ルドルフ・シュタイナー

エソテリック講義の内容から
参加者の覚え書き

GA266

佐々木義之 訳

 


秘教講義 シュツットガルト1-29-1907


記録A

 今日、ここにおられる何人かは秘教講義に出席されたことがない方々なので、私たち全員が行うべき訓練についてのより詳細な理解に向けた探求を行うことにしたい 。たとえそれを私たちに与えられた職務として十分に魂の前に示すことはできないにしても。

 まず瞑想によって本当に何が生じるのかを明らかにしてみよう。精神的な生命の流れはいつでも世界の中に満ちている。これらの流れは、私たちが日常的なことがらについて考えている間は私たちの中に流れ込むことができない。しかし、瞑想の言葉は私たちを精神的な世界へと導く門のようなものである。それらは私たちの魂を開くための力を有しており、感情的な調和や叡智の主である私たちの偉大な指導者の思考がそれによって私たちの中に流れ込むことができるようになる。それが生じるためには、私たちの中で、この上なく深い静けさが支配していなければならない。瞑想とは非常に内密な魂の活動である、ということに気づく必要がある。したがって、目覚めた直後に、そして、他の考えが私たちの魂を通りすぎる前に、私たちの教師によって私たちに与えられた瞑想の言葉が私たちの魂の中に生きるようにしなければならない。とはいえ、それらをあれこれ考えたり哲学したりするための材料と見なしてはいけない。それらの意味や意義についてできるだけ考えないようにしなければならない。瞑想の間はこのことを完全に心の中に留めておくべきである。一日の残りの時間には、内省のための時間が十分にあるのだから。その言葉を無意味に繰り返してはならない。ちょうど花が開いて太陽の光を取り込むように、それらの言葉は神的な存在の流入に向けて私たちの魂を開かせる、ということを明確にしておくべきである。私たちが主と呼ぶ高次の精神的な存在たちが私たちへと流れ下る。私たちを導き、瞑想の中で私たちの近くにいるのは主に彼らである、ということに気づいていなければならない。私たちはまた、彼らが物理的な体をまとって地上を歩く、ということを知っておくべきである。したがって、瞑想の言葉についてあれこれ考えるよりも、私たちの魂の中にそれらが生きるように、つまり、私たちの感情によって言葉の精神的な内容を把握し、それが私たち自身に完全に浸透するように努めなければならない。これらの言葉の力はその考えの中にだけあるのではなく、それらのリズムや音の中にも存在しているので、私たちはこれに耳を傾けるべきである。もし、すべての感覚的なことがらを閉ざしてしまうならば、私たちは言葉の音に逆らうことになると言えるが、そうでなければ、精神的な世界は私たちの中に鳴り響く。非常に多くのことがらが言葉の音に依存しているため、瞑想の言葉を前置きなしに外国語に訳すことはできない。私たちがドイツ語で受け取る瞑想の語句は精神的な世界から直接私たちにもたらされたのである。それぞれの語句や祈りの言葉はオリジナル言語の中でこそ最も効果を発揮する。東部インド人が三つのロゴイの中で彼に顕現する神への敬意を最高度に表現しようとするとき、三つのロゴイの活動を記述する三つの言葉を三回繰り返すことによって彼の感情を要約しようとするが、それは次のような意味となる:

大いなる真実、大いなる善、測りがたきもの、ブラーフマよ
大いなる幸せ、永遠、大いなる美
平和、恵み、分かちがたきもの
オウム、平和、平和、平和。

 しかし、精神的な力の全体的な豊かさはオリジナル言語であるサンスクリット語で語られるときにのみ再現される。そのとき、空気さえもが共振するのが聞こえる。

Satyam jnanam anantam brahma
Anandarupam amritam bibharti
Shantam shivam avaitam
Om, Shantih, shantih, shantih.

