風のトポスノート826
選挙と態度についての覚え書き
2012.12.11



世の中に蔓延しているように見える「恐れ」と「不安」と
それが導き出すであろう結果に対してどういう態度をとるか

16日の選挙が近づくにつれ、いろんなことを考える。
判断材料はたくさんあるように見えて、必ずしもそうでもないことがわかる。
世界観が見えない。
というよりも、表面的なところは紋切り型で分かりやすいのだけれど、
その向こうにあるものがほとんど見えない。
そして、メディアの姿勢もなにを考えているのか、
やはりなにも考えていないのか、わからない。
そしていちばん見えないのは、いわゆる世論である。

多くの人は何を判断材料にして選挙に臨むのだろうか。
もちろん、ぼく自身も。昨今の極右化はどうして起こっているのか、
また、実質どの程度の割合なのかわからないが、その反対の見方はどうして起こっているのか。
ぼく自身の考え方はもちろんあるが、それを外して見てみると、
それら両者の多くを支配しているのは、「恐れ」と「不安」なのではないかと思う。

その「恐れ」と「不安」がいくつかの方向に向かっている。
それが「国」を守ろうという方向に向かうか、「いのち」を守ろうという方向に向かうか。
「国」も「いのち」もどちらもわかりやすそうに見えて、
その実とても抽象的であいまいで、そして感情的・感覚的である。
ときにどちらのことばも、ぼくには気味悪く感じられるときがある。

「国」レベルの「私たち」も「私」もあれば、「いのち」レベルの「私たち」も「私」もいる。
それらにはそれらなりの心情・真情があるのは確かだが、
その背景にある世界観はどういうところにあるのだろう
。それが見えない。
というよりも、目の前の「抽象的であいまいで、そして感情的・感覚的」なものの「向こう」にあるものが見えない。
世界観が見えず、「極」をめぐってレミングの大移動をしているようにも見える。
危険だといえば、それが危険である。
だから、少なくともその「極」に振れすぎた傾向には注意したいと思っている。

選挙には必ず行くようにしているので、今回も同様だが、
2012年の終わりを迎え、2013年へと向かう選挙であるのもあって、
これまでにはあまり見なかった部分を見てみることに。
投票結果には反映できない部分でも、意識することで、
ほんの小さなことでも世界には反映され得るのだという信念も持っていたいと思う。

そのひとつが「最高裁判所裁判官国民審査」。
これまでは、情けないことに裁判官の名前を見ても
無知のためまったく判断できずに、印をつけないで投票していた。
今回はいくつかの基準で判例の実績を見て判断することにした。
君が代の問題と極刑の問題をとくに見てみようと思って今いろいろ見ている。
見てよかったと思う。
もっと見てみようと思っている。

そしてもうひとつが、選挙とは直接関係ないが、
ほんの小さいことからでも自分にできることをやろうということ。
そして判断基準として、極端な方向性をとりすぎないということと、
ある行動が自分のどんな世界観を背景にしているのかをできるだけ意識するということ。
「国」も、そして「いのち」についても同様に。

選挙の結果は、それはそれででるだろうし、危険な方向に行くこともあるかもしれないが、
自分でできる身近なことだけでも、ある種の意思表明はできるし、
ある意味、それがいちばん自分にとってもっとも大切なことで、
それが、世の中に蔓延しているように見える「恐れ」や「不安」に対する
大切な態度ではないかと思っている。