風のトポスノート771
インスタント強兵策の有効性という居着き
2010.10.8



  内田 「小成は大成を妨げる」じゃないですが、ある種の成功体験はそこに
  居着いてしまう危険があるんです。人間を追い込むことで短期的に、一気に
  身体能力を上げる、という事例の先駆となったのは、もしかすると山縣有朋
  じゃないかと。西南戦争の時に山縣は農民を集めてきて官軍の鎮台兵を組織
  しますが、農民で、戦争なんかしたことないわけですから、個々人の身体能
  力は高くない。マンツーマンでは士族出身者と勝負になりません。結果的に
  大量の重火器を投じて辛うじて西南戦争には勝ったわけですが、戦後の大演
  習でなぜ鎮台兵は弱兵なのか、その分析が徹底的に行われた。わかったのは、
  彼らが整列できない、行進できない、要するに「群体」として動けないこと
  です。
   本来の武道修行なら、昔の武士がやったように、状況を俯瞰し、群体のな
  かでの自分のポジションを知り、まわりの仲間と連携できるように個々人の
  能力を育てるべきなのですが、帝国陸軍にはそんな悠長な訓練を施している
  余裕がなかった。だから全員の自我を破壊して、それを同じ型にはめこみ、
  均質化された、一定の共感能力を持つ群体をインスタントにつくり出したの
  です。体罰って、要するに自我を解体するための仕掛けなんですけど、たし
  かに集団的に体罰を喰らっているとチームワークがよくなってしまう。それ
  はまさにそのとき採用されたインスタント強兵策の名残りなんです。戦争映
  画に登場する、海兵隊の軍曹の新兵訓練と同じですよ。軍曹って、まず「お
  前らは全員人間のクズだ」って宣言するところから始めるじゃないですか。
  全員の自我を破壊して、チームとしての一体感をつくるところから。だから、
  仮にめちゃめちゃな訓練のせいで、ひとりひとりの身体能力は下がっても、
  チームとしての共感力は高まる。戦争って、徹底的に集団行動ですから、強
  兵をつくるためにはまず個人の自我を壊すというのは、やり方としては合理
  的なんです。
  平尾 ある意味で「有効」と言ってもいい、と。
  内田 富国強兵の「強兵」モデルとしてはそうです。明治の富国強兵策はな
  んといっても時間との戦いですから、待ったなしです。いまの競技スポーツ
  で「三ヶ月後に大会だぞ」というのと同じ。その時点でのパフォーマンスが
  最高でありえあえすれば、以後の個人の人生なんてどうだっていいんです。
  (内田樹×平尾剛「日本の身体」 『考える人』2010年夏号所収/P.168)

だれだって、すぐに有効な結果がでればいいとは思っているはずだ。
痛みを感じるときにはその痛みをすぐに取り去りたい。
お金がほしいときにはすぐにそれを手に入れたい。
苦しみにせよ快楽にせよ、すぐに望む結果を得たいと思う。

そのことそのものにとくに異議を挟むことはできない。
問題があるとすれば、もしそういう手段がそこにあるとして、
その手段を用いることで副作用としてそこに何が生まれるかということだろう。

軍隊での「インスタント強兵策」的に、もしくは典型的な体育会系的な方法論として
自我を解体させることで「駒」を集団的に機能させるというのは
たしかに有効ではあるだろう。
余計なことは考えるな、ただただ任務を遂行せよ、ということである。

だから、痛みがあるとモルヒネであろうが何であろうが、
痛みさえ取り去ることができればそれでいい。
なぜ自分にそういう痛みがあるのだろうかとか
どうしてそういう病気になってしまったのだろうかとか
余計なことを考えることは必要ない。
医者に求めるのも、臓器が故障したら移植でもなんでもしてくれ、
自分が生き延びればそれでいいということになる。
お金を得たいと思って、どんな手段を使っても結果をだせればそれでいい。
お金はお金であって、汗を流して稼いだお金でも、
お金がお金を生むような手段で得たお金でも変わりはない。
「余計なこと」は「余計なこと」であって、
結果を得るということが重要なことである。
快不快があれば、不快を廃して、快に向かうということが重要である。

そうした思考はもちろん閉鎖系であって、
その思考によって生み出される閉鎖された外にあるものには目が向かない。
そのプロセスといった七面倒くさいものにも目が向くはずがない。
営利企業における「とにかく売上をあげさえすればそれでいい」というようなもの。
もちろん、非営利団体における閉鎖的な自己目的型遂行についても例外ではない。

結果主義であるというのは、それはそれでいいのだけれど、
できればその「結果」というのを短期的な目の前だけのものにするのではなく、
もっとずっと向こうに広がっている「結果」に目を向けるだけで
その「結果」そのものがさまざまなプロセスと広がりをもっていることがわかる。

要するに、お金を稼ぎたいとすれば、そのお金でどうするのか、どうしたいのか、
そのどうしたいのかの先にあるさまざまなものに目を向けるということである。
「勝つ」ことのずっと向こうにあるもの。
「婚活」とかいうのにしても、結婚するということのその向こうにあるものに
目を向けるだけで、そんなにわけのわからない短絡的なものにはならないはずである。

問題は、「インスタント強兵策」の有効性は
すぐ目の前のもの以外のものには適用できないというところである。
「死にたくない」からじたばたするときにさえ、
その「死」の向こうにあるものにはまったく効力がない。
「インスタント強兵策」は
すぐ目の前のものをクリアしたいという「居着き」によって生まれる。
もちろん、目の前のものに立ち向かうということから目をそらせるべきではないだろうし、
その方法をさまざまに模索することは必要なことではあるが、
すぐに結果をだしてしまうことで、それ以外のものが見えなくなってしまうとき、
その「インスタント強兵策」は、とんでもない死出の旅になってしまいかねない。