風のトポスノート805
夢と覚醒
2012.5.29



   睡眠薬と練炭を使った首都圏連続不審死事件は、『東電OK殺人事件』以来、
  久々にアドレナリンが噴出する事件だった。
   所在を進めるに従い、これまでまったくなかったタイプの殺人事件だという
  ことがわかって、魂が激しく揺さぶられた。
   『東電OL殺人事件』の渡辺泰子が、大堕落した〝聖女〟だったとすれば、
  この事件を起こした木嶋佳苗は、悪魔に魂を売り渡したとしか思えない〝毒婦〟
  だった。
   殺人事件はふつう、加害者と被害者の濃厚な関係に起因している。とりわけ
  男女関係をめぐる殺人事件なら、原因は痴情か怨恨かと相場は決まっていた。
   ところが、この殺人事件には、加害者と被害者の間に濃厚な関係があったど
  ころか、関係そのものがあったかどうかさえ疑わしい。
   それはネットを使った殺人事件ということに、おそらく大きく関係している。
  人類が二十世紀末に手に入れたこの新しい情報伝達ツールは、世界中の人びと
  を瞬時に結びつけた。
   こうした新しい情報環境の中では、痴情や怨恨といった人間の「素朴な激情」
  は、電子信号が激しく行き交う情報の激流の中に押し流され、人を殺す動機の王
  座からすべり落ちてしまったのではないか。
   インターネットの爆発的普及の中で、人間関係の希薄化は急速に進んでいる。
  こうした世界史的なうねりが、最初に起こした大きな出来事の一つが、この事
  件だったように思えてならない。
  (・・・・)
   首都連続不審死事件はもっぱら木嶋佳苗という超弩級の女犯罪者の事件として
  扱われている。
   だが私はむしろ、木嶋の殺され、金をだまし取られ、冒涜され、手玉に取られ
  た情けない男たちの群像劇としてこの事件を描きたかった。
   それはこの事件を悲劇ではなく、喜劇として描くということと同じである。悲
  劇より喜劇のほうがずっと真実に近く、お涙頂戴の悲劇より格段に恐ろしい。
  (佐野眞一『別海から来た女/木嶋佳苗 悪魔払いの百日裁判』
    2012.5.25.発行/P285-286)

ほとんど関係ないはずなのだが、
ぼくはこの本を読みながら、「3.11後の哲学」を扱っている
大澤真幸の『夢より深い覚醒へ』(岩波新書2012.3.6発行)と
どこかで共振しながら読んでいたように感じている。

そのタイトルになっている『夢より深い覚醒へ』というのは、
「3.11の出来事は、われわれの日常の現実を切り裂く(悪)夢のように体験された。
その夢から現実へと覚醒するのではなく、夢により深く内在するようにして覚醒しなく
てはならない。」という趣旨。
だから、共振とはいっても逆対応の共振なのだが。

「首都圏連続不審死事件」は、その逆の道を辿ったときに現れる一つの光景である。
私たちは「現実」にさまざまな「道徳」「倫理」を持ち込みながら生きている。
「道徳」「倫理」といったものは必ずしも適切かどうかはわからないが、
少なくとも、心で思っていること、妄想していること、欲望していることなどを
そのまま現実化しないようにして生きている。

「善きこと」にせよ、「悪しきこと」にせよ、
心の現実はそのまま世界の現実にはならない。
そのことで私たちはむしろ、守られている。
もし心で思ったことが比較的簡単に現実化されるとしたら、
とんでもないことになるだろう。

しかし、なにがしかの思い・欲望などを現実化しやすくするのが、
「金」であり、「権力」であり、そして「技術」であるといえる。
そこではある種のストッパーを演じているものが無効化されがちである。
そこにも、それなりの「道徳」「倫理」は働くわけだが、
その働き方は、最初から制限されているときに比べ、
自覚的にそれらを働かせないかぎり、暴走する可能性を秘めている。

「首都圏連続不審死事件」は、ヴァーチャルなネット環境がなければ、
起こりにくかっただろうし、殺人の手法も簡単には得られなかった可能性は高い。
それに、佐野眞一のいう、成熟とはほど遠い中高年男性の「喜劇」が結びつく。

技術は、それまでは不可能だったある種の「夢」を現実化する。
そして、その技術をどのように使うかは、
それなりの規制はあるとしても、原則的には使う人に委ねられ、
そこにさまざまな使い方が生まれる。
それまで夢の世界でしかなかったものが、多くの人に共有されるものとなる。
しかしそれは新しい「道具」が手に入ったということであって、
「夢」が覚醒へと導かれた結果そうなったというわけではない。

それは、刃物を使いこなせるかどうかわからないままに、
みんなが刃物をもってしまった状態であるともいえる。
刃物を料理に使いなどすれば役に立つものになるが、
ときにそれは殺傷にも使われ得る。
技術というものはそういう側面をもっていて、
原子力というのも同様である。
それは刃物が人を殺傷する以上の悪夢に向かっても開かれている。
そしてそれを管理する人物が、「覚醒」しているかどうかは問題にされない。

「首都圏連続不審死事件」にせよ、原発事故にせよ、
それが示唆しているものの一つは、
私たちは「技術」を手にする際に、
みずからの魂にどれだけ向き合えるかを問題にしないかぎり、
悪夢になりかねない夢のなかでますます無意識に
身を委ねてしまうことになるということではないだろうか。
その悪夢のような無意識は、ある種の「技術」や「金」、「技術」などによって
現実化されてしまう可能性をもっている。

無意識だからどうしようもないのだという着地点が選択されることも多いが
そのことで現実化されたしまったのが、原発事故であり「首都圏連続不審死事件」なのだろう。
そこまで大きな事件にはならないとしても、
私たちの身近にも放り出されてしまった無意識の現実化現象は夥しくある。
すべてにおいて「覚醒」していることは不可能だろうが、
私たち一人ひとりに可能な「覚醒」の範囲はそれなりにあるはずである。
その部分において、私たちはある種の
「試し」にあっているということもできるかもしれない。
どこかからやってくる「試し」ではなく、
みずからの深みからやってくる「試し」である。