風のトポスノート793
リトル・ピープル
2011.9.5



村上春樹は『1Q84』ではじめて父を登場させ、
そのなかで主人公と父との和解を描いている。
エルサレム賞の授賞式のスピーチでも、
自分の「父」とその死についてふれていたりもする。

ぼくにとって「父」とはいったい何だろう。
そんなことを考えてみる。
ぼくの父は、とうに亡くなっているが、
どんな影響をぼくに及ぼしただろうか。
ある意味で、反面教師だはいえるかもしれないし、
そのせいもあるのかもしれないが、
自分が「父」になるということはまったくイメージできない。
ある意味、「父」と捻れの位置にあるという感じもする。
これは、「父」ほどではないとしても、
「母」についてもある程度言えることでもある。
「兄」もいるが、同様で、
ある種「血縁」だからといって、特別な感情にふりまわされるということは少ない。
ネガティブというのでも、ポジティブというのでもとくにない。
(「父」については少しだけネガティブなところがあるかもしれないが)
だから、世の中であれこれ「父」や「母」について交わされる感情のさまざまは、
今ひとつ実感がわかなかったりもする。

「血縁」、とくに「父」「母」「子」といった関係は、
ある種の神話関係だともいえるところがあって、
その神話のなかに自分をどのように位置づけるかによって、
その関係性のとらえかた、喚起される感情なども大きく変わってくるのだろう。
「父」がだれであろうが、「母」がだれであろうが、
今の自分は自分なのだから、それで自分が変わるわけもないのだけれど、
そうでない「神話」を生きている人はずいぶん多いように見える。
「ルーツ探し」とかいうのも、ほんとうにどうでもいいことだとしか思えないのだけれど、
ある種の「神話」のなかでは、それも特別なことになったりもする。

そんなことを考えながら、「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」、
いわば、大きな父と小さな父について考えてみる。
そのきっかけになったのは、宇野常弘『リトル・ピープルの時代』。
現代、すでに大きな父は「壊死」して久しい。
すでに、宇宙の彼方からウルトラマンがやって来て、
人類を救ってくれる、というような神話的思考は「壊死」して久しいのだ。
今や、私たち自身が「リトル・ピープル」(小さな父)になって、
「仮想現実」ではなく「拡張現実」を生きる時代である。

以下、宇野常弘『リトル・ピープルの時代』から。

ここででてくる「壁」と「卵」の話は、エルサレム賞の授賞式のスピーチで
こう語っていることに対応している。
「「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
私は常に卵側に立つ」ということです。」
村上春樹は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に典型的に見られるように、
壁の内側にいる「世界の終わり」と外側にいる「ハードボイルドワンダーランド」の世界を分け、
そのなかで、「デタッチメント」をかつては選択していた。
それが、「オウム」の事件以降、「コミットメント」を指向するようになる。
もちろん、そんなに単純なシフトではない。