 主の祈りにも同じことが言える。ドイツ語で語られた場合、実際に有効なのはその底流にある考えだけである。ラテン語の主の祈りはより効果的であるが、その全体的な力と十全さはオリジナルのアラム語の中でのみ表現される。
 したがって、私たちは言葉の音に聞き入らなければならない。いかなる空間的なアイデアをも遠ざけるかわりに、私たちの感覚に直接結びついた印象を保持しなければならない。通常の人生では、私たちのアイデアは非常に空虚で内容に乏しいものである。私たちはむしろ私たちの思考像に生命をもたらすべきである。例えば、「schoepfen」(描く)という言葉では、まるで絵具壺から絵具壺へと浸しているときのように、できるだけ感覚的−図式的なアイデアを持つようにしなければならない。私たちのすべての思考を内容に満ちたもの、できるだけ絵画的なものにしなければならない。瞑想中は、瞑想の言葉が内的な生命を受けとるようにすべきである。そのとき、私たちはすべての空間的なアイデアを退け、完全に私たちの感覚に依拠するようにしなければならない。なぜなら、物理平面上には空間的な観点があるが、アストラル世界にはそれがないからである。しかし、感覚に結びついたもの、色、光、音、芳香といったようなものはアストラル世界にも存在する。そのため、瞑想においては、できるだけ明確で内容に富む感覚的なアイデアを目覚めさせるようにしなければならない。精神的な存在たちは感覚が知覚するあらゆるもの、つまり、色、音、匂いの中で自らを表現し、彼らの本質を流し込む。そして、私たちが何らかの感覚をもって彼らに結びつくとき、何らかの本質が私たちの中に流れ込む。第一のロゴスは世界の芳香として、直接的に知覚可能な匂いとして流れ込む。それぞれの匂いには、より高次の、もしくはより低次の精神的な本性が生きている。儀式に用いる香の中には非常に高次の善き存在が生きており、私たちを直接神の高みへと引き上げる。ジャコウの中には最も低次の存在が受肉している。以前の時代には、まだこのようなことがよく知られていたので、低次の官能的な誘惑のためにジャコウが用いられたのである。精神的な存在は音や色の中にも生きている。そして、私たちは、私たちの魂の中で、瞑想の言葉をできるだけ色や光あるいは音に満ちたものとして感じるとともに、ますます生きたものとして経験しなければならない。例えば、瞑想の言葉が「純粋なる光の放射の中で・・・」等々で始まるときには、人はそれによって明るく光に満ちたアイデアをもって、いかに光の筋が流れ下るかを見、そして感じなければならない。そのとき、それは全然問題ではない、私たちはできるだけ早く新しい訓練に取りかからなければならない、と言うかも知れないが、それは逆であって、人の魂的な力を示すのは、その汲み取る力をもってできるだけ長くひとつの訓練に留まるときである。それぞれの瞑想の言葉は、十分に長い間行えば、眠っている魂の力を目覚めさせる力を備えている。しかし、いつも新しい訓練を求めていては、訓練の力が損なわれ、実りがもたらされることはない。
 ある初等的な神秘主義の学校では、全く単純な課題が生徒に与えられる。これらによって目的が達成されることは確かにないかも知れないが、そのように単純な訓練もまた、正しく行われるならば、どれほど効果があるかを知ることができる。例えば、ある生徒は毎日15分間、ガラス、ガラス、ガラスについてだけ考えるという課題を与えられる。これは笑い話ではなく、その生徒がその時間の間、どんな他の考えをも彼の魂から遮断するとき、もし、その他の影響がそれほど強いものでなければ、それによってその魂は完全に空で純粋なものとなり、彼の中に眠っている力が目覚めさせられる。したがって、そのように単純な訓練もまた効果的であり得ることが分かるのである。とはいえ、私たちがそのような訓練を課すことはない。私たちの瞑想の言葉は大いなる精神的な力を有しており、それらは精神的な世界への門なのである。今や、生徒が進歩すればするほど、彼に与えられる訓練は単純なものとなる。訓練が単純なものになればなるほど、ますます精神的な力が目覚めることになる。
 さて、夕べの回想について私たちも一緒に話してみることにしよう。私たちは毎夜ベッドに入る前に、その日の像が私たちを通り過ぎて行くように、一日の生活を後から前へと辿ってみなければならない。この関連で重要なのは決して後悔の感情が生じないようにすることである。後悔はいつでも自己中心的なものである。自分自身もっと良ければよかったのにと悔んだり、望んだりするのは完全に自己中心的な欲望を有している者である。もっと良ければよかったのにと望むのではなく、もっと良くあろうと望むべきである。私たちは私たちの一日の生活から学ばなければならない。私たちが何か良くないことをしたときには、それを悔むのではなく、そのときには他にやりようがなかったのだ、将来はそれをもっとうまくやれる、それはもっと良くなる、と考えるべきである。その日の経験から、私たちは次のように問うはずである。私は正しい行いをしただろうか、それをより良く行うことはできなかっただろうか?人はいつも、もっと良くできたはずだ、と思うだろう。そこでやはり特に重要なのは、私たちが外から自分のことを考えたり批判したりするときのように、私たち自身を見知らぬ人のように眺めることを学ぶ、ということである。通常、私たちは日々の生活について、できるだけ明確なアイデアを獲得すべきである。些細なことがらを重要なできごとと同じように思い出すことができることがより重要である。大いなる戦いを戦った将軍はその夜その戦いの像を眼前に持つ。それは自ずと彼の魂にこびりついている。しかし、その日のあらゆる些細なことがら、例えば、どのようにブーツを履いたり脱いだりしたかはもはや思い出せない。そして、重要なのは、その日のできるだけ完全な像を得る、ということである。例えば、通りを歩いている自分を見、そこでの自分を思い出そうとする。街並み、通り過ぎる店のウィンドー、出会う人々、私たち自身はどうだったのか、そのとき、ある店に入っていく自分を見て、私たちを迎えたのはどのような店員で、服装はどうだったのか、どのように話し、どのように動いたのか、等々を思い出す。そのような細かい部分に多くの努力を払わなければならない。そのことが魂の力を強化することになる。
 それには1時間はかかるであろうなどと考えるべきではない。最初は少しだけ思い出し、それから徐々に、より大きな困難を伴って、ますます多くのことを思い出す。そして、実践を通して最終的に達成されるのは、一日の生活全体が壁画のように明晰にすべての詳細に至るまで魂に描かれる、ということである。しかし、忍耐強く努力しなければならない。この訓練はその日の出来事をただ簡単にさっさと繰り返し、淡々と記録するだけの者には全く役に立たない。
