風のトポスノート795
デザインとしての神秘学
2011.10.25



スティーブ・ジョブズが亡くなってさまざまな特集なども組まれている。
長くMACを使っているのもあって、スティーブジョブズの発想には
同時代的に少なからず、そして否応なく影響をうけていると思う。

MacFanの2011/12臨時増刊号『追悼スティーブ・ジョブズ』に
「アップルデザインの本質とは何か?」という
「ジョブズのデザイン哲学」についてのページがある。

ジョブズは、京都を訪れるとき必ず老舗旅館の「俵屋」に泊まるそうだ。
「俵屋」といえば思い出すのは、村松友視の『俵屋の不思議』である。
旅館に泊まる味わいなどには皆目音痴ではあるが、
ぼくにしてはめずらしく興味を惹かれたので覚えている。
「俵屋」と「アップルデザイン」。
どこに共通点があるのだろうか。
「アップルデザインの本質とは何か?」から引いてみる。

   俵屋では(…)、ご主人が月ごとの部屋の構成や料理、職人への指示などを
  すべて行っている。それは、寝具や石鹸などのアメニティにまで及び、彼の審
  美眼にかなうものだけが置かれるのだ。
   これは、どこかで聞いたような話ではないだろうか? そう、このご主人の
  役割は、アップルのすべての製品企画から広告、直営店の内装にいたるまで、
  あらゆることに関わり、決定を行うジョブズに通じるものがある。
   こうした旅館では、あらゆる気遣いをして宿泊客を和ませ、快適な滞在の実
  現のために努力するが、決してその気遣いや努力を客に悟られることがない。
  それが、もてなしの極意だからだ。
   アップルのデザインもそれと同様に、「もっとも難しいことの1つである」
  シンプルさを実現するために、あらゆることに気を配り、微妙な位置の調整や
  サイズのバランスなど、細かなこだわりが随所にちりばめられている。しかし、
  最終的な成果物がその結果としてあまりにすんなりとユーザに受け入れられて
  しまうため、一般の目にそうしたこだわりが気づかれることはほとんどない。
   考えようによっては、アップルはデザインを通じてユーザをもてなしている
  のだといえよう。ただ、そのもてなしは単に心地よいとか目に優しいというだ
  けではなく、メッセージを伝えるという明確な目的にもとに行われているのだ。
  ・・・
  「見た目がよいとか。感覚的に優れているというだけでは十分とはいえない。
  デザインとは、きちんと機能するかどうかが大切なんだ」(スティーブ・ジョブズ)

日本で「デザイン」といえば、原研哉という名前をぼくは思い浮かべるが、
上記のジョブズの言葉にもつながるものがあるのではないかと感じながら、
ちょうど岩波新書から刊行されたところの
『日本のデザイン/美意識がつくる未来』(2011.10.20発行)を読んでいる。
本書で述べられている著者の基本的な考え方が「まえがき」にも書かれている。

  こうなりたいと意図することがデザインであり、その姿を仮想・構想すること
  はデザインの役割である。潜在する可能性を可視化し、具体的な未来の道筋を
  照らし出していくこと、あるいは多くの人々と共有できるヴィジョンを明快に
  描き出すことこそ、デザインの本質なのである。

この「デザイン」という言葉を
具体化された、もしくは可視化された理念として理解することもできるかもしれない。
そしてそれを「神秘学」と関連づけてみるのも面白い。

デザインは「かたち」である。
世界は「かたち」に満ちている。
「かたち」には働きがある。
その働きを可能にしている宇宙的な叡智がある。
その叡智をそして神秘、謎に分け入っていくのが「神秘学」ではないか。
もちろん、その「かたち」には、「生命」も、「感覚」、「感情」も、
「思考」や「自我」も含めて考えることができる。
そしてそれらを「こうなりたい」という意図のもとに育てていく。

原研哉は、かつてデザインを「欲望のエデュケーション」として位置づけた。
「欲望」は「希望」という言葉で表現することもできるが、
あえて「欲望」という言葉を使ったのは、
「教育するという視点に加えて、
潜在するものを開花させるというニュアンスが含まれているから」だという。
さらに原はこうも言っている。

  欲望を勝手気ままに振る舞わせてはいけない。マーケティングの用語で「ニー
  ズ」という言葉があるが、ニーズはとかく「ルーズ」になりがちである。欲望
  はルーズなニーズとして育てられてはならない。そこにけじめや始末を付ける
  のが文化であり美意識である。デザインはそこで働かなくてはならない。

「生命」、「感覚」、「感情」、「思考」、「自我」。
そうしたものも「ルーズ」に育てられたのでは、美しくはならない。
地球紀から木星紀の時代へと向かう準備としても、
そこには明確な「デザイン」が不可欠である。
だからこそ「神秘学」が必要とされる。
そうでなければ、「欲望」は「勝手気ままに」振る舞ってしまう。
「潜在するもの」をどのように開花させるか。
開花させるためにはなにが必要か。
その視点を提供する役割を担うことのできるのが、
「神秘学」としての「人智学」であればいいのだが・・・。