   「デタッチメントからコミットメントへ」ーーそして春樹はそんな「新
  しい時代」に対峙すべく「転向」した。「壁」と「卵」を再び分断するた
  めに。そうすることで、新しい姿(システム)を得た「壁」から「卵」を
  守るために。再び「倫理」だけではなく、「正義」の問題を扱い始めたの
  だ。
   かつて村上春樹は、こうした私たちの外側に「悪」を置き、内側に「正
  義」を置く立場から撤退=デタッチメントした。しかし今は翻って、「壁」
  と「卵」の間を分断し、システムを私たちの外側に置こうとしている。そ
  れも、極めて強い意志をもって線を引こうと=コミットメントしようとし
  ているのだ。
   ここで問われているのは、もはや「倫理」(個人の問題)ではなく、お
  そらく「正義」(世界の問題)だ。「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕
  はない」ーー『1Q84』の章題のひとつとして選ばれたこの台詞が端的
  に示すように、単一のビッグ・ブラザーからのデタッチメントが壊死し、
  無数のリトル・ピープルたちのコミットメントへと春樹は展開した。
   リトル・ピープルーー同作に一種の超自然的な存在として登場するそれ
  はビッグ・ブラザーが壊死した後に生成した新しい「壁」のかたち、シス
  テムを生む力を象徴するものである。
   リトル・ピープルとは、私たちを囲む「壁」=システムから生成する存
  在だ。それは決して私たちの外側にある巨大な存在ではない。むしろ「卵」
  =私たちの生活空間と一体化し、目に見えず、そして私たち自身の生が絶
  えず増殖し作りかえている存在だ。もはや世界にはひとつの大きなものに
  複数の小さなものが立ち向かう、という分かり易い構造は存在しない。む
  しろ、無数の小さな存在が無限に連鎖し、そこの連鎖が不可視の環境とし
  てシステムを形成している。もはやビッグ・ブラザーのもたらす縦の力、
  内部に蠢く無数のリトル・ピープルたちの集合が発揮する不可視の力こそ
  が、現代においてはときに「悪」として作用する「壁」なのだ。大きなも
  のから距離を取り、解体していくことではなく、偏在する小さなものにど
  う対するか、接するか、用いるか。無数に蠢くリトル・ピープルたちにい
  かにコミットするかーーそのモデルを提示することこそが、現代における
  「正義/悪」を記述する作業に他ならない。
   具体的に春樹の知性は今そんな新しい世界において、再び「壁」と「卵」
  を(リトル・ピープルという「悪」の名指し=コミットメントによって)
  切り分けようとしている。そして、私見だがその試みはうまくいっていな
  い。だが、その挫折にこそ今語るべきことが存在する。
   それは言い換えれば、新しい壁=システムという「巨大なもの」をめぐ
  る想像力が、この世界にはまだ足りていないことを意味している。春樹と
  は異なり、「壁」と「卵」をもう一度切り分けるのでは「ない」方向で、
  「壁」という巨大なものを描く想像力を手に入れることはできないのかーー
  それが私の考える「もっと本質的なこと」だ。
  (宇野常弘『リトル・ピープルの時代』幻冬舎 P.19-21)

宇野常弘は、本書で、
「村上春樹の想像力が、世界に追いつかれつつあるのではないか」といっている。
そのことをぼくが確かに理解しているかどうかはわからないが、
同じ感覚をぼくも『1Q84』を読みながら実感していた。

大きな父が壊死した。
もう、ウルトラマンはやってこない。
かつて改造人間として作られた仮面ライダーも、
今では、ある種のバトルロワイヤル的な状況のデータベースを生きている。
『リトル・ピープルの時代』の表紙には、仮面ライダーが載っているのが、
本書で紹介されている「仮面ライダー」のなんと興味深いこと。
この「仮面ライダー」について説明するのがむずかしいのと、
村上春樹についてぼくの感じている「母なる女性」像についての
ある種の「違和感」のもとにあるものにも言及されていて好都合なので、
以下、書評を少し引用してみる。

   『1Q84』で村上が描いた「リトル・ピープル」こそは、意図も顔も
  持たずに非人格的な悪をもたらす「システム」の象徴だ。今必要なのは、
  制御不能におちいった「原発」のような巨大システムに対する想像力なの
  だ。
   しかし宇野は、村上作品に頻出する、男性主人公の自己実現のコストを
  母なる女性に支払わせるというレイプ・ファンタジー的な構造を批判する。
  その構造に潜むナルシシズムが、リトル・ピープルの悪を隠蔽してしまう
  からだ。
   ここに至って、本書の中核をなす二つのテーゼが示される。
   「私たちは誰もが『小さな父(リトル・ピープル)』である」、そして
  「リトル・ピープルとは仮面ライダーである」と。(・・・)
   かくして、本書の白眉は第2章、平成仮面ライダーの分析である。かく
  も異様な虚構世界が子供たちの人気を博していたという事実を、あなたは
  知っていただろうか。たとえば『仮面ライダー電王』の主人公は、敵であ
  るはずの四体のモンスターを自らに憑依させ、四つの人格を切り替えなが
  ら敵と戦うヒーローなのだ。
   仮面ライダーの「変身」を、「いま、ここ」を多重化する身ぶりと読み
  替えた宇野は、現代を仮想現実ならぬ「拡張現実の時代」とみなす。大筋
  で異論はないが、しかし一点だけ。
   現実を多重化するレイヤーの中にすら、例えば「ナショナリズム」は回
  帰する。大きな物語は終焉せず、矮小化されて反復されるだろう。宇野の
  奔放な想像力は、たとえば同じく文学的想像力をなナショナリズムの解毒
  に用いるスピヴァクの『ナショナリズムと想像力』などで補完される必要
  があろう。
  (斎藤環・評:宇野常弘『リトル・ピープルの時代』
   平成23年8月28日 朝日新聞)