 この訓練によって目指すべきは次のようなことである。長い道のりを歩んできた人が、その道の最後に、それまでやり遂げてきたことをできればもう一度知りたいと思うとき、それは二つの方法で行うことができる。第一に、人がこれまで歩んできた道のりに背を向けて立ち止まり、後に残してきたものを思い出そうとすることである。しかし、彼はふり返って、(歩んできた)道のりを眺めることもできる。今、一定の期間を過ごしてきた私たちが、さしあたり過ぎ去った期間を単に記憶によって思い出すだけで、回想しないということもあり得る。けれども、私たちが空間的に認識するこの回想は時間の中においても可能であり、それによって、私たちは過ぎ去った日が私たちの前をできるだけ明確かつ絵画的、図象的に通り過ぎるようにさせることを学ぶ。どんな過去の出来事も完全に過ぎ去ってしまうことはなく、すべてはまだそこにある。それらは私たちがアカシャ年代記と呼ぶものの中にある。その読み方を学ぶことができるのは次のようにしてのみである。最初にそこから知ることができるのは自分に関係のあることだけであるが、次第にそれ以外のことも分かるようになる。夜の回想がそれほど重要で不可欠な訓練であるのはそのためである。
 神秘学徒はそれ自体奇妙な観察を行うことになるだろう。つまり、彼はその記憶がますます悪化の一途を辿るのに少しずつ気づくようになるが、それは全く自然なことである。しかし、それはそれからまたもっと良くなる、より正確に言えば、記憶が消滅し、何か新しいものがその位置を占めるようになる。この新しいものとは過去を直接見る能力である。そのとき、人は通常の記憶をもはや必要としなくなる。
 瞑想と回想以外にも、学徒はまだ特定の補助的な訓練を行わなければならない。それによって彼が新しい能力を開発するというのではなく、彼の魂の性格が強化され、その正しい形態がもたらされるのである。これらの補助的な訓練が行われてはじめて瞑想の効果が現われる。
 第1の補助的な訓練とは、一日に一度、完全に中断されない時間があるとき、自らひとつの考えを思考の中心で揺れ動かしながら、少なくとも5分間はそこに留まることである。ここでは手始めにできるだけ簡単で一見意味のない表現を選び、それについてとそれに引き続いて考えさせられるすべてをゆったりとした展開で考えるようにする。もし、興味深い対象を選ぶなら、思考は全く自然に長い間それに執着する。しかし、例えばマッチ棒を選べば、長い時間それについて考えることができるためには、本当に努力しなければならない。そして、正にこの努力が魂の力を呼び起こすのである。だから、次のようなことについて考える。マッチ棒はどのように見えるか?どのような種類のマッチ棒か?それらはどうやって作られるか?何の役に立つか?どこに保管されるのか?どのような害を及ぼし得るか?等々である。この訓練を一定の期間行うならば、内的な確かさと力強さの感覚を感じるようになる。これは非常に特別な感覚である。これを完全に意識的に行い、そしてそれを水であるかのように頭と脊椎に注ぎ込む。この訓練は少なくとも4週間、毎日行わなければならない。この訓練はよい実りをもたらす、と感じられるまで何カ月もそれを行うこともあり得る。
 第2は、活動におけるイニシアチブの訓練である。正にこの訓練で取り上げたからこそ行うような、そうでなければ行わなかったような活動を選ぶ。それを強いてしなければならないような最も単純な訓練がさしあたりここでは最も有効である。ここでもまた確かさと活動的であることへの衝動といった特定の感情にやがて気づくようになる。この感情を十分に意識しつつ頭部から心臓へと水を注ぐようにして完全に取り込む。この訓練もまた最低4週間、一定の時間に行うようにする。
 3ヶ月目あるいは第2期目の後には、魂の生活におけるすべての変動を終了へと向かわせ始める。天にも昇る喜びから死の悲しみに至るまで、すべてが消え去らなければならない。どんな苦しみも抑うつを、どんな喜びも有頂天をもたらしてはならない。不安、興奮、不信は消え去らなければならない。それによって人は第3の感覚を自分の中に形成する。この静かな平穏の感覚は内的な暖かさのように感じられる。この感覚を心臓に集中させ、そしてそれを手や足の中に、それから頭へと放射させるようにする。
 第3期目の後、人は積極性(Positivismus)と呼ばれるものをその魂の中に形成する。キリストと犬についてのペルシャの伝説が教えているように、人は最悪のもの、最も酷いもの、最も醜いものの中にも、善なるもの、美しいものを見ようとする。だから、人はいつか内的な至福の感覚を感じることになるが、それを心臓部に濃縮し、頭部へと輝かせ、そして、目を通してそれを放射するかのように、そこから目にまで輝かせる。
 5カ月目の訓練では、決して未来が過去によって規定されないようにする。偏見から完全に自由になり、すべてを受け入れ、自らの魂を解放する。もし、誰かが「昨晩、あの教会の尖塔が倒れた」と言ったとすれば、彼を笑うのではなく、「それはやはり自然法則によるものなのかも知れないが、私には分からない」と考えるべきである。そのとき、すぐに何かが外なる空間からその人の上に流れ込むような感覚を受けとるだろう。人はこれを目、鼻、そして皮膚全体からいわば吸収することだろう。
 それから第6期目には、5つの訓練すべてがハーモニーを奏でるように同時に行われる。注意しておかなければならないのは、朝の瞑想や回想によってあまりに大きな時間差が生じないように努める、ということである。
 真の秘教家になろうとする人は誰であれ、すべての人がいつかは達成するものをより短い期間で達成するのだ、ということを明確にしておかなければならない。そして、彼は人類のさらなる発展のためにいつか未来において必要とされることになる、という大いなる使命が彼に近づいていることを決然と思い出すべきである。この考え、この目標が彼の中に生きているのでなければ、彼は真の意味での秘教家とはいえない。そして、彼がそのようにして未来における進歩を内的に達成したとき、過去に対する目もまた彼に開かれるとともに、未来と過去から現在が理解可能なものとなるだろう。そのようにして、過去、現在、そして未来が調和の中で結びつけられるのである。偉大な導師たちはこれを聖なる言葉、AUMで表現した。これはAUMについて可能な多くの説明の中のひとつである。私たちがこの言葉を唱えるとき、偉大な導師たちが私たちと共にそこにいて、空気がこれらAUMの音の精神的な力とともに鳴り響くのである。

