風のトポスノート788
心の炎の静め方
2011.5.17



   怒りの感情があるときは、言い返したり、仕返ししたりすべきでない
  ことはすでに学びました。反応するのではなく、まず自分自身に戻り、
  怒りにきちんと対処する必要があります。
   怒りはエネルギーの一つの領域です。それは私たちの一部です。めん
  どうをみなくてはならない、むずがる赤ん坊と同じです。最善の方法は、
  怒りを受け入れ、対処するための別のエネルギー領域を生み出すことで
  す。
   第二の領域のエネルギーは、気づきのエネルギーです、気づきは、ブ
  ッダのエネルギーであり、呼吸と歩行の実践をとおして常に手に入れ、
  生み出すことのできるものです。(・・・)
   エネルギーの第一領域が怒り、第二領域が気づきです。実践とは、気
  づきのエネルギーを使って怒りのエネルギーを認識し、受け容れること
  です。これを乱暴にではなく、やさしく行います。怒りを抑え込むので
  はありません。気づきはあなたであり、怒りもあなたですから、両者を
  闘わせて自分自身を戦場にしてはいけません。気づきは「善」「正」で、
  怒りは「悪」「誤」だ、という考え方はしないでください。怒りはネガ
  ティブなエネルギーで、気づきはポジティブなエネルギーだということ
  さえ知っていればいいのです。そうすれば、ポジティブなエネルギーを
  使ってネガティブなエネルギーに対処することができます。
  (ティク・ナット・ハン『怒り/心の炎の静め方』
   サンガ/2011.5.1.発行 P.90-91)

ぼくはずいぶん長い間、
ネガティブな感情のエネルギーを
どこか「いけないものだ」というふうに思っていたところがある。
そのために自分の感情を押し殺すのを日常化していたりもした。
そのため感情表現がどこかぎくしゃくしてしまい、
多分に無表情なところがあったようにも思う。
そのまま来ていたら、その抑圧されたネガティブな感情が
内からぼくに襲いかかって取り返しがつかなくなっていたかもしれない。

そうしたところはいまもある部分残っていて、
その影響というか後遺症というかのために、
人がネガティブな感情を強く外にだしたりすると、
過剰反応気味になってしまうところがあったりもする。
以前に比べればそうしたところはずいぶん緩和されてはいるが、
まだまだ平然とそれを受けとめるというところまではきていない。
修行が足りていないわけである。やれやれ。
できれば、どんな感情表現でも演技できるようになっていたいものなのだが・・・。

正ー反ー合といった西洋的な弁証法の展開があるが、
ポジティブな感情とネガティブな感情については
少なくともそうした意味での弁証法としてはとらえないほうがいい。
そうでないと、ポジティブとネガティブが対立的になって、
どちらかがどちらかを否定してしまうことになってしまうからだ。

水がさまざまな状態に変化したり、
波がさまざまなかたちをとり、ときには津波になったりもするように、
ポジティブな感情とネガティブな感情は、
すべてはさまざまなかたちで自分のなかにある。
それを部分だけ否定してしまうことはできない。

重要なのは、使い方、育て方なのだ。
馬鹿とハサミは使いよう、ということばがあるが、
自分のなかの馬鹿を否定してしまうのはもっと馬鹿になることだ。
自分のなかのハサミも危ないから使わないというのは情けない。
使えるものは使ったほうがいい。
できれば、馬鹿もハサミもどんどんパワーアップさせて・・・。

そういう意味で、感情のエネルギーの容量は大きい方がいい。
小さなカップ一杯のエネルギーしかないよりも、
大きなプールやダムいっぱいのエネルギーがあったほうが
そのエネルギーをずいぶんさまざまに活用することができる。

とはいえ、制御能力が伴っていなければ、
ダムいっぱいのエネルギーは大変危険なものになる。
その両者は適度なバランスを必要とする。
使いたいときにはたっぷり使うことができて、
危ないときには、しっかり静めることのできる能力が必要である。

感情が豊かであるということは、
かならずしもいわば「感情的な人」というわけではない。
感情の容量が少なくて制御できないだけなのかもしれないのだから。
逆に、あまり感情表現を好まない人がいたとしても、
ひょっとしたら感情の容量がありすぎて、
小さな感情をいちいち表さないだけなのかもしれないこともある。

ともあれ、最初に戻るが、
少しばかりのネガティブな感情エネルギーをぶつけられても、
ぼくのなかに感情の大きなダム湖さえあれば、
そんな感情など風のひとさやぎくらいにさえ感じられるようになりたいものだ。
自分の心のなかを戦場にしたり、病院にしたりしないためにも。