馬鹿になりたい。
中途半端な馬鹿ではなく大馬鹿になりたい。
正確にいえば、馬鹿、大馬鹿を隠さないでいられる自分でありたいと思う。
少し油断をすると、賢く格好良く見せようとふるまう自分がいる。
そうすればするほど、その逆になってしまうのはとても恥ずかしい。
恥は心の耳と書く。
自分を聞くと自分の馬鹿が響いてくるのだろう。
若い頃、馬鹿になりたくない自分がいた。
それはそれで必要なことだったかもしれない。
しかし知れば知るほど知らない自分に気づく。
脳は偽装する。
意識できるのはほんの一部でしかない。
そのほんの一部が、世界をなんとか自分にとって都合の良いようにしようと、
四苦八苦、七転八倒する。
その四苦八苦、七転八倒は、意識できない部分の意図なのかもしれないが、
それはともかくとして、意識できる部分が意識できる自分の部分を偽装してどうなる。
そんなことを思うと、少々の賢さは馬鹿の上塗りでしかないことに気づく。
しかしその上塗りで生きているのが常である。
そしてその上塗りは外から見るとすぐにわかる。
その外から見る自分がいれば、馬鹿を隠しても仕方がないことがわかる。
面白い言葉に出会った。
「馬鹿であることを期待されている」という言葉。
そう、私たちはほんとうは、
自分の馬鹿、アホに出会うことこそ望まれている。
「君には、我々が気づかないこと、知らないままで平気でいることを見つけてくれる
可能性があるんだろう。問題点を指摘してくれる、それを期待されている」
(・・・)
「つまり、馬鹿であることを期待されている。頭の良すぎる奴が逆ギレして〝じゃあ、
何がわからないんだ〟と訊いてきているようなもんだな。できる限りアホみてえなこ
とを言い出してくれないかな、と」
(上遠野浩平『私と悪魔の100の問答』講談社2010.10.27発行/P.37)
そういう意味では、
自分の馬鹿を積極的に発見すること。
それこそが馬鹿を上塗りしないための有効な手法だともいえる。
そこに問いの可能性も生まれる。
それは自分に新たな関数を付加することでもある。
自分のなかに新たなカオスとそこからの創造の可能性を付加すること。
それは隠されているものの扉を開く道でもある。
そして実はその扉などほんとうはなく
隠されていることなど何もないことがわかる。
ただ見たくなかっただけなのだ。
馬鹿になって、そして見ること、それが始まりである。
そんなことを、生まれて半世紀以上経ってようやく深く実感している。
ああ、馬鹿になるだけのために50年以上かかるのだ。 |