風のトポスノート777
ワンペアを切る
2010.11.1



   あの4ヶ月間に私の身に起こったことーーそれを私はよくトランプの
  ポーカーに例える。ポーカーとは言うまでもなく、5枚の手持ちのカー
  ドのうち好きな枚数だけ山のカードと交換して、ここぞと思う時に試合
  を止め、相手と手札の役を競うゲームである。ルールは便宜的に、納得
  いくまで何度もカードは交換しても良いこととしよう。
   大した数でない1ペアにしがみつきそれをずっと手の中に暖め、あと
  の3枚を何度も交換し続けるプレーヤー、いつまで経っても1ペアから
  進めないでいる典型的プレーヤーのことを想像してもらいたい。勇気を
  出して1ペアを切れば、もしかしたら代わりに奇跡的な手札が流れ込ん
  でくるかもしれないーーでもそのプレーヤーはそれが出来ずにいる。
   しかし1998年の8月12日、ゲーム上に、大量の、それこそ見た
  こともないくらい大量の中国人がやって来て、私の手から私が後生大事
  に持っていた2枚を、いや5枚のカードもろともアッという間にもぎ取
  ってぎゃあぎゃあ喚きながらビリビリに千切り、その代わり適当にそこ
  らから4枚だったり6枚だったりするカードを持ってきてくれるのだが
  それではゲームにならず、我に返って辺りを見れば、カードを盗む者、
  カードを複製する者、カードをただぼぉぉぉっと眺める者などでごった
  返してしまっているのだった。静かに日本で暮らしていた私には全く訳
  の分からぬ光景が来る日も来る日も繰り広げられる中、4ヶ月後、彼ら
  から最後に持たされた5枚(もちろん数は偶然「5」だった)のカード
  を帰りの飛行機で見てみたら、なんと生まれて初めてフルハウスが出来
  ていたーーそれがその時の私に起こったことだったのである。
  (香川照之『中国魅録/「鬼が来た!」撮影日記』
   キネマ旬報社 2002.4.27.発行 P.6-7)

香川照之の壮絶な映画出演記録を一気読みした(ああ、すごい!)。
映画とは、姜文監督の『鬼が来た!』という中国映画である。
このところ、香川照之の出演した映画やテレビドラマなどを
片っ端から読み、著作も読み続けているのだが、
現在の香川照之のあの演技はこうして可能になったのだということが
とくにこの『中国魅録』を読むことでその一端が理解できたように感じた。

香川照之は、この映画に出演し、
否応なく、手持ちのワンペアを切らざるをえなくなったことで、
そのフルハウスを得ることができたという。
得ることができたといっても、
そこにはまったくのノーペアの場合もあり得、
「それがその時の私に起こった」ということなのだが、
それはけっして「たまたま」起こったというのではないのだろう。
起こらなかったとしても、起こったとしても、
それはけっして「たまたま」だということではない。

ぼくは小さい頃(小学校の低学年の頃)、
クジの類やトランプ、花札など、賭け事的なことがあると、
なぜかからだがふるえるほどテンションが高くなり、冷静ではいられなかった。
そして逆に、その後、現在に至るまでむしろそうしたことにほとんど無関心になった。
だから、宝くじなども買ったことがないし、投機的なこともまったくしないでいる。

あれはいったい何だったのだろうと今でもときおり思い出すことがあるのだけれど、
あの体験のおかげで、「たまたま」ということについて、
それが決して偶然だというのではなく、起こるべくして起こっているのであり、
それを博打的なかたちで起こすという毒を含んだ危険性に対しては、
距離を取っておくようになったように思う。
(けれどそのぶん、どこかで臆病になっているところもあるのかもしれないけれど・・・)

重要なのは、そうしたことが起こるまでに、
みずからの小さな「ワンペア」にしがみつかないようにすることであり、
しがみつかないと同時に、単に強い「役」がくるように、
ただただ念じたり祈ったりするのではなく、
そうしたものが「たまたま」くるような「場」を
みずからがつくることに専念するということなのだろうと思う。

なにかが注がれるとしても、
そこに器がなければそれを受け取ることができない。
「来た」としても、それを迎えることができない。
聞こえてきたとしても、それを聴くことができない。
現れてきたとしても、それを見ることができない。

「鬼が来た!」(鬼子来了)というタイトルも象徴的な印象がある。
映画の内容とはまったく関係がないけれど、
その「鬼」は、香川照之が、みずからのワンペアを捨て、
限界にくるまでに準備をすることではじめて
「来た」と迎えることができるまでに至ったのだろう。

そこで、あらためて、みずからをふりかえると、
自分には、そういう限界まで準備をしたような経験がないように思う。
やはりなにがしかの「ワンペア」を捨てるのが怖いのだろう。
無闇に「ワンペア」を捨てるような無謀なことはしないほうがいいだろうが、
「ワンペア」を捨てることなくして、
みずからを変容させることはむずかしいことは確かなのだろう。

さて、自分のうじうじとした「ワンペア」とはいったい・・・・。