光岡 さっき内田先生が言われたような、自分の楽しみを守るために敵を無化する
というのもひとつの方法だと思いますが、敵自体も楽しみの一部にしてしまうとい
うのもありますよね。合気という考えがそうではありませんか?
内田 そうです。合気道はそうですね。自分の前にいる相手を、可動域を制限する
ものだとか、自分の自由度を減殺するものとかいうふうに考えないで、自分のパフ
ォーマンスを上げるための有用な資源だと考える。この人がいるおかげで自分の心
身の能力が高まる。この人がいて、自分に向かって斬り込んできたり、つかできた
りするおかげで、運動の精度が高まり、運動が速く、鋭く、強くなる。そういうふ
うに考える。自分と自分の環境の関係を対立的にではなく、同化的にとらえる。敵
を無化するというより積極的に資源として取り込んで、自分を豊かにしてゆく。合
気道にはそういう考えがあると思います。
光岡 そのあたりが今の時代だと、もっと試されると思います。相手を取り込むこ
とは、まず自分というものがないとできないですよね。
要するに、個々のアイデンティティーや自分の文化をちゃんと持っていないと自
分自身が揺らいでしまう。自分が揺らいだら自分の見ている世界が全部揺らいでし
まうわけです。自分が揺らいでいないところにちゃんと戻れて、そこで初めて自分
が見ている世界というものがどういうものが気づける。
今の世の中で自分に戻るための手段として、私の場合は武がありますが、ほかに
何かあれば、それでもいいわけです。だから上泉伊勢守とか柳生石舟斎とか、達人
と言われた人たちが現代に生を享けていたら、たぶん黙々と剣術の練習をしていな
いと思います。
内田 絶対していませんね。
光岡 それこそ原子力について勉強したり軍事力の研究をしつつ、それらが生み出
す問題を回避する研究も合わせて進めていたと思います。本来はそういうところも
含めて、武ではないでしょうか。
(内田樹×光岡英稔『荒天の武学』/P.56-57)
敵をつくるかつくらないか。
わかりやすくいえば、あるベクトルがあるとする。
敵というのはそれとは逆方向のベクトルである。
自分が勝つにせよ相手が勝つにせよ、
その両者のベクトルの合力はかなりの場合、相殺されてしまう。
勝ちー負け、賛成ー反対、好きー嫌いetcというのは、
その意味では、かなり不毛な部分がある。
この世界の基本は、我ー汝というふうに、逆のベクトルをもっている。
そして我ー汝があるゆえに、この世界が存在しているともいえる。
我というベクトルを進めていけば、逆のベクトルの汝に出合う。
そもそも我が成立するのは、逆ベクトルの汝があってこそというところがある。
ラカンの鏡像関係でもわかるように、私が私であるということが最初に成立する際には、
「他者」がなければ成立ができないという矛盾をはらんでいるのである。
そして「他者」によって成立した「私」が、また「他者」に向き合うということになる。
おそらくその二重性のなかで、さまざまな関係性が生じてくる。
あるベクトルの力を強めようと思えば、
そのベクトルの方向性に近い力をベクトルとして作用させていく必要がある。
単純にいえばそうだが、
世の中を見てみると、自分の向かうベクトルとかなり逆を向いているベクトルに対して、
吠えかかる人たちが多いのに気づく。
fecebook的にいえば「いいね!」の反対の「嫌いだね!」だろう。
fecebookがときにとても気持ち悪いのは、
その「いいね!」の合唱を仲良しでやっているのと対照的に、
その「いいね!」そのものの発信内容がよく
「嫌いだね!」「反対だね」になっていることだろう。
もちろんその内容が正当かそうでないかということはここでは問題ではない。
ロラン・バルトは『文学の記号学』のなかでこう言っている。
「あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。
それはたんにファシストなのだ。
なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、
なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。」
このことを前提にしながら自覚的に言葉(さまざまな社会的態度も含め)は
使う必要があるにもかかわらず、世の多くは、言葉を抑圧するのがファシズムだと思っている。
ひとりにならないで、みんなで協力しましょう、団結しましょう・・・
というのは、その活動が民主的であるかどうかをとわずファシズム的である。
このことを忘れた言動は、強制されたボランティアであるというような矛盾を抱えてしまう。
さて、おそらく上記引用でいう「合気」の考え方は、
そうしたファシスト的なあり方とは逆の方向性をもっているはずだと考える。
二元的な「いいね!」「嫌いだね!」の合唱・輪唱とは異なったあり方。
そうした二元的なあり方のなかでは、さまざまな自分とは異なった考え方、感じ方などを
自分に取り込んでいくことはむずかしい。
それらを「資源」とすることができないまま、ゴミどころか唾棄すべきものとなってしまう。
しかしそこで重要なのは、「我をなくそう!」というような態度ではない。
自分という中心が存在してはじめて、そうした可能性が拓かれていく。
その自分というのは、狭い檻のなかに閉じこもって、
好き・嫌い/賛成・反対を「つぶやき」ながら、
さまざまなものを排除していくような自分ではない。
敵をつくることをアイデンティティーにしてしまうような生き方は、
新たな時代の「武」からみれば、豊かな可能性であるとは言い難い。
とてもとてもむずかしいことなのだけれど、
今自分が「敵」「嫌い」「反対」だと思っているものを
自分の資源に、「楽しみ」にしてしまうような生き方ができないだろうか。
そんなことを、この年末年始はずっと妄想しながら過ごしてみようかと思っている。 |