風のトポスノート790
自然自身の内面世界
2011.8.16



   動物のカラダを考える上で、「犯してはならない鉄則」があります。たとえ手
  足頭があるからといって、動物たちのカラダを人間のカラダと同等に見てはなら
  ない、ということです。
   動物たちは、自然界と完璧に一体となって生きています。もちろん人間も自然
  界に属していますが、人間は自然界を客体として突き放し、自然からまったく自
  立した存在でもあるのです。しかし動物たちは自然を通して、宇宙全体と繋がっ
  ています。
   ここで言う「宇宙」とはいったい、何を意味しているのでしょうか? 自然の
  姿を私たちは、目や他の感覚器官で直接知覚することができます。けれども私た
  ちが見ている自然は、単にその外側の姿です。しかし人間のカラダのうちに一人
  一人の内面世界があるように、自然界にも、固有の内面世界があるのです。宇宙
  とは、この「自然自身の内面世界」のことです。ですから私たちは、けっして宇
  宙というものを直接に見ることはできません。そして一人の人間の内面と自然界
  の内面としての「宇宙」は、直接一つに繋がっています。人間の内面で生じる愛
  も憎しみも共感も反感も、すべて宇宙に流れ込んでいきます。
   あの夜空に広がる恒星や惑星の世界を、私たちは単純に「宇宙」と呼び、それ
  らの空間を移動する乗物に対して「宇宙船」という言葉をあてます。しかし厳密
  な言い方をするなら、肉眼で見える限り、それらは大自然の姿であり、宇宙その
  ものではありません。宇宙というのは、これらの恒星や太陽や惑星という大自然
  界の「外側の姿」なのではなく、それらの内面世界全体なのです。
   例えば私たちは、飛行機に乗って眼下に広がる山脈や海を眺めるとき、それを
  「宇宙」とは言わずに「自然」として眺めます。そして、上方に視線を向け、そ
  の漆黒の虚空とその彼方に煌く星星を見て、宇宙を感じます。けれども地球から
  はるか遠くの何万光年先の星星も、肉眼で見える限りその姿は、宇宙そのもので
  はなく、大自然の一部なのです。
  (笠井叡『カラダという書物』書肆山田/2011.6.30.発行 P.37-39)
  
人間が人間であるということはどういうことだろうか。
それは「私」であるということではないだろうか。
外から「私」と呼ばれることなく、「私は私である」といえること。
しかもその私は「身体(カラダ)」という自然をもっている。

自然科学の視点でいえば、ある種の保留があるとしても、
私たちはすべて「身体(カラダ)」であって、
そこからすべての意識が生まれてくるということになるが、
それでは私たちのいわば「内的世界」もその一部なのだろうか。
私たちの肉体を隈なく探し回ったとしても
どこにも「私」の内的世界を探すことができないだろう、
せいぜいできるのは、脳のある部分がある種の意識状態に
関与しているだろうということを示すことであって、
それにしても、その脳の部位が内的世界であるということはできないだろう。
つまり、私たちの肉体もまた外的な自然のひとつであるということになる。

もちろん「身体(カラダ)」は、単に肉体であるのではなく、
内的世界と切り離して考えることはできない。
心身一如であるということはそういうことでもある。
そこに広がる宇宙は無限の可能性に向かって開かれている。

私たちが日々疲弊してしまうのは、きわめて即物的な日常のなかで、
「私」という内面生活が牢獄のようになってしまうからなのだろう。
牢獄であるということは、すべてが外的「自然」(機械も含む)になってしまって、
そこになんらの「宇宙」も感じることができなくなっているということである。

禅で「花は紅、柳は緑」的なことがいわれるのは、
通常認識できるのは、単に
山は山であり、川は川、花は花、樹は樹であるにすぎないのだけれど、
それらの「自然自身の内面世界」が開示されていることに気づくからなのだろう。
同じものを見ていても、それはまったく異なっている。

自然科学がその技術によって「もの」をオペレーションするようにするだけでは、
「自然自身の内面世界」はまったくもって開示されることはない。
それどころか、人間も単に「もの」になってしまい、
その臓器さえもリサイクルされるものになる。
あまりにも貧しい「身体(カラダ)」感ではないだろうか。

そうしたときの「あなた」も単なる臓器や身体パーツの集合にすぎないのだろうか。
もちろんそのときの「私」もまったく同様で、そこには何らの「内面」もない。
そして宇宙は偶然の連鎖の塊にすぎなくなる。
そうした「私」が「あなた」を愛するというとき、
その「愛」とはいったい何なのだろうか。

PS
この書物は、主に詩を扱っている書肆山田から刊行されていて、手に入りにくいが、
なまじな神秘学の本よりもずっとカラダ全体に響いてくる名著である。
十数年以上も前、詩人吉岡実の三回忌の席上で、
書肆山田の鈴木一民氏から執筆依頼を受けたものがやっと上梓されたということらしい。
近いうちに絶版になりかねないので、関心のある方は探しておいたほうがいいかもしれない。