シュタイナーノート126

帰依


2006.6.22.

 帰依とは、自分から真実を探求しようとするのではなく、一切の真実を
事物そのものに求めようとする心構えのことです。この態度は、自分があ
れこれの真実を受け取る「時」が熟するまで、待ち続けることができます。
判断は、どんな段階にいても、すぐに真実に達しようとします。帰依は、
あれこれの真実に自分の力だけで達しようとはしません。みずからの教育
に努め、一定の成熟段階に達して、真実が事物から心の中にまで流れてく
る「時」を、心静かに待っています。忍耐強く、自己教育によってみずか
らを成熟させるために働くこと、これが帰依の態度なのです。
(シュタイナー『感覚の世界から霊の世界へ』第二講
 筑摩書房 シュタイナーコレクション2所収 P.43)
*トポスのHPにも佐々木義之さんの訳で「感覚の世界と精神の世界」 全6講義があります。
 http://www.bekkoame.ne.jp/ ̄topos/steiner2/sasaki/GA134/GA134.html

シュタイナーはこの講義で、現実を本当に見通すには、
内面への旅としてまず「驚き」からはじめなければならないといっています。
アリストテレスが哲学のはじまりとして語っている、あの「驚き」です。

しかし、その驚きのあとに「畏敬」の感情が生じなければならず、
そのことで思考の無力を認めたとき「宇宙叡智の法則との一致」が可能になる といいます。
それは、思考を働かせるときには、自分の立場をはなれて、
外界の中に入っていかなければならないからです。
正しい思考というだけでは、外界が真実であるかどうかを決定することはできません。
ですから、正しい思考をしたからといって、これが真実であると判断を急いで はならない。

たとえば、直角三角形の直角をはさむ二辺上の正方形の和は
斜辺上の正方形の面積に等しいというピタゴラスの定理を理解しようとする場合にも、
その「真実を理解できるほどまで魂を成熟させるには、お前はなお、
あれこれの試練を通過しなければならない」というのです。

これは一見ばかげたことのようにも思えるのですが、
実際、「正しく思考」し、これが真理だと「判断」することを
安易に積み重ねることで、促成栽培のように賢くっているとしても、
それらの真実を獲得できるまでに魂が成熟し得ているかが重要です。
本来、なにかを真に理解しようとすると
それはすべてある種の魂の試練であるというこことを知らない限り、
魂の未熟なままに、「現実」との乖離はますます大きくなってしまうわけです。

シュタイナーはこのことについて次のように語っています。
「正しい判断は、私たち自身の魂が一定の成熟段階に達し、
判断の方が向こうからやってくるまで待たなければ、生じません。
正しく判断しようと努力するのではなく、判断が向こうからやって来るまでに
私たちを成熟させようと努力するとき、判断が現実に関われるのです」
そして、その態度を「帰依」とシュタイナーは呼んでいるのです。

シュタイナーはゲーテの例をあげています。

ゲーテは、真実を探求しようとするときには、判断を下すことを避けて、
事物そのものに秘密を語らせようとしました。

事物そのものに語らせるというと、
芭蕉が「松のことは松に習へ」ということでも知られているように、
日本人にはある種非常に親しみやすいのではないでしょうか。
もちろん、親しみやすいというのと、
それを理解し得ているというのとは違いますが。

ここで誤解してはならないのは、
だからといって、思考をしてはいけないということではなく、
常に自己教育を怠らないようにしながら、
「一定の成熟段階」が必要だということ。
「帰依」するのは、自分を放り出すことではなく、
自分を鍛えるということにほかならないのですから。

実際、年を経ることで得ることができる可能性というのは、
なにかを理解しようとすることにおいて、
あまりにも性急でさも自分はなにかを理解しえたという思いこみが、
何度も何度も脆くも崩れ去る経験を積めるということなのかもしれません。
ごくごく単純なことでも、それを理解するということは、
いかに大変なことであるかといいうことを、何度も何度も体験できる。
そして自分の理解していたこと、自分がそう思っていた「現実」が
実際はそうではなかったということが腑に落ちるようになるということ。

シュタイナーが、図式的な理解というのを繰り返し避けようとするのも、
単純化され論理化されファーストフード化された「正しい思考」が
いかに「現実」とは異なったものになり得るかを示唆していることがわかります。
あまりの賢さは、「松のこと」を松に習うのではなく、
「松」という記号やそれにまつわるものに抽象化し、
それを「正しく思考」することで「松」という現実に向かおうとしてしまいます。
「待つ」ということができないで・・・。