風のトポスノート811
内実を磨く(「自分をデザインする」ノート3)
2012.6.28



   変な言い方だが、「似合わない」格好をしていることが、相手に与える安堵
  のような精神状態は、まんざら捨てたものでもない。着こなし程度で覆い隠さ
  れたりしない、その人の本質へのリスペクトが起動していることが大切なのだ。
  周囲の人間や特定の相手に好感を覚えられるためには、当人の主観的な着こな
  しやスタイルのアピールより、その人間の内実を、たとえば着ているものや持
  ち物を通じて感じてもらうことのほうが、よほど効果的だろう。そのためには、
  服やメイクより内実を磨いたほうがずっと早いのに、というのが、この身も蓋
  もない結論なのだ。
   たとえば20世紀初めのプロイセン、ラインラント地方で、アウグスト・ザ
  ンダーによって撮影された「舞踏会へ向かう3人の農夫」というモノクロ写真
  がある。3人ともシルクハットにスーツ、ステッキと盛装で、どこかぎこちな
  さそうにしている姿は、なんともチャーミングだ。僕の考える「美」のひとつ
  は、どうやらこのあたりにも存在しているらしい。農民たちの内実があり、そ
  の彼らがおめかしをしていることとの間にずれがある。それは僕らが今考えて
  いる、ある人が新しいデザインを自分の中へ取り込む時、こなしきれない不器
  用さや唐突さを感じるのだけれども、その人自身の深みや内実によって、似合
  わないことも含めて好感を持たれる、そういうあり方と通じるのではないだろ
  うか。
   自分をデザインしていくためには、まず表象とはまったく関係のない内実の
  充実、研磨を必至でやっていくことが必要だ、というのが、今のところの僕の
  第一の見立てである。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.30-31)

ビールを飲むために、それ専用のビアグラスを使う。
もちろん、ビアグラスでも趣味の良いものに越したことはない。
ワインを飲むために、ワイングラスを使う。
同じく、いい感じのワイングラスだと心地いい。
そして、ビールもワインも、個性的で良質のものがいい。

しかし、ビールを飲むために、ワインを飲むために、
ビアグラス、ワイングラスを必ずしも使う必要はない。
井戸の茶碗で飲んだっていいし、
安物のただの茶碗で飲んだっていい。
それはそれなりだ。
ビアグラス、ワイングラスで別の飲み物を飲んだってそれもいい。
そうした「ずれ」を楽しむこともまた一興ということだ。
「似合わない」器で飲むことで得られる興がある。

大事なのは、まずは中味である。
中味だけよければなんでもいいわけではないけれど、
好きな飲み物でなければ、どんな素晴らしい器を使っても、美味しくはないだろう。
愛するワインであれば、好きなぐい飲みで飲んでみるのも、
またその「ずれ」が美味しさを引き立ててくれることもある。

先日、個性的な蕎麦猪口(そばちょこ)をいつくか買って、
それで珈琲を飲んでみたりした。
これがなかなかいい感じでくせになる。
でも、大事なのは好きな豆の珈琲をちゃんと入れるということだ。
好きな珈琲豆を見つけるということだ。
好みに合わないものだとそんな気にはなれない。