「仮想現実」から「拡張現実」へ。
であるならば、その「現実」をどのように「拡張」するか、が重要になる。
「「いま、ここ」を多重化する」というならば、
その多重化の仕方がなによりも重要になるはずだ。
そこに、「倫理」(個人の問題)と「正義」(世界の問題)の錯綜を解くための
視点も見いだしていく必要がある。
「いま、ここ」を多重化するための想像力が、
世界観そのものの変容へと向かわないとすれば、
「父」も「大きな父」であろうが「小さな父」であろうが、
また「母」も「大きな母」であろうが「小さな母」であろうが、
その「拡張」された現実は、閉じた世界観の中で閉塞するだけになってしまう。

村上春樹が「井戸」の底で「壁」を通底させるのは、
「男性主人公の自己実現のコストを母なる女性に支払わせるという
レイプ・ファンタジー的な構造」を導き出すためであるはずはない。
たとえ、『1Q84』の多重現実で、女性主人公の青豆が、
不思議な神話的状況のなかで天吾の子どもを生むとしても、事情は変わらない。
『1Q84』で天吾が痴呆の父と和解したとしても、それは果たして和解なのだろうか。

世界観が変わらない限り、原発の問題も同様である。

2011年6月9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチで村上春樹は、
「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です」
「『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならない」
と語った。

もし、「『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たち」について語るなら、
『効率』や『便宜』という名前を持つ世界の神話を作り替えるものが必要になる。
そうでなければ、「ノー」ということはできない。

神話がまだ「父」にこだわり、「母」にこだわり、
『効率』や『便宜』にこだわっているとしたら、
その神話のなかにいまだ生きているのだとしたら、人はそのままでは生きていけない。
ジョゼフ・キャンベルに「神話」に関するさまざまな示唆があるが、
そうした示唆をさらに超えて、新たな世界観の獲得のための神話形成が
必要になっているということではないだろうか。

人は「死」ひとつとってみても、
ひどくとざされた世界観のもとで苦しみをなめている。
その世界観のゆえに、臓器移植が容認され、臓器を売買して恥じない人が後を絶たない。
「お金」もそう、「血縁」や「民族」もそう、
そうしたあらゆる「現実」を変容させ大幅に「拡張」する世界観の変容が不可欠である。
「リトル・ピープル」が無数にうごめくのは、
世界観を変えないままで拡張された「現実」の隙間なのではないだろうか。
井戸の底からそんな「現実」に通底しようとしてでてくる「水」は
決して「天」とはつながらず、悪くすれば、出てくるのは地下の放射性物質なのではないか。

人は、「天」と「地」のあいだを生きる自由の可能性を持った存在である。
その「自由」は、「リトル・ピープル」を召還する弱さをもった「自由」ではありえない。
みずからの内なる「悪」を抱えながら、人は井戸の底から天を観、
天空の星たちを見定めながら、大いなる「拡張現実」へと通底していかなければならない。
そこでこそ、花は紅となり、柳は緑となる。