風のトポスノート770
クローズド・サーキット
2010.10.8



   善とか悪とかいうのは絶対的な観念ではなくて、あくまで相対的な観念で
  あって、場合によってはがらりと入れかわることもある。だから、何が善で
  何が悪かというよりは、いま我々に何かを「強制している」もの、それが善
  的なものか悪的なものかを、個々の人間が個々の場合で見定めていかざるを
  得ない。それは作業としてすごく孤独で、きついことですよね。自分が何を
  強制されているのか、それをまず知らなくてはならないし。
   もう一つの問題は、システムは、それがどのようなシステムであれ、個々
  の人間が個々に決断を下すことを、ほとんどの場合認めないということです。
  たとえば麻原は、教団の人間になにかを強制しようとするとき、まず彼らが
  個々の判断を下せないように訓練します。絶対帰依、と彼らはそれを呼びま
  す。僕はそれを「クローズド・サーキット」と呼んでいます。サーキットを
  閉鎖してしまってそこからは出さずに、上が判断したとおりの方向に、ネズ
  ミみたいに走らせる。そこで人は方向感覚を奪われ、強制する力が善である
  か悪であるかということすら判断できない状況に追い込まれます。
   それがオープン・サーキットであれば、ある程度の個人的判断が可能なん
  です。でも一回閉鎖されてしまうと不可能になる。サリンを撒けと命じられ
  たときノーと言えばよかったじゃないかとか、サリンの袋を持って逃げれば
  よかったじゃないかとか言う人がいますが、クローズド・サーキットに一回
  入ってしまうと、そんなことまずできなくなってしまいます。でも法律的に
  はそれは純粋に犯罪として裁かれなければならないし、裁かれれば有罪にな
  るし、有罪になれば量刑的に死刑判決は避けられない。そういう怖さを、僕
  は法廷でひしひしと感じた。
   麻原がそのシステムを何から学んだかといえば、国家権力から学んでいま
  す。ナチは徹底的な思想教育をすることによって、サーキットを閉鎖系にし、
  ユダヤ人の虐殺を上から指令として押しつけた。たぶんアイヒマンという人
  間自体は悪でも善でもないんでしょう。ただ非常に有能な官僚で、上から与
  えられた課題を実に効率よく、手際よく処理解決していった。彼には、命令
  の内容が善であるか悪であるかということを判断する基準もないし、つもり
  もありません。だから戦後逮捕されてイスラエルで死刑判決を受けたときに
  も、その意味がまったく理解できていない。記録映画を何本か見たけれど、
  どうして自分が死刑になるのか、本人はまるで理解できていない。
   そういう思考の閉鎖性というのは、考えてみたら本当に怖いことです。と
  くにいまのように情報があふれかえったインターネット社会にあっては、自
  分が今何を強制されているかすら、だんだんわからなくなってきている。自
  発的にやっているつもりのことさえ、実は情報によって無意識に強制されて
  いるのかもしれない。
   (「村上春樹 ロングインタビュー」 『考える人』2010年夏号所収/P.34-35)

思考が閉じていると
その閉じた中以外のところが見えなくなってしまう。
「そういうものだ」というのもそのひとつ。
閉じたところ以外の声が聞こえなくなってしまう。
自分のなかに自分でつくった記号以外のものには反応しなくなるのである。

それは自己意識にかかわってくるように思う。
自分が今なにを考えているのかを自分でフィードバックすることだが、
まずそのフィードバックが聞きにくくなってしまい、
その閉じたなかでの「そういうものだ」に反応するだけになってしまう。
フィードバックできたとしても、そのフィードバックの系が閉鎖されているので、
自分ですでに決めている基準以外のものがそこに関わってくることができなくなる。
たとえば、脳がすべてだと決めてしまったときに、
脳以外の作用を想定することが問題外になってしまうようなものである。
「科学主義」的な傾向もその一つで、
スクエアに、科学だと思い込んでいるもの以外の基準が
まったく考慮されなくなってしまう。
ホメオパシーに対する昨今の議論の短絡性もそうだろう。

DVのような暴力の歯止めがきかなくなるのも、
その閉じた系の内側でぐるぐるとまわっているだけなので、
自分がぐるぐるまわっているのを自分の外にでて見てみる、
ということがまったくできなくなってしまうからだろう。
小さい頃暴力を受けるのが状態になってしまっていたから
自分もそういう状態をアウトプットする以外の方法が見つからない
ということなのかもしれない。

シュタイナーは、教育に関する話のなかで、
同じ気質の子どもどうしを並ばせる有効性について示唆しているが、
アルコール依存症の人やDV加害者同士が集まって話を聞き合ったりすることで
そこにある種の気づきのようなものが生まれるということは
ある種のホメオパティックな作用がそこにはあるのかもしれない。
同種の閉鎖系同士が作用することで生まれる気づきのようなもの。
自分を鏡に映してみせられることの有効性というか。

思考が閉鎖系になるというのも
それにはそれなりの理由があるはずである。
閉じていなければ生きていけないだけの理由が。
そして思考の閉鎖系を破る有効なやり方のひとつに
北風と太陽の話にもあるように、
その人の話をじっと聞くというのがある。
(同じタイプの人同士が、互いに話を聞きあうというのも有効らしい)
おそらく、閉じていないと自分が壊れてしまう恐れがそこにはあって、
閉じなくても大丈夫だという、十分に受け入れられているという安心感さえあれば
その閉じた系が開かれていくということなのだろう。

しかし、思想教育によって自分を閉鎖系に置いてしまい、
そこから逃れられなくなっているという状態はなかなかイメージしにくい。
とはいうものの、だれでも多かれ少なかれ、意図的であるか否かによらず、
なんらか洗脳されているところがあるはずだろうから、
それは特殊ではあるけれど、だれにとっても無縁であるとはいえないように思う。

とはいえ、閉鎖系になりやすいタイプと
そうではないタイプというのはありそうに思う。
あくまでも個人的な考えではあるが、
ある種、真面目すぎる人、教えられたことをそのまま受け取ってしまいやすい人、
価値観が固定化されやすくそれが破綻することを恐れる人というのは、
閉鎖系になりやすいのではないかという気がする。

だから、「まあ、ええやんか」「適当にしとこう」「いい加減がいい加減」・・・
というような部分をある程度もつようにするというのがいいのかもしれない。
上から命じられたことをそのまま忠実に遂行すべきだと使命感をもつというのは、
少し間違えば大変な方向に向かいかねないところがあるのではないだろうか。