風のトポスノート791
聞くことと話すこと
2011.8.18



   私たちの声帯は、具体的に声を発声しなくても、「震える」のです。例えば、
  声を出さずに本を読んでいるときにも、声帯は振動しています。つまり目という
  視覚的な感覚器官は喉と直結しており、もし私たちが声帯の振動を止めてしまっ
  て読書するなら、字面だけの連続としての読書になってしまうでしょう。特に母
  語を獲得しようとしているときの幼児においては顕著な現象ですが、幼児は母親
  の「語りかけを聞く」だけで、自分の声帯を震わせているのです。このとき、耳
  の鼓膜と声帯はまだ分離していません。この「聴覚によって声帯が震える」とい
  うことには、人体に限りなく重要な意味があります。私たちの声帯は、自己主張
  によって自分が何かを語りたいときにだけ声帯が震えるのではありません。人の
  声を傾聴しているときにも、この声帯は活発に震え、そのことによって幼児は母
  語を完全に獲得することができるのです。これは記憶による母語習得とはまった
  く異なっています。
  (・・・)
   人間は言葉を覚え、そして自分の感情や自分の思考を発声という方法で外側に
  伝達するときに、初めて喉の筋肉を使用するのではありません。つまり、自己発
  声によって喉の筋肉が活動するのではなく、喉の筋肉は、私たちが母語を覚える
  以前からすでに活発に活動しています。
   この筋肉は非常に繊細な筋肉なので、幼児はまだ母語を獲得する以前に、周囲
  の人間が語る言葉を「耳を通して」すでに発声するのです。このことを「聴覚発
  声」あるいは「他者発声」と言います。この自己発声に先立つ他者発声は、母語
  獲得にとってもまた人体形成にとっても、限りなく重要な出来事です。言葉を記
  憶し、その記憶に基づいて発声するという自己発声の連続であるならば、けっし
  て私たちは母語を習得することはできません。母語はけっして「習得された」の
  ではなく、他者発声によって「発生した」のです。つまり、お母さんが語るとい
  うことは、もうすでに幼児の中では、自分が語る以前に母の語る通りの振動を喉
  だけが行うということなのです。そしてこの他者発声はほぼ三年間、ゆっくりと
  幼児の中で自己発声へと変化していきます。
  (・・・)
   この鼓膜と喉の一体状態が母語「発生」の第一段階です。この段階で周囲の人
  間が幼児に語りかけても、表面的には何の反応もありません。しかしこのとき、
  喉の筋肉は非常に活発に活動しているのです。この喉と鼓膜の一体である期間が
  充分に存在するということが、幼児における母語発生にとって重要なことなので
  す。そして周囲が語りかけるというこのことが、単に母語発生だけではなく、そ
  の幼児の人体形成にとっても不可欠なことなのです。  
  (笠井叡『カラダという書物』書肆山田/2011.6.30.発行 P.110-128)

ほんとうに話すことができるためには、
ほんとうに聞くことができなければならない。

耳と喉と口。
それはほんとうはひとつなのだ。

嘘をつくためには、
ほんとうに聞いてはいけない。
ほんとうに聞いてしまえば、
口からでる言葉はほんとうにしかならないからだ。

だから政治家たちは、人が語る言葉をほんとうに聞きはしない。
自分が話したい嘘だけを話すためにはそうするしかないのだ。
国会が野次に満ちているのもそのためだ。
ディベートと称するものが対話ではないのも同じ。
議論に勝つためにはほんとうである必要はない。

ほんとうのない言葉だけでできている人がいるとすれば、
その人は宇宙からいったい何を受け取っているのだろう。
宇宙は私たちの源。
その源から何も受け取れないままで、
恐ろしい飢えと渇きを体験しているのかもしれない。
なぜそうなるのかわからないまま、表では微笑みを浮かべながら。

ほんとうに歌うことができるためには、
ほんとうに聞くことができなければならない。

どんなに上手にカラオケを歌うことができたとしても、
その声にほんとうがなければ
その歌はただのコピー・アンド・ペーストにすぎない。
口からでているのは、そんなデジタルライクなデータ。
歌は何もうったえることができずに失速して空中に消えてしまう。
どんなにどんなに歌っても歌を忘れたカナリアほどにも歌えない。

どうしても声がだせなくなるときがある。
だせたとしてもしわがれた喉が締めつけたれたような声ばかり。
自分のなかのほんとうが苦しんでいるからだろうか。
人のほんとうを聞いてあげられないからだろうか。

ぼくの耳と喉と口。
ぼくはそのときいったい何に震えているのだろうか。
その隠された震えはいったい何を教えてくれているのか。
ぼくのほんとう、あるいはまっかなうそ。