風のトポスノート781
「有害な表現」とは何か
2010.12.11



   東京都の青少年の健全な育成に関する条例の制定をめぐって、
  表現規制についての議論がさかんである。けれども、「有害な
  表現」とは何かという根本の問題は主題的には問われていない。
   最初に確認しておきたいのは、「それ自体が有害な表現」と
  いうものは存在しないということである。
  (・・・)
   統計が私たちに教えてくれるのは、わが国が世界でも例外的
  に犯罪の少ない国だということである。殺人事件発生率は先進
  国最低である。ロシアは日本の22倍、イギリスは15倍、アメ
  リカは5倍。2009年には日本は殺人発生件数で戦後最低を記録
  した。
   少年犯罪も同様である。殺人、強盗、放火、強姦といった凶
  悪犯罪が多かったのは1960年前後であり、以後急カーブで減り
  続けている。だから、日本には欧米からも「どうしてこんなに
  少年犯罪が少ないのか」を知りに視察団が送り込まれてくる。
   私の記憶する限り、強姦件数が史上最多であった1958年とい
  うのは「有害図書」に子どもたちが自由にアクセスできるよう
  な時代ではなかった。「有害図書」を売るコンビニもなかった
  し、エロゲーもポルノビデオもなかった。性に関する情報から
  子どもたちは隔離されていた。それでも性犯罪は起きた。とい
  うことは有害図書の流布と性犯罪発生のあいだに統計的な相関
  は見出しがたいということである。
   現在世界で性表現についての規制がもっとも厳しいのはイス
  ラム圏であるが、イスラム圏では他の国々でよりも女性の人権
  が尊重され、性的暴力が効果的に抑止されていると考える人は
  少ない。映画や漫画における暴力表現についての規制がもっと
  も峻厳なのはアメリカだが、そのせいでアメリカでは暴力が効
  果的に抑止されているという判断に与する人も少ない。
  (*内田樹の研究室
  「既視感のある青少年健全育成条例についてのコメント」より
   http://blog.tatsuru.com/2010/12/10_1124.php)

子供たちを「有害」なものから守らなければならない、
という発想でさまざまな規制や運動などを行う際に
抜け落ちてしまいがちなことがある。

「有害なもの」とは何かということ、
それが結果的にどのように働く可能性を持っているのかということ。
「有害なもの」であるとしたら、
それは大人たちにとっても「有害」なのかどうかということ。
そうしたことがよく考えられないまま、
それら「有害」とされるものがブラックボックスのようなものとして、
隔離されていれば「青少年の健全な育成」ができるというふうに
単純に考えられてしまうのである。

大人になれば、自己責任の度合いが強いが、
子供のあいだは環境的に守ってあげないといけない、
というのはある程度あるだろうし、
子供の魂の部分も含めた成長プロセスを考えると
適切でない環境があるというのも確かだろう。

まったく規制を設けないで
「表現の自由」を無制限に適用するというのは極端だが、
必要に応じて課される「規制」というのは、
必ずしも現実的な効果が見据えられているとは言い難い。

大人、子供に限らず、さまざまな「表現」には、
殺人、ホラー、グロテスクなどなど、
これでもか・・・というようなものがあって、
個人的にはそういうものを垣間見るだけで
気持ち悪くなってしまうところもあってうんざりなのだけれど、
そういう「表現」があることと
その「表現」がそれらによって
さまざまなネガティブな行動を喚起するかどうかということは
必ずしも一致するものではないことは確かである。

人間の魂への教育的効果ということでいえば、
ある種の「悪」の要素から隔離することよりも
「悪」の要素への自覚を促すことや
内的な「悪」の「表現」を享受することでそれを解放・変容させ、
外的な表現に短絡してしまうことから守ることになる
ということもあるのではないかと思われる。

人間の魂の成長段階やそのプロセスはひとそれぞれであって、
一律になにかが正しく作用するということを規定することはできない。
「有害」だとされる表現が、結果的にネガティブに作用する場合もあれば、
それがホメオパシー的に、結果的にポジティブなかたちで作用する場合もあるだろうから、
社会的なかたちでの視点をとるとすれば、
対象となる集団全体の魂が、現在ある状況を想定して、
そこで可能な「自由度」を勘案していく必要があるように思う。
要するに、外的な環境をそのままコピーしてしまう可能性が高ければ、
そうでない成長段階に至るまではある種「隔離」する必要がある。
しかし、いつまでもそうしておくことはできないし、
そうしてしまうことで魂はある種の成長をスポイルされてしまうことになる。

問題は単純ではない。
考えなければならない要素はたくさんある。
にもかかわらず、単純な発想で、極端なまでに
勝手気ままにさせすぎたり、逆に規制を強めたりということには
慎重であったほうがいいように思う。

個人的にいえば、
そんなに面倒で堅苦しいことはいわないで、
そこそこ野放図にしていたほうがいいように思うし、
そうしたことが許されている世の中のほうが息苦しくないのだけれど、
なかには、「~はいけない」「~は禁止!」ということを叫ばなければ
生きがいを失ってしまうような方もいるようで、むずかしいところである。