僕たちの世界にはときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」が
入り込んできて、愛する人たちを拉致してゆくことがある。だから、愛す
る人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、境界線を
見守る「センチネル(歩哨)」が存在しなければならない……というのが
村上春樹の長編の変わることのない構図です。
『コンスタンティン』は『アフターダーク』と同じく「センチネル」を
めぐるお話です。
(・・・)
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとでどこかでほかの
誰かが困るような仕事があります。そういう仕事は、特別な対価や賞賛を
期待せず、ひとりで黙ってやる。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙
々と積み重ねることでしか「邪悪なもの」がこの世界に湿潤することを食
い止めることはできない。そういうものなんです。
実は、僕たちの平凡で変化のない日常生活そのものが、気づかないうち
に「世界の運命」に結びつけられ、世界の運命を決している。そのことを
実感するからこそ、村上春樹の小説の中での「センチネル」たちは、家を
掃除したり、アイロンがけをしたり、パンの耳をきちんと切り落としたハ
ムサンドを作ったりします。
(内田樹『うほほいシネクラブ/街場の映画論』
文春新書 2011.10.20発行/P.36-38)
この「センチネル(歩哨)」で思い出したのが、
道元が宋に渡ったときの阿育王山の老典座の話。
道元の「あなたはなぜ座禅をしたりしないで台所仕事をしているのか」という質問に対して、
老典座の答えは、「自分に任された仕事をしっかり努めることが修行である」というもの。
「センチネル(歩哨)」は、修行という位置づけではないのだろうが、
ある意味、この世界で私たち一人ひとりができることは、それしかない。
そして典座的な役割も、私たちすべてが担わざるをえないもののはずだし、
さらにいえば、修行場というような閉じた場所でなされるのは、
かつての時代はまだしも、現代でのそういうあり方はある種の堕落でしかないだろう。
この世界は、謎に満ちている。
その謎に立ち向かうための方法はさまざまだろうが、
だれにでもできる方法がその歩哨であり、日常での典座だろう。
もし、「超越的に邪悪なもの」が入り込み、
そしてそれが「世界の運命」に関わるのだとしよう。
そのときにできるもっとも重要なことこそがそれだろう。
たとえば、石原吉郎のこんな詩のように。
世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ
さて、キアヌ・リーブス主演の映画『コンスタンティン』の主人公は、
地獄からルールを超えてこの世にやってくる魔物達を退治するという仕事をこなし、
最後に、明らかな「自己犠牲」へと至ることで、自らが救われることにもなる。
そしてヘヴィースモーカーであることをやめて煙草のかわりにガムを噛む。
最初からルーティーン化された自己犠牲は美しいとはかぎらないが、
地獄の底にかかわりながら、意志によって自己犠牲へと至る姿は美しい。
映画でも、ほとんど役割を自動化された天使ガブリエルは、
結局、神によって翼をもがれて人間になり、はじめての肉の傷みに顔をゆがめる。
しかし、それでもルーティーン化されたような「教え」を飽きもせず口にする。
そういう意味でも、歩哨も典座も自動化した役割であってはならないのだろう。
その底に地獄を垣間見るような、そんな魂の陰影を必要とする。
そのとき、「日常」は単なる「日常」ではない。
「日常」こそが、「世界の運命」に関わるものとなる。 |