ルドルフ・シュタイナー

エソテリック講義の内容から
参加者の覚え書き

GA266

佐々木義之 訳

 


秘教講義 ベルリン1903 or 1904

 「最も深い思考は歴史的、外的なキリスト像と結びついている。そして、それがキリスト教という宗教の偉大なところなのだ。それは、その深遠さにもかかわらず、何らかの外的な仕方で容易に理解することができ、なおかつもっと深くそれに入っていくようにと人を促す。したがって、それはあらゆる発達段階のためにあると同時に、最も高い要求をも満たすものである」というすばらしいヘーゲルの言葉がある。
 キリスト教があらゆる意識段階にとって理解可能なものであるという事実はその発達の歴史から明らかとなる。この宗教は人類が有する叡智についての最も深い教えへと人を誘っている、ということを示すのは精神科学一般の使命であろう。神智学は宗教ではなく、宗教を理解するための道具である。それと宗教との関係は、私たちの数学理論と古い数学の本との関係に似ている。人は自分自身の知的な力で数学を理解し、ユークリッド幾何学の本を参照することなく空間の法則を理解することができる。けれども、人が幾何学の教えを自分のものにすればするほど、人間精神の前にそれらの法則を初めて提示したその古い本の価値をますます認めるようになる。神智学はそのようなあり方をしている。その源泉は文献の中にあるのではなく、伝統に基づくものでもない。その源泉は現実の精神的な世界の中にある。人はその知的な力を発達させようとして数学に取り組むが、精神的な力を発達させるには、それらをそこに探し、把握しなければならない。私たちに感覚世界の法則を理解することができるようにしてくれる知性はひとつの器官、つまり、脳によって担われている。同様に、精神世界の法則を把握するためには、対応する器官が必要とされる。私たちの物理的な器官はどのようにして発達したのか?外的な力、すなわち、太陽の力や音の力がそれらに働きかけたときである。そのようにして、はじめは感覚世界の貫入を許すことがなかった中立的で鈍感な器官から目や耳が発達してきた。そして、それらは本当にゆっくりと開かれていった。私たちの精神的な器官もまた正しい力がそれらに働きかけるとき開かれていくことになる。
 さて、まだ鈍感な私たちの精神的な器官にどのような力が嵐のように入って来るのだろうか?昼間、現代人のアストラル体に押し入って来る力とは、彼の発達を妨害し、明晰な昼間の意識を持つようになる以前に人が有していた器官を殺してしまうようなものである。かつて人はアストラル的な印象をただ間接的に受け入れていた。周囲の世界は像を通して、アストラル世界の表現形式を通して、彼に話しかけた。生きて分化した像や色が、喜びや不満、同情や反感の表現として空中を自由に浮遊していた。その後、これらの色は事物や対象の表面付近に付着し、明確な輪郭を受けとるようになった。このことが起こったのは、人間の肉体がより硬化し、より分化するようになってからである。物理的な光に対して彼の眼が完全に開かれ、精神世界の前にマーヤのベールが下ろされたとき、人のアストラル体は肉体とエーテル体を通して周囲からの印象を受け取り、それらを自我に受け渡すようになったが、そこからそれらは人の意識の中に入ってきたのである。そのことによって、彼は絶えず活動的になった。しかし、このようにして彼に働きかけたのは彼自身の本性に対応した可塑的で形成的な力ではなく、彼の自我意識を目覚めさせるために彼を消耗させ、殺すような力だった。彼は彼と同質のリズミカルな精神世界へと沈潜する夜の間だけは彼自身を新たに強め、それによって再びエーテル体と肉体に力を送ることができた。自我単独の生活、自我意識は、印象の間の衝突から、つまり、以前は人間の中で無意識のうちに働いていたアストラル的な器官を抹殺することから生じてきたのである。死が生命から、生命が死から生じ、蛇の環が閉じた今、以前のアストラル的な器官の死んだ名残の中に生命を点火し、それらを可塑的に形づくる力がこの目覚めた自我意識から生じなければならなかった。
 人類はこの目標に向かって進んでいく。その象徴が蛇であるところのその教師たち、指導者たち、そして、偉大な秘儀参入者たちによってそれへと導かれるのである。それは精神的な活動へと向かう教育であり、したがって、長く困難な教育である。夜、アストラル体が自由になるとき、偉大な秘儀参入者たちがそれを仕上げることができたとすれば、彼ら自身と人間たちのためにその仕事をより容易なものとすることができ、それによって、アストラル的な器官を彼らに刻印づけ、外から彼らに働きかけることができたであろう。しかし、それは人間の夢の意識の内部における働き、彼の自由な領域への介入となり、人間の最高の原則である意志は決して発達しなかったであろう。人間は一歩一歩導かれる。以前には、叡智における秘儀参入、感情における秘儀参入、そして、意志における秘儀参入があった。真のキリスト教はすべての秘儀参入段階の統合である。古代の秘儀参入は告知、すなわち準備であった。人間はグルたちの束縛からゆっくりと、そして、少しずつ自分自身を解放してきた。最初の秘儀参入は完全なトランス意識の中で生じた。肉体の外で起こっていたことの記憶をそれに刻印づける方法が存在していたのである。そのためには記憶の担い手であるエーテル体とアストラル体とを分離する必要があった。それらの両方が叡智の海、「マハデバ」、すなわちオシリスの光の中へと沈んでいった。この秘儀参入は最も深い秘密と隔離の中で生じた。いかなる外的世界の息遣いも間に押し入ることは許されなかった。その人は外的世界にとってはまるで死んでいるかのようであり、繊細な種子が目をくらませる昼の光から隔離され、育てられているかのようであった。
 その後、秘儀参入は秘密の暗闇から明るい昼の光のなかへと踏み出した。人類全体の秘儀参入が歴史的に―さしあたりは象徴的に―感情の段階で、偉大で力強い人物において、つまり、最高の統合する原則を担うもの、すなわち、隠された「父」を表現するとともに彼の顕現でもあり、人間の姿を取ったために人の子であると同時に人類すべての代表、すべての自我にとっての統合する絆となり得た「言葉」を担うもの、生きた精神であり、どこまでも統合する精神であるキリストにおいて生じたのだ。このできごとは非常に力強いものであったがゆえに、それはそれによって生きていたあらゆる人の中に、本当に聖痕が現われるほどまでに、正に最もひどい痛みの中へと作用しつづけることができた。感情は揺さぶられ、その深みへともたらされた。以前にはそれほど力強いうねりとして世界を洪水で充たすことは決してなかったような強烈な感情が生じた。神的な愛の十字架上での秘儀参入の内にあるすべての人に自我の犠牲が生じていたのである。自我の物理的な表現である血が人類に対する愛の中で流されたが、それは、何千という人たちがこの秘儀参入に、この死に向かって殺到し、そして、愛の中で、人類に対する熱狂の中で彼らの血を流れるにまかせる、というような仕方で働いたのである。どんなに多くの血がこのようにして流されたかを十分に強調することなど決してできない、ということに神智学に関わる人たちでさえもはや気づいてはいない。しかし、この血の中で流れ落ち、そして、上昇した熱狂の渦はその使命を全うした。彼らは力強い衝動を与えるものとなった。彼らは人々を意志の秘儀参入へと成熟させたのである。

 そして、これがキリストの遺産である。