風のトポスノート773
妄想とともにあり、かつ妄想から抜け出して生きる方法
2010.10.19



  大 福 みんなで何かするということは、みんなで妄想を共有する
  ということでもあるんでしょうね。
  かっぱ でも、それって、一歩間違えればとても怖いことですよ。
  大 福 そう。身動きとれない泥沼状態になるんでしょうね。でも、
  抜け出す方法はあります。妄想だとわかればいいんです。自分は、
  今、誰かの妄想に縛られていると。
  かっぱ それは難しそうだな。
  大 福 トビウオは、時々海から飛び出すことができるから、海が
  何なのか知っている唯一の魚だ、と言っている人がいました。
  かっぱ うまいこと言うなぁ。
  大 福 自由とはどういうことか知っている人なら、何とかやって
  いけるんじゃないですか。
  (木皿泉『二度寝て番茶』双葉社 2010.10.3.発行/P.183-184)

木皿泉というのは、
大福(男性・1952年生まれ)と
かっぱ(女性・1957年生まれ)の
夫婦の脚本家。
先週始まったテレビドラマ『Q10』の脚本を担当している。
『すいか』や『野ぶた。をプロデュース』、
『セクシーボイス・アンド・ロボ』の脚本も手がけている。

上記引用のある『二度寝て番茶』は、その初エッセイ集。
ぼくがはじめてそのドラマを見たのは、『セクシーボイス・アンド・ロボ』で、
なぜかとても心引かれる脚本だったという印象があったが、脚本家のことは知らずにいた。
木皿泉という夫婦の脚本家であることを知ったのは、このエッセイ集がでたのがきっかけで、
レンタルビデオで『すいか』、『野ぶた。をプロデュース』を見てしまうことに。
もちろん、『Q10』も観ているが、なかなか楽しい。

上記引用は、エッセイ集にある、「小説推理」に連載されていたという
大福さんとかっぱさんのかけあいから。

以上は前置き。

木皿泉の脚本でいちばん惹かれるのは、まるで「妄想」のような部分なである。
それが、ただただ妄想の世界の話だったとしたら、
そのうちうんざりしてしまうだろうけれど、
そうでないのは、「妄想を共有」する話になってしながら、
それを「妄想」であるということがわかっているからなのだろう。

リアリティというのはむずかしいもので、
さもその世界が現実世界であるように閉じた形で描かれすぎていると、
息苦しくて観ていてとてもつらいだろうし、
つらいと同時に、どこかで白けてしまいかねない。
逆にすべてがうそっぽいと、そのうそっぽさが現実になってしまいすぎて、
その世界で意識を遊ばせることに疲れてしまったりする。

重要なのは、嘘だと、妄想だとわかっているけれど、
ときおり現れるそうした妄想もふくめて、
意識を重層化させながら、
そうした破綻していてさえいる虚構世界そのもののなかに、
「真実」を感じることができるということなのだと思う。

事実をいくら積み重ねても、真実にはならない。
むしろ、事実や虚構やさまざまなものが物語になって、
そこに事実を超えた真実が見えたときに、人は感動する。
しかも、妄想をさも事実であるかのように閉じて表現するのではなく、
それらが虚構であることを知っているということが重要なのである。

私たちが生きていくためには、なにがしかの物語が必要である。
日本では自殺者が毎年3万人を超え続けているらしいが、
自殺してしまうというのは、自分の物語が破綻してしまうということなのだろう。
自殺してはいけないからといって、ある種の物語を
盲目的に信じ込んでしまうというのはできれば避けたいところだけれど、
できれば、自分の生きようとしている物語の
そのなにがしかが妄想であることを
ときたま、時々海から飛び出すトビウオのように知った上で、
その真実を生きることができればと思うのだ。