風のトポスノート776
観察者と演技者
2010.10.28



   小さい頃の私は、実は昆虫を観察することが好きだった。昆虫の生態を
  一人で見ていて一日が終わっていく、それが学生時代の日課だった。その
  性質はいまだに変わっていない、と思う。
   だから、一応二世俳優と呼ばれているものの、俳優をしていることは私
  にとって苦痛だ。人前で何かを表現することなどに何の興味もない。そう
  いうことには向いていないのだ。むしろ私は、人前で何かを表現している
  人を、じっと観察している方が性分に合っているのだ。
   俳優になってしばらくの間は、演技の意味さえ分からなかった。もとも
  と好きな作業ではないので、向上しようという意識すらも働かなかった。
  だから最初の十年、映画になど全然出られなかった。演技することに興味
  など全くないのに自分がそれを選択してしまったことのストレスが、ただ
  腹の底に溜まっていくだけだった。
   転機が訪れる。一九九八年だった。
   それまでいくつもの現場にいてもわからなかったこと、煮え切らなかっ
  た自分自身を、たった一本の中国映画が瓦解させた。
   はっきりと言えることがある。
   俳優としての私をどろどろの沼地から引き上げてくれたのは、「鬼が来
  た!」という映画だ。姜文という男だ。彼と出会い、私は俳優とは何をす
  べきかを身を以て学ぶことができた。人間として三十三年間ずっと閉じた
  ままだった両眼を、無理に開けてもらった感じがした。
  (中略)
   広大な中国の自然の中で、鷹揚な中国人たちと仕事をすることは、日本
  にいれば細々としたことばかりが気になる私の頭の中を、なにがしか根底
  から転覆させる作用があったようだ。日本では「観察者」でしかなかった
  私が、中国の土の上に両足を据えれば、初めて「体験者」として生きられ
  る錯覚がした。
   どうやら私は、中国に人生を救ってもらっている。中国に触れる度に俳
  優のベクトルが変化して、ただの斜に構えた観察者であるはずの私に、暖
  かい血が通っていくのだ。
  (香川照之『日本魅録』キネマ旬報社2006.10.31.発行/P.3-6)

「世界劇場」という世界観がある。
つまり、この世界は舞台で、
わたしたちはみんなその舞台の上で演技している役者であるというもの。
だれでも一度は考えてみたことのある世界観だと思う。

ことあるごとに思い出すのだけれど、
ぼくの大学の卒論は、
テクスト内的世界及びそのコミュニケーション理論的な枠組みを
その生産及び受容に焦点を当てながら理解するとともに、
そのコミュニケーション構造の「外」にある
「世界劇場」的な視点に歩みだそう・・・
というような、ある意味ではひどく凡庸な結論のものだったが、
実際、その後ぼくがいわば地上をおろおろと歩きながらやってきたのは
その延長線上にあるのかなと思ってもいる。

で、最近とくによくイメージするのは、
手塚治虫の『どろろ』の百鬼丸が
妖怪を退治するごとに失われた体をひとつひとつ取り戻していくように、
自分も日々こうして肉体を持って生きることで
そのようなプロセスを踏んでいるのではないかということである。

だから、「世界劇場」において「演技」するということだけでは、
その「役者」である自分のひとつひとつの体は
まだ自分のものになっていかない。
自分のものにするためには、
たしかにそこに「体験」がなければならない。

もちろんそこには、まず、自分が「世界劇場」において
仮の姿ではあるけれどもまず肉体をもちながら
自分と世界を「観察」していくというレベルがある。
ただ生まれただけでは、「観察」以前であり、
まずはまだ百鬼丸の状態のようではあるけれども、
その状態において自分を「観察者」にしなければならない。

しかし、ずっと「観察者」でいることだけでは、
なぜ自分がこの「世界劇場」において「役者」をしているかがわからない。
「観察者」でありながら、
そこからひとつひとつ自分を「体験者」、
真の「演技者」としていかなければならない。
でなければ、自分という存在の
失われたからだのさまざまな部分を取り戻すことができない。

このところ、香川照之のさまざまな演技やその著作などを通じて、
あらためてそんなことを考えてみたりもしている。
こんなに単純であたりまえのようなことを
ほんの少し実感しかけるだけでもぼくには半世紀ほどが必要だった。
歩みはひどくのろいが、のろのろとでも歩こうとしているだけでも
まあなんとか生まれてきている意味があるのだろうと思ってみたりもしている。
というか、やっと少しだけ生きているかなあ・・・という実感がでてきている。
やれやれ、やっとひとつだけどこかの体を取り戻せたということだろうか。
ぼくのどこかを食ってしまっていた妖怪さん、ご苦労さん。
また別の妖怪探しの旅にでかけるとするか・・・というところ。