朝から終日息も継げないほど忙しい。
さまざまな問題もそれなりにある。

しかし息も継げない自分を見ている意識があれば、
過去からの持ち越し苦労や未来への取り越し苦労も
空の雲や星やさまざまな風景を見ているようなもので、
見ている自分は今そのものにいることができる。
平穏であるというのはそういうことである。

とはいえ、そうした風景は自分ではないというのではない。
風景と自分とは不二である。
嵐になっている自分もいれば、
さまざまな雲になっている自分も、
雨や雪になっている自分もいる。
悲しみや苦しみがなくなってしまうわけでもなく、
むしろそれらはヴィヴィッドな色彩をもってきたりもする。
平穏であるとしても、
痛いときは痛いし、寒いときは寒い。
片付けないといけない問題が減るわけでもなく、
焦ったり、笑ったりしないというわけでもない。
焦るときには思いきり焦り、笑うときには思いきり笑う。

以前は、「中」というのを、
ある種、正・反を合するような
弁証法的な統合をイメージしていたりもしたが、
おそらく「中」とはそういうものであるというよりも、
正や反の成立の前提に意識を向けるものであるのだろう。
正というように見えるものが空の雲のようにあり、
その雲を吹き散らすように見える風のようなものがあるとしても、
そこで必要なのは、そういう現象を成立させている
空全体を自らのものとしていくことのように思える。
だからそれが「合」されるような動きに見えるものは
時間的な現象のように見えるものの投影でもあるのだろう。
おそらくそれらは同時に起こっている。
すべてはそうしたことを遊んでいるのだろう。
遊びが遊びを遊んでいる。

しかしそうしたことを言葉にすることは難しく
このところこのメーリングリストに書く機会を逸していた。
実際のところは、日々は特に、本を読むことも、
音楽を聴くことも、映画を見ることもとくに変わらない。
そうしたことを相も変わらず書くこともできるのだが、
どこかそれらを「遊ぶ」意識がそれらを対象化することをはばかっていた。

以前から変わらず、
基本的にすべては宇宙的な「遊び」ではあるのだが、
その「遊び」がもっと「遊び」になっているとでもいおうか。
そのぶん、これからもっとここでも「遊」べるようになるかもしれない。

神楽に、

朝尋ね 君も神ぞ
汝も神ぞ
君も神ぞ や
遊べ遊べ 遊べ遊べ

というようなのがあるが、
要は、
さあ、遊べ
ということに尽きるのだろう。

さあ、遊べ