風のトポスノート803
忠臣蔵と中心の虚から
2012.5.2



なぜ忠臣蔵なのか。
正直いって、ぼくにはまったくわからないのだが、
面白い解釈があったので、ご紹介しておきたい。
なんと、『忠臣蔵』は、「天皇制の政治力学と構造的に同一」だというのである。

   すべての『忠臣蔵』ヴァリエーションが一つの例外もなく共通して採択している物語要素が
  あれば、私たちはそれをこそ忠臣蔵的な物語の本質と名指すべきであろう。
   さて、驚くべきことだが、そのような物語要素は実は一つしかないのである。
   数知れない『忠臣蔵』ヴァリエーションの中には「松の廊下」の場面をカットしているもの
  があり、「赤穂城明け渡し」をカットしているものがあり、極端な場合には「討ち入り」の場
  面をカットしているものさえある。だが、絶対にカットされない場面がある。
   それは「大石内蔵助/大星由良之助の京都の茶屋での遊興の場面」である。
   そこから私たちはこのエピソードこそ、それ抜きでは『忠臣蔵』という物語が成立しなくなる
  ぎりぎりただ一つの物語要素だと推論できるのである。
  (・・・)
   あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない
  役作り条件が課されている。
   それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。
   『忠臣蔵』というのは「不安」のドラマなのである。大石という、仇討ちプロジェクトの総指
  揮者であり、資源と情報を独占して、浪士たちの生殺与奪の権利をにぎっている人物が何を考え
  ているのか、わからない。
  (・・・)
   「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安の
  うちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大
  化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するよう
  に日本人の集団が力動的に構成されている。
   たぶんそういうことなのだ。
   だから、それが天皇制の政治力学と構造的に同一であることに私はもう驚かない。
  (内田樹の研究室 012.05.02 「忠臣蔵のドラマツルギー」より)

ぼくのイメージする『忠臣蔵』は、
「松の廊下」であり「討ち入り」なのだが、
それらがカットされているヴァリエーションがあるというのに驚いた。
たしかに決してカットされないエピーソードこそが、物語のコアにあるというのは肯ける。

それが、「何を考えているのか、わからない男」、大石内蔵助のシーンだというのは笑えるが、
河合隼雄の『中空構造日本の深層』にも示唆されていたように、
「中心が虚」であることが、日本の日本人の深層であり本質なのかもしれない。
だからこそ、「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」大石内蔵助のシーンは
欠かすことができないというわけである。

河合隼雄は、『古事記』に登場する三神
タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、
イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、
中心に置かれているはずの神であるにもかかわらず、
無為の神としてしか扱われていないという。
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神である
海幸彦/ホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、山幸彦/ホオリノミコト(火遠命)
についても、中心に位置するホスセリノミコトの話は神話にはほとんど展開されない。
そういうことから、日本神話は、中心にエホバのような絶対神が置かれるのではなく、
無為の神を中心にして、神々が微妙なバランスをとって共存するという
中空構造をもっているとしたのが『中空構造日本の深層』である。

だから、日本人の意思決定において責任主体のない場合が多く、
意思決定の主体が「中空」であり「虚」になる。

主体的だとか非主体的だという話は別として、
内田樹の示唆でなるほどと思ったのは、
「中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように
日本人の集団が力動的に構成されている。」
という点である。

「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」という状況が
パフォーマンスが最大化し得る状態だとしたら、
逆にいえば、日本人のパフォーマンスを最大化させようとするときには、
「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」状況をつくりだして、
「終わりない不安」の状態に置くことが効果的だということになる。

そういう意味で、実際はほとんど内容がないとしても
小泉純一郎だとか石原慎太郎のような人物が中心にいてあれこれ吠えて、
それを頼もしく思って票を入れるような状況よりも、
「何を考えているのかわからない」ような「虚」の人材が中心にいるほうが、
ひょっとしたら日本人のパフォーマンスは最大化するのかもしれない。

だとしたら、とくに震災後・原発事故後の今のような時代の右往左往は、
日本人のパフォーマンスを最大化させるには、とても重要になるのかもしれない。
それが単なる「討ち入り」のようになってしまうと情けないが、
そこから新たな時代への想像力が生まれる原動力になれればいいと切に思う。
そしてそれが、『忠臣蔵』の代わりに年末になると共有したくなるような
物語になればと思う。

面白いことに、日本の年末はこの『忠臣蔵』のほかに
ベートーヴェンの『第九』がもてはやされる。
『第九』の「歓喜の歌」の歌詞はシラー作である。

「何を考えているのか、わからない男」の話と歓喜の歌。
「手術台の上の ミシン と こうもり傘 の出会い」よりも面白い。

大石内蔵助が、O Freunde!!と歌っているところを想像してみる。
なかなかに笑える。