風のトポスノート785
「じぶんのリーダーは、じぶんです」
2011.3.24



   「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。
  「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。
   幕末から明治初年にかけて、日本は欧米列強による植民地化の
  瀬戸際まで追い詰められていた。そのとき日本人は例外的に賢明
  にふるまった。東アジアで唯一植民地化を回避し、近代化を成し
  遂げたという事実がそれを証している。
   敗戦から東京オリンピックまでの日本人もかなり賢明にふるま
  った。マッカーサーから「四等国」という烙印を押され、二度と
  国際社会で敬意をもって遇されることはないだろうと呪われた日
  本人は、科学主義と民主主義という新しい国家理念を採用するこ
  とで、わずかな期間に焦土を世界の経済大国にまで復興させた。
   近代150年を振り返ると、「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦
  土」という亡国的な危機において、日本人は例外的に、ほとんど
  奇蹟的と言ってよいほどに適切にふるまったことがわかる。
   そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、
  みごとなほどあっという間にその賢さを失った。
   「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。
   今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質
  的な危うさ」を露呈した。
   だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまう
  ようになる機会」ではないかと思っている。
  (「内田樹の研究室」2011.03.24「兵站と局所合理性について」より
   http://blog.tatsuru.com/2011/03/24_1029.php)

「貧しい環境」で「知性的で合理的に」なって、
「豊かな環境」で「感情的で、幼児的に」なるというのは、
はやくいえば、逆境に強く、順境に弱いということになる。

逆境に弱いよりは強いほうがずっといいけれど、
順境に弱いというのは、悲しい。
日本人はおそらく集合的にはとても賢明だが、
個的になるとどうしていいかわからなくなるということだから。

因果論的にいうのは嫌いだし変な意味合いを持ってしまうのは避けたいけれど、
おそらく日本人の多くが変わるためには、
よくいわれるように「外圧」が不可欠なところがあるように見える。

今後原発を見直す議論も積極的に出てくるだろうけれど、
「東京に原発を」という著書がかつてあったように、
原発ひとつとっても、とくにこんな地震国で
こんなにたくさん原発があるというのがとてもリスクが高いことは、
少しものを考える力さえあれば、だれにでもわかるはずなのに、
これまでは、信じられないほど稚拙な議論がまかり通っていた。
それほどに、日本人は集合的にいって「感情的で、幼児的」だったのである。

上記の内田樹のブログを見たあと、
ちょうど「ほぼ日」の「今日のダーリン」に
それとどこかで通じた話が出ていた。

  「じぶんのリーダーは、じぶんです」と、
  急にぼくは思って、そう書きました。
  「じぶんというじぶんのリーダー」は、
  平和なときには、眠っていてもよかったのです。

  「どうしても、タバコがやめられないんですけど」
  タバコをやめたいんですね。
  「はい、やめたいです」
  やめたいのは、どなたですか?
  「もちろん、わたしです」
  じゃ、やめたらいいじゃないですか。
  「それが、やめられないんです」
  あなたが吸わなければ、自然にやめられますよね。
  「吸っちゃうんですよね、どうしても」
  タバコを、やめたいんですよね。
  「はい、やめたいです」
  ‥‥きりがないんです。
  ぼく自身がそうだったから、よくわかるんですけど、
  こういう場合の「じぶんのリーダー」は、
  「じぶん」じゃなくて「タバコ」なんです。
  いやいや、口で言うほど簡単じゃないのは知ってます。
  なにせ、「ニコチン中毒」なのですから。
  でも、やめられてからだと、わかるんです、
  ああ、「じぶんが、やめる」と決めなきゃ、
  どんなすばらしい方法があっても、
  絶対にやめられるもんじゃないな、ってね。
 
  (・・・)

  だけど、いまは、そう言ってられない状況になりました。
  行くか残るか、うずくまるか立ち上がるか、
  悩み続けるか動き出すか、凝視するか見るのをやめるか。
  決めないままでは、どうにもならないんですよね。
  この経験は、いいことだとも言えるんじゃないかなぁ。
  誰のせいにするのでもなく、覚悟し、選択する。
  じぶんのリーダーとして、じぶんの判断をするわけです。
  ひとつ強くなった人が、次の時代には、
  いままでの何百倍も増えてると思うんですよね。
  (「ほぼ日」今日のダーリン 2011.3.24より)

「じぶん」のことは「じぶん」で決める。
結果がどうなるかはわからないのはあたりまえだけれど、
「じぶん」のことをひとに決めてもらうのは、
集合的に「みんながするようにする」のもふくめて、
やめる機会が来ているということなのだろう。

たとえば、風邪ひとつひくかひかないにしても、
「じぶん」でひかないと決めることは重要なことだ。
ぼくはこの十年ほど風邪をひいていないが、
あるとき、仕事をしているあいだは、ひかないと「じぶん」で決めたのだ。
それ以降、オフのとき以外はその通りになっている。
もちろん結果として風邪をひいてしまう可能性だってある。
しかし、ひいいても仕方がない、とか
ひいたときには医者になおしてもらうんだ、とかいうふうに
思っている人に比べて風邪を引かない率は圧倒的に高いはずだ。
これは決して精神論ではなく、身体的な部分も含めたものである。
ある種の注意力がそこには総合的なかたちで主体的に要求されることになるために、
結果として風邪を不用意にひいてしまうことは少なくなるということである。

集合的に行動するということは、
集合的な魂が賢いときは同じように賢いが
それが愚かになったときには同じように愚かになってしまう。
そこには「じぶん」はいない。
少なくとも「じぶんのリーダーは、じぶんです」とはいえない。

今回の危機的な状況が、
「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦土」のときのようではなく、
「喉元過ぎれば」にならないようでありたいものだ。

二度あることは三度あるのか、三度目の正直なのか。
それは今後次第に、そして「次の時代には」明らかになってくることだろう。
少なくとも今私たちのまわりでさまざまに起こっていることを
注意深く見ていけば、その「気配」を感じ取ることができるように思う。
「買い占め」のような「感情的で、幼児的」な行動や
電力不足のままナイターを強行しようとするような行動がなくなることが
「持続可能な」ものとなりますように。