 

記録B

 

アシュラ:彼らは第8領界を希求する存在たちである。物質がますます濃縮され、圧縮されることによって、それが再び精神化されないことを、つまり、その原初の状態に戻されないことを望んでいる。彼らは、土星紀に始まり、太陽、月、地球、木星、金星、ヴルカン星へと続く惑星の全発達過程における落ちこぼれである。彼らは今でも月上に住み、そこから人に働きかけて、第8領界に引きずり落とし、段階的な発達とその目的であるキリストをはく奪しようとする。第8領界を希求するものはすべて最終的には月上にその存在が見出されることになる。

AUM:悪い影響を防ぐための呼びかけ。AUMは正しく唱えられるとき、人を創造的な神性に、つまり、人々から神性をはく奪しようとするいかなる邪悪な存在も持ちこたえることができない三つのロゴイに結びつける。AUMは意識的に唱えられなければならない。

高次の自我、すべてがそこから生じる
高次の自我、すべてがそこに還る:
高次の自我、それは私の中に生きている
私はお前を希求する。
自由-自由-自由−AUM

 「お前は悲しみの中で子供を産まねばならない」というのは象徴的な言葉であり、輪廻を通して前進する人間の歩み、それは悲しみを通して達成されるだろう、ということを表している。
 人間は真のキリスト理解を通して、つまり、地球の発展がそこにいるキリストによってそれを理解しようとするところの叡智を通して、自分たちとルツィフェル的な存在たちとを救済する。しかし、それはキリストを「承認」しようとする意識を通してのみ行われる。人間は無意識でも自分たちを救済することができるが、その場合には、ルツィフェルの救済には貢献しない。
 君達は聖霊によって、つまり新しい霊によって教え導かれる。それはそれによってキリストが理解されるような霊以外の霊ではない。ルツィフェルはこの光、つまりキリストの光のトーチを担うものである。彼は第13番目のものとして12のロッジを統括する精神である。
 マナスは知的な自意識であり、人がそれをブッディに結びつけるとき、神的な意識となる。それが可能なのはより高次の自我を担う人だけである。AUMの中にそれが隠されている。
Aはアートマ
Uはブッディ
Mは叡智であって、より高次の自我をAUMへと導く。