風のトポスノート832
住みにくい人の世をどうやって生きるか
2013.6.12



夏目漱石の『草枕』の冒頭に、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」とある。そしてこう語られる。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」。

「人の世は住みにくい」といっても人によってその「住みにくさ」はそれぞれである。「人の世」を自分にとって住みやすくしようとして、そのなかで支配的な少数者として生きようとする人もいれば、その「人の世」は「そういうものだ」として生きようとする人もいる。外から見ればかなりおかしく見える集団だとしても、そこに生きている人たちがその集団の「そういうものだ」をおかしいと思っているわけではないし、おかしいと思う思い方がある限度を超えればその集団は遅かれ早かれ成立しなくなるはずである。

どの集団のなかにも、その集団の「そういうものだ」を肯定する人と否定する人がいる。肯定する人にとってはその集団は住みやすいだろうし、否定する人にとってはその集団は住みにくいだろう。全肯定しないまでも、仕方ないだろうと思って、少しでもその集団を住みやすくしようと努力している人もいるだろう。

そして、それぞれ集団の「そういうものだ」は、外から見ればどんなにおかしくみえても、その集団の内部においては必ずしもおかしくみえるわけではなく、そのおかしさこそがその集団にとっては最重要なことであることもあるだろう。それは、「神がそう定めた」ということかもしれないし、「国民は愛国心をもたなければならない」ということかもしれないが、とりわけ集団がその集団の「外」との関係でみずからの存在を規定しようとするとときに拝外的なあり方をとったりもする。たとえば、「よそものかどうか」という基準で集団の「そういうものだ」を強化したり。「そういうものだ」を肯定したい人にとっては、それこそがみずからのアイデンティティーを強化する格好の手段となる。

さて、南直哉の「恐山あれこれ日記」 2013/06/10に《「理念」の毒》という「少数の者が多数の者を圧倒的に支配する」要件とそれを避けるための必要な努力についての話がある。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2013/06/post_8996.html

そこでは、「独裁」、「体罰」、「いじめ」、「カルト」など、圧倒的支配を可能にする以下の5つの要件が挙げられている。

・集団が閉鎖されていること
・支配者側が暴力を実際に動員できるか、あるいは、動員できると被支配者側に信じさせること
・被支配者側が分断されていること
・支配者側が、支配によって一定の具体的利益を受け続けること
・支配者側が「自分たちのしていることは正しい」と信じることができ、被支配者側が「この支配は仕方がない」と諦めてしまうような、一貫した理屈を用意すること

そして、そうした社会集団における「圧倒的支配」を防ぐためには、「集団の「目的」や「基本理念」(=「一貫した理屈」)を、特定の条件下でしか正当化されえない、常に賞味期限のある、暫定的アイデアなのだと、メンバーが自覚していること」が必要だとしている。この「自覚」がないことが、「圧倒的な支配」を可能にしているという。従って、これを避けるためには、「「強力な集団」を望む自分たちの心的傾向そのものを相対化する努力をすべき」だという。

考えてみれば、社会集団というのは、外的な「圧倒的支配」であれ、一見そういう「支配」関係が見えない状態であれ、その「集団の「目的」や「基本理念」(=「一貫した理屈」)、もちろんそれが明示されずいわば「空気」のようにその場に行き渡っているような場合も含め、それらがある程度絶対化されることで成立するというところがあるように思える。

「自分たちの心的傾向そのものを相対化する」ことは、ほんとうはとても大切なことなのだけれど、その「相対化」を行うということは、みずからのアイデンティティーとされるものを問い直さざるをえないということにもなるので、最初に挙げた、集団の「そういうものだ」肯定派にとってはその作業そのものが「人の世」を住みにくくすることなので大変困難な作業になるだろう。ただでさえ「住みにくい」人の世が、もっと住みにくくなってしまうということだろうし、最初の『草枕』の言葉を使って言えば「住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ」ということにもなるのかもしれない。なかなかにむずかしい。

ぼく自身はといえば、「とかくに人の世は住みにくい」という気持ちのかなり強く、いつも「そういうものだ」に疑問ばかりをもって生きているほうなのだと思うけれど、だからといって、ただそれに「アンチ」をぶつけようというのでもなかったりする。賛成の反対というのではかならずしもないし、反対の賛成というのでもかならずしもないからだ。こういう生き方というのは、住みにくい世の中をなおのこと住みにくくしてしまうのだけれど、どうもそういう「世の中とねじれた生き方」とでもいえる生き方はなかなか変わらないようだ。「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」と思いながらも、「やはり人の世もなかなかに住みにくい」とぶつぶつと文句を言っているのが関の山なのかもしれない。しかし、少なくともその「世の中」の「そういうものだ」をいろんな角度から観て、それにできるだけ縛られずに、「そうでもないかもしれない」と遊戯できるようであればと願っている。