シュタイナーノート167
内面の鏡の奥の「破壊のかまど」
2012.3.12

私たちが自分の「内面」を見つめるとする。
見つめようとしない人もいるだろうが、とりあえず見つめるとしよう。
するとそこにさまざまなものが見えはするのは確かなのだけれど、
シュタイナーによれば、それは外的なさまざまなものに対する感覚的な印象や
そうしたものが感情や意志のようなものになったものが
その「鏡」に映し出されているだけだという。
その映し出されているものを私たちは「記憶」として保持していたりもする。

つまり、その内面という「鏡」の前で、
私たちは自分の顔を、姿をその背景などを
そのまま映し出してあれこれ感じ、
一喜一憂したりしているということで、
決してその「鏡」の向こう側を見てはいない。
「内面」といっても、「内」ではなく
意識の外側の姿でしかないということなのだろう。

だからそれだけでは、環境が自分をつくっているともいえないことはない。
そして、環境という要素をインプットすれば自分になるのだから、
環境のせいにして生きるのも正当だといえるかもしれないが、
そんな自分は「私」であるということの意味を持ち得ないともいえる。
つまりは、それだけでは「私」が成立しない。

さて、「思考」は生命力をスポイルするというが、どういうことなのだろうか。
内面の「鏡」に「曖昧模糊とした内的感情」を映し出しているようなことではないようである。

「思考」は古代ギリシアから中世、そして近世へと至るうちに、
外なる自然から切り離され、独自に働くようになったというのだが、
「思考」がそのように独自に働くようになるためには、
内面の「鏡」の奥にある「破壊力」を必要とするということのようである。
「鏡」の奥の深いところで、「物質をカオスに帰し、物質を完全に破壊する」ような
「エーテル体の途方もない破壊力」があって、
それと結びつくことで、私たちの「思考」が発達する。
発達させることができないと、私たちは印象記憶のようなものだけで生きるしかない。
「思考」の発達を拒否して、いつまでも「思考」未満の状態のまま、
つまり人間未満の状態のままいることはできないだろう。
では、「破壊力」でもある「思考」をどうすればいいのだろうか。

必要なのは、自分の内部に破壊のかまどを担っているということを
自覚すること、意識的であることであるとシュタイナーは言います。
自覚されずにその破壊衝動が外に向かうことが問題である。

これはそのまま「悪」の問題でもある。
「悪の自覚」。
私たちは、意識の鏡の奥において破壊的であり「悪」であらざるをえない。
その意味で、自分を善良であるとしか思えないでいることそのものが
逆にその無自覚による「悪」を「破壊」を起こしているということもいえる。
もちろん、「鏡」に映っている自分の内面を見て自己満足することは可能だが、
そこに何が映っているのかについて一度じっくりと考えてみる必要がある。
もちろんそうして「考える」ことそのものが「破壊力」でもある
しかし、その無自覚のために、「破壊のかまど」は外に向かってしまう。

少し話はそれるが、精神医療において、
自覚されない無意識が問題を起こすということはよくいわれることである。
そのために、意識をそこに向けることが必要になると。
もちろんそのことには、途方もない魂の力が必要となる。

その意味で、社会問題にせよ、
なにか問題が起こり、そこに意識を向けること。
自分とは関係のない問題としてではなく、
自分の内面の鏡の奥の「破壊のかまど」の問題としてとらえてみることは、
大変重要なことではないかと思っている。

その意味で、たとえば、原発の問題に対して、
それをただ批判的に見るだけではなく(肯定し隠蔽するのは問題外だが)
それぞれの内なる「破壊のかまど」に対して自覚することにつなげてみると、
見えてくるものがあるのではないだろうか。
逆に言えば、それを避けて解決はないといえるのかもしれない。

*以下、シュタイナー『悪について』から当該の部分を引用。

   「内面の中には何があるのか」、「自己認識によって内面の何が分かるのか」、
  現代の人びとは、こう問いますが、その結果、曖昧模糊とした内的感情にふける
  のがせいぜいです。
   現代の私たちは、問題を通常の意識の中で解決しようとします。しかし、通常
  の意識から取り出せるのは、もともと外的な感覚印象から生じたものや、それを
  感情と意志に転化したものばかりです。通常の意識をもって内面を見ると、外的
  な生活の反映しか見出せないのです。(・・・)外界が私たちの内面にある意識の
  鏡に映し出されているだけなのです。
  (・・・)
   では一体、人間の内面の鏡の奥には何が見えるのでしょうか。
   そこでは、思考内容がエーテル体の中で働いている姿が見えるのですが、その
  エーテル体は、途方もないエネルギーをもって働いてます。
  (・・・)
   物質は、外界では決して完全に破壊されることがありません。ですから近代の
  哲学も自然科学も、質量保存の法則について語るのです。しかし質量保存の法則
  は、外界においてしか有効ではありません。物質は、人間の内面においては、完
  全に無の中に戻されてしまい、物質の本質が完全に破壊されてしまうのです。人
  間のエーテル体は、記憶が映し出されるところよりも内面のもっと深いところで、
  物質をカオスに帰し、物質を完全に破壊することができるのです。
   内面の、記憶の鏡の奥のところに、私たちはエーテル体の途方もない破壊力を
  担っています。もしもこの力を担っていなかったなら、私たちは思考力を発達さ
  せることができなかったでしょう。思考力は、エーテル体のこの破壊力と結びつ
  かなければ、発達できないのです。そして、思考の力と結びついたエーテル体は、
  肉体に作用を及ぼし、肉体の物質素材をカオス化し、破壊するのです。
  (・・・)
   人間の内面のこの「破壊のかまど」に出会ったとき、私たちは精神の発達とは
  何なのか、あらためて考えざるをえません。精神があるべきように存在するため
  には、私たちの内面において、物質を破壊する行為が平行して行われなければな
  らないのです。
  (・・・)
   西洋文明の中で生きている人は、自分の内部に破壊のかまどを担っているので
  す。そして私たちが破壊のかまどであることを自覚できたときはじめて、西洋文
  明の下降する力を、上昇する力に変えることができるのです。
   私たちが神秘学によるこの内面への道を見いだせなかったなら、どうなってし
  まうでしょうか。(・・・)人間一人ひとりの内部で物質を混沌に帰しているこの
  働きが、今、自覚されずに外に出てきて、社会生活をいとなむ人間の本能を破壊
  に駆り立てています。その結果が、西洋文明となって現れているのです。
   このことは今、例えば東欧における破壊行為となって現れています。これは、
  内から外へ投げ出された破壊の発作なのです。未来の人間は、本能に移行した
  この破壊衝動に対して、可能なかぎり意識的であろうとしなければなりません。
  そうすることによってしか、この破壊衝動に対処することはできないのです。
  (・・・)
   人間の内面生活において、思考に貫かれたエーテル体は、肉体に対して破壊的
  に働きかけているのですが、西洋の現代人は、この破壊のかまどを外に持ち出し
  ているのです。このことを正しく認識し、その認識を大切にして下さい。このこ
  とを意識しないでいる人が内面にこのかまどをもっているのは、よくありません。
  大切なのは、この破壊のかまどが自分の中にあることをよく意識した上で、近代
  文明の発展に関わっていくことなのです。
  (シュタイナー『悪について』高橋巌訳 春秋社 2012.2.15.発行/P.57-62)