風のトポスノート827
道徳と倫理:対症療法と免疫力
2012.12.14



道徳と倫理の違いというのは、自明のことのように見えて、
その実、さまざまなところで取り違えられているところが多いように思う。
両者の違いを簡単にいうとすれば、
道徳は強制からくるものであり、倫理は自由からくるものであるということができる。
その両者の違いを認識しないがゆえに、
さまざまな行き違いや勘違いが生まれることが多いように見える。
「よかれ」という気持ちがあるとしても、それがどのように働くかによって、
まったく逆の働きさえ生んでしまうこともあるのではないだろうか。
ある同じように見える行動があるとしても、「~すべきだからする」というのと
「~したいからする」というのとは、似て非なるものである。

シュタイナーの『自由の哲学』は、人智学においては基本認識のひとつでもあるのだけれど、
そこで「道徳的想像力」とされているのが「倫理」のことである。
「道徳」という訳の問題もあるが、そこに「想像力」とついているところが重要である。
『自由の哲学』に書かれていることは、ときにむずかしく感じる方もいるかもしれないが、
とても単純なことであって、そこで提唱されている思考一元論が
感情神秘主義や意志の形而上学と対比されているのは、
ある意味、現代においては、モーゼの十戒のように外から与えられる他律的な道徳ではなく、
内的な自由から、つまり純粋思考的な内的直観による自律的な倫理が重要であるということにほかならない。
つまり、「善を為せ」「悪を為すな」というように
命令や禁止や義務的な表現をとるのが道徳であるのに対して、
「善を望む」「悪を望まない」というような自発的な内的直観が倫理である。

シュタイナーは、古代ギリシアにおいては神々の形で外から働きかけるようなものが、
現代の人間においては内的に働き得るようになったという意味のことを言っているが、
必ずしもそうではないことが、「道徳」と「倫理」の違いとなって現れているともいえる。
「道徳」とはある意味で、外的に働いている神々の代わりに望まれているものなのだろう。
「法」というのも、その意味で、固定化した神々の働きであるということができる。
その「法」が行動規範のような形であらわれているのが「道徳」なのだろう。
「道徳」として説かれている内容そのものがいかに素晴らしいものであったとしても、
それが外から働く場合と内から働く場合とは、その働きはずいぶんちがってくる。

教育観においても、「自由にさせるとなにをするかわからない」という発想から、
さまざまな「ルール」や「やるべきこと」でがんじがらめにして、
「善を為せ」「悪を為すな」というふうにする方向性と、
自由に基づいて自律的なあり方に向かう方向性とがある。
もちろん、その両者のどちらかが正しくてどちらかが間違っていると言い切れるものではなく、
後者においても、なんらかの形で外からの指導ということは必要になる。
しかし、「倫理」的な方向性ではなく、「道徳」を「植えつけ」ないと大変なことになる、
という発想は、人間の可能性を信じそれを広げるという発想ではないだろう。
つまり、ある意味「性悪説」にもとづいている。
従って、その方向性にある人間は、おそらく自分についても、
放っておくととんでもないことをしそうだから、外から縛ってくれ!!という欲求をもっているともいえる。
そして自分もそうなのだから、他の人もそうであるに違いないと思っている。
「道徳」を必要として、それを自分にも相手にも
外から働かせようとするということはそういうことである。
たとえ、その人はさまざまな徳目をとても大切にしたいと思っている素晴らしい人であっても、
それを外から「~せよ」「~すべきである」「~するな」「~すべきでない」
というような形で与えないと、
人は自由において「道徳的想像力」である「倫理」を持ち得ないと思っているわけだろう。

だから、政治的な方向性としても、放っておくとどうなるかわからない
という「恐れ」や「不安」からさまざまな態度がでてくる。
そしてそこから「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典的な行動が展開される。
その発想からさまざまな論法や実際の行動が展開されていく。

このことは、医療においても、道徳と倫理は、
対症療法と免疫力と比較することができるのではないだろうか。

対症療法は、症状を抑えるために外的な働きかけを重視する。
それに対して免疫力を高める方向性は、内的な働きかけを重視する。

もちろん、生命に危険のあるときには対症療法的な処方が必要となるだろうが、
すべてを対症療法的な発想でいくと、人間は免疫力を限りなく後退させていかざるをえない。
薬漬けでないと生きていけなくなる。
ある意味、「道徳」というのはそうした対症療法的な「薬」である。
「薬」は必要であるが、薬は新たな薬を必要とし続け、
薬そのものが目的になってしまう状態になりかねない。

もちろん医療も、道徳と同様に、人を病気にさせるために存在しているわけではなく、
人を救うために存在しているのだけれど、免疫力を育てたり、内的倫理を育てたりする方向を
ときに大きく疎外してしまうことを忘れてしまうととんでもないことになりかねない。