「きれい」を表現する新しい言語がほしいと切実に思っている。この際、記号
であってもいいのだが、仮に、「内実をA、表象をB」としよう。そのバラン
スの「黄金比」は当然、「A=B(きれい)」となる。しかし多くの場合、
「A<B」となっているのも現実だ。内実=Aに比べて表象=Bが肥大化した
時、それを表現する言葉として僕が適用できる言葉はむしろ「醜い」しかない。
しかし一般的に「きれい」という言葉が適用されるのは、表象=Bに対してだ
から、表象の美を「きれい」と呼ぶ世間と、まず内実ありきと考える僕との基
準に齟齬が生まれる。僕が感じる「きれい」と、世間一般の信じる「きれい」
の基準が異なり、同じ「きれい」という言葉を使って評することができない。
自分にとってはまず内実ありきが「きれい」で、表象ありきはむしろ「醜い」
ことである。
(・・・)
創作の是非を下すのは「自我」である。しかし自我は盲信できるほどに完全
なものではない。われわれは皆、自分の不完全性をわかっている。しかしいざ
書店やコンビニでファッション誌の表紙に目をやれば、そこには容姿に対する
絶対的な支配感覚、「わたしは美しい」という自覚に充ちた表情の発する自我
の異臭が漂う。
その自信に満ちた表情が悪いのではない。どの雑誌を眺めてみても画一的で
あることを美しく感じないのである。それは被写体を通じて、作り手チームの
精神や、彼らが長きにわたり抱えるガラパゴス的価値観、その「画一的な思い
込み」を投影しているからである。そのような美に対する偏向した念いは、広
く世界へ目を向け、新しい未来を生みだそうとするポジティブな内実とは言い
難い。だからこそそれらの表紙たちから、A(内実)よりもB(表象)が肥大
化した、「A<B」という醜い化け物のような印象を受けるのである。
(柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.34-37)
コピーライターの仲畑貴志の有名なコピーに、
「知性の差が顔に出るらしいよ…困ったね」(新潮社・新潮文庫)というのがあった。
知的に見えるファッションとか、知的に見えるアイグラスとか、あるが、
ただの表象部分で知的に見えたりはしない、むしろアホに見えてしまう。
そうした部分で知性的に見えるとしたら、それは需給が一致した場合、
アホがアホを見るがゆえに成立する表象にほかならない。
やたらブランドものを持ちたがるとかいうのも同様だが、
そうしたなかで成立する関係のなかでは、それはそれなりなのだろう。
そして、世の中ではそうしたものが大きなマーケットになっていたりもする。
知性に限らず、それはもちろん
「きれい」についてもいえることだ。
内実の伴わない表象だけの「きれい」は「きれい」には見えない。
むしろ「醜さ」が際立ってしまう。
これは、歳を経るにつれて、
ますますぼくのなかで確信に近くなってきている美意識でもある。
「ヴァニティー」が「ヴァニティー」と見える。
それだけのことなのだけれど。
これはなかなか人に説明しにくい基準ではある。
外見が整っているとして、それはそれで否定できないのだが、
だからこそ、それにともないそうもない内実が見えてしまうと、
それがむしろひどく醜く見える、それが説明しがたいところなのだ。
けれど、表象はきれいでないけれど、内実はきれいというのも、ちょっと違う。
内実はどこかで透けて見えるように感じる。
「きれいの差が顔に出るらしいよ…困ったね」、といったところだろうか。
そして一般的な整い方としてきれいな表象をもっているとされ、
内実とのあいだにギャップがある場合、醜さが強調されてしまうというか。
しかし、内実<表象を醜い化け物だとさえいうのは、ちょっとすごい。
けれど、ぼくの実感でもある(よくぞ言ってくれた!という感じ)。
気になって誕生日を調べたら、柘植伊佐夫は水瓶座でした。 |