風のトポスノート786
マジックと現実
2011.4.11



世界はマジックに満ちている、
と言ってみる。

魔法のマジックのほうではなく手品・トリック。

手品には種がある。
種がわからないからとても不思議に見える。
逆に種がわかってしまうと不思議でもなんでもなくなる。

先日仕事がらみでマジックの簡単な研修に立ち会った。
そのとき、講師のマジシャンは言った。
決して種明かしをしないこと
それは夢を奪ってしまうことになるから、と。
だいじなのは、驚きなのだ。

どんなに複雑な仕掛けがほどこされていたとしても、
そこに種があって、それをシミュレーションできるならば、
つまりお化粧を外せば、そこには技術という骨格がある。
その骨をあからさまに見せるとマジックにはならない。

人はマジックが好きだ。
なぜそんなことが起こるのか!と
驚くのが好きだ。
マジックの種をとても知りたいとも思う。
そして知ってしまったときに
その驚きが失われてしまうこともまた知っている。

マジックが嫌いな人は、
それを人をだます稚拙な技術だくらいに思っているのだろう。
種さえわかれば驚く必要などまるでない。

世界はおそらく数限りないマジックに満ちている。
だからこそ私たちは日々驚き続けている。
その驚きは喜怒哀楽からさまざまな知的探求にまで及ぶ。
驚かなければ生きてはいけないだろう。
たとえ驚くことがかぎりない悲しみを伴うとしても。
たとえば死のような。

おそらくベールを外してみれば、
種は明かされるのだろう。
しかし最初から種を明かされてしまったときに生まれるものを
わたしたちは欲してはいないのだろう。
だからこそ世界はマジックに満ちている。

種を知りたいと思いながら、
種を決して知りたいとも思っていない。
楽しみを奪わないでくれと。

世界はなぜ存在するのだろう。
ひょっとしたらそれは
マジックを楽しみたいからなのではないか。
そんなことを考えてみる。

しかし、苦しみに満ちたとき、
人はその種を切に知りたいと望むだろう。

むずかしいところだ。

苦しみは目的ではないはずだ、
だから最初から種を教えておいたほうがいい、
そういってしまうこともできる。

そこで失われてしまうものはなんだろう。

マジシャンは二つの真実の間を往復しながら、
私たちに微笑んでいる。
私たちのまずは知り得ないだろう真実と
知り得ないがゆえに存在するだろう生の真実の間を。