風のトポスノート779
エクリチュールの檻
2010.11.6



   中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法
  のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に
  入れ替えることを求められる。
   「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、
  マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうこ
  とはない。
   そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
   エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。
   バルトが言うように、私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の
  選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由
  はない。
   私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。
   つまり、私たちの自由に委ねられているのは「どの監獄に入るか」の選択だけなの
  である。
  (中略)
   なぜ、そのような制式化された社会的言語が存在するのか。
   これについては、バルトはとくに踏み込んだ分析をしていない。
   そういうものがあって、現に活発に機能していることを指摘するだけで批評的価値
  は十分だと思ったのだろう。
   しかし、社会的言語運用がきびしく制式化されており、自分が所属する社会集団に
  許されたエクリチュール以外の使用が禁止されているのは階層社会の際立った特徴で
  ある。
   バルトはそのことを指摘していない。
   指摘しているのかも知れないけれど、『エクリチュールの零度』のような書物を読
  むのは、フランスの知的階層に限定されており、書いているバルト自身、自分の本の
  内容を理解できる読者をせいぜい「5000人くらい」と値踏みして、この本を執筆
  したはずである(ミシェル・フーコーは2000人程度の読者を想定して『言葉と物』
  を書いたとはっきり言っている)。
   このことが逆照明しているのは、「エクリチュールの構造について理解できる程度
  の社会的階層に位置する人間だけが、エクリチュールの檻から脱出するチャンスがあ
  る」ということである。
   バルトの本が理解できない社会階層の人々(正確には「バルトの本が理解できるこ
  と」の有用性を認める人が周りにいない社会階層の人々)はそもそも自分たちがエク
  リチュールの檻の虜囚であるというような自己認識に至ることができない。
   それゆえ、「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」
  という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位
  置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会か
  ら事実上隔離されているのである。

  (「内田樹の研究室:エクリチュールについて」より
   http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php
   http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1518.php)

プラトンが『国家』のなかで述べている洞窟の比喩というのがある。
私たちは、洞窟の中に閉じ込められていて、
太陽ではなくその影しか見ることができないでいるにもかかわらず、
自分が影しか見ていないことにさえ気づくことができずにいる・・・・。

内田樹の紹介しているロラン・バルトの示唆でいえば、
「エクリチュールの構造について理解できる程度の社会的階層に位置する人間だけが、
エクリチュールの檻から脱出するチャンスがある」と表現しているのが、
洞窟を出て影ではなく太陽の光を見る可能性ということにもなるだろうか。
下部構造は上部構造を規定する云々というのも、
下部構造を社会的階層に置き換えて見れば、同様のとらえ方でもあるように見える。
だから歴史的な発展のための下部構造の変革を必然とすると。

要するに、人は自分の生まれ育った環境や
そこでみずからが選び取った「ことば」やそのありように多く規定されてしまい、
自分がそうしたものにとらわれているということにさえ気づくのはむずかしい。
みずからのとらわれに気づくことなくしてそこから脱するチャンスはない。
ということである。

もちろん、最初の檻に気づいてそこから出られたとしても、
そこもまた別の檻の中であって、もっとも中にあるマトリョーシカから
どんどん入れ子のようになって外にでていこうとする無限構造になっている、
ということもあるのだろうから、
まず自分がとらわれていることに気づくことができるというのは、
最初のきっかけであって、自分が最初の檻から出られたからといって、
そこで安心してしまうということは別の強固なとらわれに身を置くということでもある。
自分は気づいているというさらに強固な思い込み。

現代では、かつてキリスト教において聖書を読むことが禁じられていたり、
特定の階層でしかふれることのできないさまざまな文書などがあったりするようなことは少なく、
原則として、文字を読むことができさえすれば、
機会としてはさまざまな「エクリチュール」に向かって開かれている。
シュタイナーが、かつては秘されていた神秘学的な叡智を
開示していく方向に向かったというのも、現代の基本的な傾向を示している。

しかし現代の問題というのは、おそらく
外的に隠されるということは少なくなったが、
いくらそこにすべてが開示されたあったとしても、
それは内的に隠されてしまっているということなのだろう。
要は、読もうとすればそれを読むことはできるのだけれども、
それを読み理解するという道がそこには欠けている。
文字はそこにあるのだけれど、その意味を解読できない。
まして、なまじ文字が読めると思い込んでしまっているために、
読めていないにもかかわらず、それを読んで理解でこきると思っている。
悪くすると、自分はすでにそれを理解できていると思い込んでしまっている。

現代のメディア環境というのは、そういう錯覚を起こさせるのに十分である。
かつてにくらべ、あらゆる情報にふれる機会は飛躍的に増大している。
たとえば、音楽ひとつとっても以下のような状況にある。

  平均的な十四歳の子供は、一ヶ月で私の祖父が生涯聞いたよりもたくさんの音楽を耳
  にする。今日のiPodには優に二万曲が入る。これは都市のラジオ局七曲のライブラリ
  をあわせたより多いし、狩猟採集時代の先祖が生涯で出会った音楽を部族全部あわせ
  たよりも、数桁多い。
  (ダニエル・J/レヴィティン『「歌」を語る』P-Vine BOOKS 2010.11.3.発行 P.27)

ヴィトゲンシュタインは、哲学の務めは、
ハエをハエ捕り壺から導き出すことだと示唆したが、
そうした「情報」というのは、悪くすると、
私たちを「ハエ取り壺」の中へ中へと導いてしまうこともあるだろう。
自分は外に出ているつもりで、実際は逆のことをやってしまう。

内田樹は、こう示唆している。

   エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しう
  るエクリチュールによってなされなければならない。
   はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。
   自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析
  のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。
   そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。

自分が閉じていることについて
自己認識的でいられるようなことばを
わたしたちは用いることができるだろうか。
しかもそれが、私たちの生まれ育った環境などを超えて
用いることのできるようなそんなことばを。

私たち一切衆生は仏性を持っているにもかかわらず
どうして修行が必要になるのかという疑問をもって宋に渡り
やがて「正法眼蔵」を書き綴った道元や
「となうれば仏もわれもなかりけり なむあみだ仏なむあみだ仏」と言った一遍を思い出す。
前者は極めて難解のようにも見え、後者は究極の易行のようにも見える。
そうした一見対極のように見えるものの振幅のなかで、
私たちは、まずは自分が「ハエ取り壺」のなかにいるのだということを
間違いなく知ることのできることばを持つ必要があるのだろう。
とはいえ、発心が最重要であり、かつ最も困難であるように、
それはその習得が果てしなく困難な「不可能な言語」の「夢」なのかもしれない。