風のトポスノート831
出来ない楽しみとしての遊び
2013.5.24



昨日ご紹介したところのカヴァーアルバム細野晴臣『Heavenly Music』の最初に、細野晴臣の「天国の調べ」と題された文章があって、それも気に入っているのでご紹介したいと思う。

*以下、引用。
◎今回はカヴァーばかり。映画ならばリメイクか、絵画だったら模写だろうか。パスティーシュ(pastische)という考え方もある。大衆文化のあらゆる様相を模倣し、ごった煮にして再構築する、といったような哲学的な仏語だ。まあ、どっちにしろ真似事だ。しかしそれが楽しい。音を楽しむことを第一義に生きている。で、それを並べてみればあの世の音楽に聞こえてきたのだ。今はもうない音楽。20世紀の初頭から花が咲き乱れるようにして生まれた珠玉の名曲が愛おしい。その優れた作詞作曲家、そしてシンガーの多くはもうこの世にはいなくなってしまった。ぼくにとって天の調べとはヒーリングミュージックではなく、これらの大衆音楽~ポップスだ。その時代の活況や悲哀を込めた空気を写し取った音響の記録。そういう音楽・音響を受け継ぎ、残しておこうと思い詰め、数年前から試行錯誤を重ねた結果、やはり出来ないことがわかった。だが、出来ないということも楽しい。現在を軸に、過去と未来が交錯する。そのちぐはぐな混ざり具合がまた楽しい。
*以上、引用おわり。

この文章のなかでいちばん好きなところは、「だが、出来ないということも楽しい」というところだ。「天上の音楽」は、もうなくなってしまった音響の記録だというが、それが細野晴臣のなかに生きていてそれを「残しておこう」と思ったが「出来ないことがわかった」。だが、楽しい。

その出来ない楽しさ、とてもわかる気がする。すでに天上ではないこの地上で、すでに天上をそのまま表現できないけれど、その「出来ない楽しさ」こそが、地上のかけがえなさを現出させている・・・というふうに感じる。

たぶん、「出来ないこと」というのは、とても大事なことなのだ。「出来ないこと」に気づくことでしか、出来ないことがあって、その矛盾のなかで「ごった煮」の「再構築」をしたりして、遊んだりすること。おそらく、この地上が存在しているのは、そうしてこの地上でしかできない遊びを遊ぶことなんじゃないだろうか。そんなことをこの文章とアルバムに収められた音楽を聴きながら、しみじみと味わっている。