風のトポスノート835
「朝三暮四」的な論理について
2013.7.23



「朝三暮四」という中国の『列子』や『荘子』にでてくる話がある。
宋の狙公が猿を飼っていたが、その猿たちに「トチの実を朝三つ晩四つ与える」と言ったら怒ったので、「朝四つ晩三つではどうか」と言ったら喜んだという、目先の違いにとらわれて結果は同じであることがわからないことや言葉巧みに人を欺くことを意味する故事である。

故事の本来意味するところは別として、「朝三つ晩四つ」と「朝四つ晩三つ」とは同じではない。「晩」のような「先」のことは保証されないかもしれないか ら、先にたくさんもらっておいたほうが有利かもしれないので、違いがないわけではない。この猿的な発想というのも、その違いのほうを重視したということも 解釈としては可能である。そして、その意識はときに「朝四暮三」どころか「朝四暮二」でも「朝四暮一」でも目先のものをたくさんもらうことを優先するまで になる可能性を持っている。「暮」なんかのことを考えている余裕なんかないというわけである。

おそらく先日の参議院選挙の投票基準であるだろう「経済最優先」というのも、「暮」のことを考えるよりも今食っていくことを優先したいということだったのだろうと思う。「暮」になんか生きてないかもしれないのだから、きれい事や理想なんかいっている余裕はない。

「朝」と「暮」のあいだの時間射程をどのようにイメージできるかでも、「朝三暮四」の選択はさまざまになってくるだろう。「理想」を語るとすれば、多くの 人は、いまは少しがまんしても、未来を選択する必要があるというだろう。世界の人すべてが平和で平等で豊かにくらせるようになればいいということを否定す ることはないだろうと思う。しかし、人によって「待つ」ことのできる「朝」と「暮」のあいだというのは大きくことなってきて、何百年先、何千年先、何万年 先の「暮」を射程におく人もいれば、数年、ときには数ヶ月先にしか「暮」を射程におけない人もいるかもしれないし、極論をいえば、「いますぐ」じゃないと ダメだという人もいるだろう。射程の短い人というのは、なにかをじっくり検討するということが比較的難しいだろうから、いろんなチョイ情報を聞きかじって は「朝三つ晩四つ?そんなのけしからん!」ということを連発し、「朝四つ晩三つ」を疎外するものに矢の矛先をむけたりもする。戦争抑止の方法などにして も、相手が責めてきたらどうするんだ、先手を打たないと取りかえしがつかなるかもしれない・・・と本来の「武」である「戈」を「止」める方向性とは逆の方 向に進んでしまう可能性は高い。

しかし、むずかしいのは、たしかに「暮四」なんかなくなってしまうという可能性は常に存在するということである。ずっと先に射程をおいて経済や平和などを 求めようとしたとき、いまできることはひたすら「理想」のための「待つ」ことや「忍耐」することがきわめて多くなってくる。世界平和というときにも、射程 が長ければ国と国との境を超えようとし人と人という個人のレベルから発想できるが、射程が短いときわめてナショナリズム的党派的になってしまう可能性が高 くなってしまう。「自分を守る」というときの「自分」の置き所が、そうした射程の置き方でずいぶん異なってくるわけである。「いつやるの?」「今でしょ」 という射程が「朝三暮四」的に「いつもらうの?」「今でしょ」ということにシフトすれば、そこにある価値観が「経済最優先」になったりするのも理解はしや すいし、必ずしも否定はできない。多くの人は、自分に都合のいいところだけ「今でしょ」になりがちで、そのシンプルな「論理」というよりは「欲望」はそこ になにがしかの射程のながい理想が介在しないかぎり、さまざまな衣装をもって正当化されやすい。

人を欲望の猿としてみるのか、それとも、食えぬ餅かもしれない理想を掲げる存在としてみるのか。必ずしもどちらがいいというわけでもないし、人のなかには両者が共存しているだろうけど、100%の純粋な欲望の猿になってしまうのは、少しばかり悲しいような気がする。

☆「内田樹の研究室 2013.07.23「参院選の総括」」より引用
http://blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php
「経済最優先」と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である。
だが、日本人が未来の見通しについてここまでシニカルになったのは歴史上はじめてのことである。
それがグローバル化して、過剰に流動的になった世界がその住人に求める適応の形態である以上、日本人だけが未来に対してシニカルになっているわけではないにしても、その「病識」があまりに足りないことに私は懸念を抱くのである。
古人はこのような未来を軽んじる時間意識のありようを「朝三暮四」と呼んだ。
私たちが忘れてはならないのは、「朝三暮四」の決定に際して、猿たちは一斉に、即答した、ということである。
政策決定プロセスがスピーディーで一枚岩であることは、それが正しい解を導くことと論理的につながりがないということを荘子は教えている。