風のトポスノート782
自由という深淵
2010.12.14



   第二部でアーレントは、「意志」をめぐる問題を、パウロやアウグスティヌスに
  よるキリスト教的な「自由意志」論、中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスの
  意志論などの古典的な議論や、人間の「意志」の自律性を否定するニーチェやハイ
  デガーの議論などを渉猟して、最終的に、「意志」の問題はいずれにしても「自由
  という深淵」に直面せざるを得ない、との〝結論〟に至っている。
   「自由」が「深淵」であるというのはどういうことか?(略)
   私の「意志」が因果法則から「自由」であるということは、因果法則によって支
  配される身体的欲求からも「自由」であるということである。(略)
   という風に考えてみると、普段、〝私の自発的意志〟だと思っているもののほと
  んどが、外界からの影響や、身体の生理的な欲求の複合的な効果として説明できる
  ことが分かってくる。(略)
   しかし「自由意志」が最初から存在せず、単なる幻想だとしたら、「自由意志」
  に由来する「責任」という観念も崩壊し、道徳哲学や法哲学が成立しなくなるおそ
  れがある。(略)
   「自由意志」がそもそも存在しないとしたら、人間を、他の動物とは決定的に異
  なる道徳的存在として扱う理由はなくなる。そのためカントは、「自由意志」の存
  在を証明できないことがわかっているにもかかわらず、道徳を成立せしめるために
  には、「自由意志」が〝ある〟かのように振る舞わなくてはならないという論を展
  開している。
  (略)
   純粋な「自由意志」があるとすれば、いかなる現実的な理由とも関係なく、全く
  もって自発的・無条件に、「私は〜したい」という形で生じてくるはずである。し
  かし、「私」が現に抱いている「意志」が、あらゆる外的な因果法則から〝自由〟
  であり、いかなる現実的な原因にも依拠していないとすれば、その場合の「私の意
  志」はどのように定まっているのだろうか?(略)
   「自由意志」が実在しないと考える場合でも、実在すると考える場合でも、〝意
  志の主体〟としての「私」はそもそも何なのか。「私」は何によって〝私の意志〟
  を定めているのか、よく分からなくなってくる。それが「自由という深淵」である。
  (仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書/2009年5月20日発行 P.178-184)

引用の最初にある「二部」というのは、
アーレントの急逝のため未完になった『精神の生活』の第二部のこと。
一部が「思考Thinking」、二部が「意志Willing」。
三部は書き始められたところで終わった未完の「判断Judging」。

グルジェフの著作『生は「私が存在し」て初めて真実となる』というタイトルにも
示されているように、逆に、「私が存在し」なければ「生」は真実とはならない。
「私が存在」するということはいったいどういうことだろう。

シュタイナーは、「私」について、
「私」といえるのはこの自分だけ、というような
きわめて素朴な言い方をしていることが多く、
『自由の哲学』においても、「思考」の一元論、
つまりは「純粋思考」ゆえに、「自由」であり得る・・・・、
というような感じになっている。
人間はそのままで自由であるわけではないが、
ある意味、対象のない思考、身体に依存しない思考とでもいったものを
育てていくことで、自由を獲得する可能性を得る、という感じだろうか。

実際のところ、これはなんとなくわかったような気にはなるものの、
上記のようなことを考えていけば、
その根拠というのが蛇が尾を噛んでぐるぐるまわっていくような感じになってしまう。

で、カントのいうように、
自由がないということなれば、どうしようもなくなるので、
「ある」ということにしておこうとおいうことになる。
結局のところ、「ブラックボックス」ということである。

で、シュタイナーは、カント的な「認識の限界」を超えるにはどうすればいいかを提案し、
「精神科学」という形でそれを提唱した。
その根拠は、「修行」によって可能となる「高次の認識」であり、
たとえ「高次の認識」を得ていないとしても、それは理解可能だとした。

・・・というようなかたちでシュタイナーの言説を説明していくと、
ちょっと危なそうな感じにもなっていくのだけれど、
実際のところ、そういうしかないところがあるのは確かだとは思う。
しかし、自由があるということにしておこう・・・というような
カントの言い方が説得力があるかといえば、それ以上に説得力はないのも確かで、
考えれば考えるほどに堂々巡りになってしまう。

「自由の深淵」というのは、
「私という深淵」というのと同様で、
それを安易にのぞき込みすぎると身動きがとれなくなってしまうところがある。
「私はだあれ?ここはどこ?」という感じとほとんど違わなくなってしまうのだ。

だから・・・というのではないだろうが、
道元は只管打坐による身心脱落脱落心身・・・ということで
その深淵そのものに心身を置くことで自由たらんとし、
私がここにいて外界がそのまわりにあって・・・という
主観ー客観図式のような素朴な認識を超え真実の生に向かおうとした・・・
という感じでもあるだろう。

そして、シュタイナーは、対象のない思考や純粋思考ということで
「外界からの影響や、身体の生理的な欲求の複合的な効果」等から
自由な思考を得る可能性を示唆し、それに基づいた認識様態と実践を
「精神科学」として示唆したのだが、
「私」というのを物質的な「身体」やその「生理的な欲求」や、
「私」のまわりにある「外界」と切り離して考えたりするというのは、
現代の常識的な認識様態からは大変難しい。
それにもかかわらず、「自由」が「ある」ということにしておこう、
というのは基本的なところで無前提になっていたりする。

そうした、「無前提」に認めているということはとてもたくさんあって、
それらばかりに目を向けすぎると、「深淵」でのたうつしかなくなってしまう。
「私」は「私」の根拠を問題にしその淵源を問題にしつつ、
同時に「私」という足場に立っていなければならない。
しかもその足場はひどく危うく浮動したり移動したり、ときに見失ったりもする。
だからといって、その足場を信仰や固定的な権威などにすげかえるわけにはいかない。
「共同体」などを検討するときにも、そうしたことをブラックボックス化してしまうと、
すぐに、アレントの示唆している「複数性」をスポイルしてしまうことにも関連した
ある種の「全体主義」につながってしまう。

さて、「私」はどこにいる/あるのだろうか。
「私は〜したい」というときの
その「私」とはいったいだれなのだろうか。
問いは深淵に向かう。