風のトポスノート769
存在意味と自己表現
2010.10.1



   今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくては
  いけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕は
  こういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単に
  できやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲む
  ほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というの
  は自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけ
  です。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。ま
  ず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい、他者との差
  異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的
  に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここ
  にいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから、タマネギの皮むき
  と同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という
  文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
  (村上春樹インタビュー集『夢を見るために 毎朝ぼくは目覚めるのです』
   文藝春秋 2010年9月30日発行/P.107-108)

村上春樹の読者層の中心は、以前も今も20代から30代だという。
20代から読み続けて50歳を超えたぼくのような読者もいるが、
中心となるのは20代から30代。
その年代に現代人はいったい何を求めているのかということに
そのことは深く関わっているように思う。
そしてぼくが次第に村上春樹の世界にある種のずれを
感じるようになっていることも。

自我の成長の過程で、多かれ少なかれ人は
「今この自分、自分だと意識している存在そのものが無になって死んでいなくなる」
ことについてたとえば夜闇のなかでひどく不安になるはずだ。
そして、「どうせ死んでしまうのだったら今こうして生きていることに何の意味があるのか」
という答えのない問いを繰り返したりする。

「自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもない」
と村上春樹は断定しているが、おそらくそこから村上春樹の物語世界ははじまる。
そんななかでどうやって生きていくのかという問いとともに。

かつては、というか、死への問いを近代的な形で問えない場合、
人は自分の存在しているという意味を
安易に「家族」や「社会」や「国家」、あるいは「宗教」などといったものに投影して
なんとかやりすごそうとしたりもする。
それは「自己犠牲」や「己を空しくする」することを
自己をつきつめることなくして可能にしてしまうことも多い投影の仕方である。

しかし、村上春樹は(というよりは、ぼくの村上春樹作品の読み方はといったほうがいい)
そうしたものへの投影ではなく、
村上春樹の作品のなかにある比喩を使えば、
井戸の底に降りていってその底に通底しているものにふれることだったり、
森に入っていって、そうして森から出てくる、といったことで
なんとか生きていくすべを獲得する物語を紡ぎ出す。

「家族」、「社会」、「国家」、「宗教」を無前提にもってくることでは、
「自己」は生きていくことはできない。
そうしたものに「存在意味」を見つけることなく、
生きていくすべを、そのための物語を、現代人は、
というか20代から30代の自我は身につけなければならない。
要は、その後どうするか・・・ということなのだが。

村上春樹の読者層の中心が20代から30代なのは、
「自己」の身の置き所が不安定な世代だからというのもあるだろう。
そしてその不安定さをなんらかのものに投影しないで生きていきたいという世代。
この本の帯に「回答はあっても、解答はありません」とあるように。

「自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもない」
にもかかわらず、だからこそ、
「自己表現」をしなければならないと切に感じたりもするのだろう。
その呪いをどのように解くか。
安易に「自分がここにいる存在意味」を
既成の物語のなかに解消することなくして・・・・。
村上春樹の試みもそこにあるようにも思うが、
最近ぼくなりに感じている村上春樹の小説に対する感覚のずれ、というのは
その解消のされ方にあるのかもしれないと思ったりもするが、
そのこともこれからも読み続けていかなければなんともいえないとも思う。