風のトポスノート809
アイデンティティー(「自分をデザインする」ノート1)
2012.6.28



  「自分を規定する器=アイデンティティー」について考えてみる。たとえば
  現在の子供たちは生まれた時からネット環境が身近にある。スマートフォン
  を持って生活をしている。ふと疑問に思う。彼らは複数のアイデンティティ
  ーをコントロールする術を身につけているのか? その複数のアイデンティ
  ティーを統一する「個」があるのか?
  (・・・)
   僕自身はそういう状況に対してアンチの立場である。アカウントの複数所
  持派ではないし、Twitterを使っていた頃は実名顔出しでおこなっていた。
  「自分で責任は負うよ」ということである。しかもやがてアカウントのみな
  らず、使用するソーシャルネットワークの複数所持すらも自己分化に思え、
  これを止めた。根本的には複数のアイデンティティーという発想自体が苦手
  なのである。多分、最終的にそれが「機能的ではない」のを直観しているか
  らかもしれない。
  (・・・)
   1960年代のベトナム戦争のころの雰囲気と、今の原子力災害のイメージ
  というのは、僕にとっては非常に重複している。そして、あのヒッピームーブ
  メントのような空気感が、自分の中に甦っている。中学生、高校生のころ、
  「自分というものは何者でもない」ということが、ひとつの輝かしい何かだっ
  た。何者でもないこと自体がアイデンティティー化しているような感じは、い
  まの自分に極めて近い。
  (・・・)
   いま僕らは、国や世界が変わっていく最中にいる。だから、自分がどこにい
  て何をするか、ということについて、少し変えなければならないと思うのだ。
  国家がこんなに揺らいでいる中で、そこで生きている人間は、どういう安定性
  を保ったらよいのか、ということを考える。自分のことを追求していくのも社
  会への貢献なのだが、他に自分がどういう貢献ができるだろうとも思ったりす
  る。(・・・)
   国と個人という関係や、属することと自立することのイリュージョンを自分
  のなかでどう解釈するか。(・・・)そのしっくりする場所を探すというのが、
  僕にとって「自分をデザインする」ということのひとつでもある。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.18-24)

アイデンティティーという言葉は曲者である。
さも、自分が自分であることが固定的で変わらないものであるかのように
イメージさせられてしまう。

「私であること」(自我)は、常に発展途上である。
シュタイナーによれば、自我はこの地球紀になってはじめて、
この地上で人間に付与されたとても新しい構成要素でしかない。
つまり、自我はやっと「種」が植えられたところなので、
これから芽を出し、茎を伸ばし、葉をつけ、花を咲かせていく、
といったプロセスの端緒にあるにすぎない。

人間を永遠の相のもとでみるという視点は重要にはちがいないが、
こうして生きている私たちにとっては、
この「私」の展開を歴史的なプロセスにおいてとらえるということが重要になる。
シュタイナーのいう「キリスト衝動」もまた同様である。
その一回性と歴史性というのを取り間違えたときに、とんだ錯誤を導いてしまう。

さて、こんなに幼い「自我」をもっている私たちにとって、
「自分を規定する器=アイデンティティー」をどのように「デザイン」するかということを、
いまの自分の「私」というありように基づいて、
プロセスにおいてとらえようとすることは大変重要な問いかけになるだろう。

そんななかで、たしかにネット環境における
「複数のアイデンティティー」というのは、大変むずかしい問題を投げかけている。
幼い「私」さえちゃんとしていないのに、それを複数使いこなそうというのだから。
ぼく自身のネットでのあり方をあらためてとらえてみると、柘植さんと似ている。
KAZEというのはもちろん本名ではないけれど、ネットではそれだけで通している。
しかも、ブログだとかTwitterだとかいった展開さえしていない。
もはやひどく古式ゆかしく保守的になってしまった、
メーリングリストホームページのままほとんど変わっていない。
面倒だったというのもあるが、「自分を規定する器=アイデンティティー」の展開として、
どうしても必要だとは思えなかったからのように思う。
しかも、ぼく自身、上記にもあるように、
「自分というものは何者でもない」というのは基本的にある。
ぼくはぼくだけど、ぼくという存在を「売り」にだそうという気はさらさらない。

逆説的なのだけれど、
「自分というものは何者でもない」ということが耐えられないがゆえに、
強烈に「自分が自分が」と主張しようとしたり、
「複数のアイデンティティー」を使おうとしたりするのではないだろうか。
シュタイナーがカルマ論関係でよく言っているが、
「自分は○○○の生まれ変わりである」ということで
(○○○はもちろん歴史的な有名人)
自分が何者かであると妄想するのも似たようなことだろう。
シュタイナー関係でも、人智学関係者が20世紀末に転生するといったとかで、
自分もそうかもしれないと思い込もうとするのも同様である。

そんなことは実際のところどうでもいいことだ。
「ぼくがぼくであること」というのは、
「自分というものは何者でもない」がゆえに成立しえるのだ。
この逆説のなかでしか、自我は成長していかない。
つまり、自分という器は、「何者か」であると固定化されたところで、
その成長が阻害されてしまうということだ。
「自分というものは何者でもない」がゆえに、
限界を設けず「自由」に、「器」を可能性にむかって開くことができ、
その「器」としての自分を成長させることができる。
「自分をデザインする」ということは、
そういうことでもあるのではないか、と、
とりあえず、いまのところ考えておくことにしたい。