あらゆる人間的営為をことごとく数値化・定量化し、それを「格付け」する
という操作に日本人がこれほど熱中したことがかつてあったろうか。
(・・・)
これはきわめて危険な徴候だと私には思われる。
身体能力にもたらされる変化は本質的に計量不能だからである。
考えればわかる。変化を計量するためには、座標軸のゼロに相当する「変化
しない点」を想定する必要がある。相対的な変化量を確定するためには、測定
枠組みそのものは変化してはならない。だから、「スコア」や「タイム」が数
値的に表示されるスポーツでは、身体の使い方を根本的に変えるということに
つよい抵抗が働くのである。身体運用OSそのものの「書き換え」に際しては、
「何を測定してよいのかわからなくなる」ということが必ず起きるからである。
だが、それまで自分が「能力」の指標だと理解していた度量衡が無効になると
いうのが、「ブレークスルー」ということなのである。
変化量を記号的・数値的に表示せよというルールは「ブレークスルー」とい
うものがありうることを想定していない。価値評価の度量衡そのものが新たに
生成する「パラダイムシフト」を想定していない。
「ものさし」は長さを計測するためのものである。だが、それでは重量も光
量も音量も触感も時間も量ることはできない。そういうことである。世界の厚
み深みについて理解を深めようと思ったら、手持ちの一つの「ものさし」だけ
ですべてのものを計測しようとする習慣を捨てなければならない。
そんな当たり前の理屈が通らない。どこでも、自分の手持ちの、薄汚れた、
ちびた「ものさし」で、この世のすべてのものを計量できると信じている人
々に私は出会う。
「うつろなひと」a hollow manたち。
「うつろなひと」の中は記号で充満している。
(内田樹『武道的思考』筑摩選書/2010.10.15.発行 P.32-34)
私という存在を働かせているOSを想像してみる。
そのOSに乗っているさまざまなソフトウェアを。
OSとそのソフトウェアで可能なことは、
その枠組みの上ではじめて成立する。
逆にいえば、その外にあるもののことは
「世界の外」にあるものとなってしまう。
つまり、意味をもたない。
その「ものさし」で量ることの/計ることのできないものは、
存在しないか、存在しても対応する意味がそこにはないのだ。
ある意味そのOSは「世界観」のようなものだ。
ある「世界観」の内で成立するさまざまな物語や行為やだけを信じてしまったとき、
それ以外のものは、その内にある「記号」では処理できなくなってしまうのである。
トランプでポーカーをしているとき、そこでは将棋の駒が意味を持てないように。
ある世界観において有意味かつ有効な行為をするためには、
そのなかでのさまざまな「ものさし」に習熟する必要がある。
テストの点数だけが有効な場合、それ以外のものは無意味かつ無効になる。
それはそれで、処世術として考慮しなければ生き延びてはいけない。
そしてそれがすべてであれば、それで問題はない。
むしろ有意味かつ有効な行為をするためには、
その世界観にどっぷり浸ったほうがいい。
逆にそうでなければ、うまく生きてはいけないというところがある。
しかし、たとえば、そこでは解決できないような問題、
たとえば「死」というような問題がでてきたとき、
その世界観のなかにあるルールのなかに位置づけ、
その「ものさし」で計ること以外にはなにもできないだろう。
私という存在が、今生きていて、
そこで扱わなければならない問題は膨大であって、
目の前の緊急の問題だけを処理するためだけだけでも
今のOSでせいいっぱいであるかもしれない。
しかし、コンピューターゲームの対戦で全戦全勝を誇ったとしても、
その世界の外では、人は食べて眠り、やがて死んでいかなかればならない。
あらゆるOSに習熟することは困難であるとしても、
自分の内で働かせることのできるさまざまなOSを検討してみることで、
少しはなにがしかの混乱に対応することができるかもしれない。
そのためにも、今自分がどのようなOSで生きているのかについて
考えてみる必要があるのだが、
今使っているOSの内で、別のOSで可能なことを検討することは難しい。
今のOSでは不可能なことを見いだし、
その不可能なことを処理できるようなOSを見いださなければならないからである。
整数だけで成立している世界に、少数や分数、無理数などをどうやって持ち込むか、
キリスト教だけで成立している世界に、どうやって仏教を持ち込むか、とか。
「世界」の外の「世界」への道をどうやって見いだすことができるか。
おそらくそのためにこそ、私たちはこうした極めて限定されている地上世界へと生まれ、
その限定のなかこそ自由なOSを見いだす可能性に
満ちているということなのだろうが・・・。 |